第七十四章 聖水と白薔薇
薔薇作りで名高かったベネディクトの父のローマンシェード伯爵は、とても信仰深く、多額の寄付と共に毎年薔薇の鉢植えを教会へ贈呈していた。
そしてある日、シスターから薔薇の色が変化してしまったので見てもらえないかと言われ、教会の裏側へ連れて行かれた。
そして自分が贈呈した薔薇の花を見てビックリ仰天してしまった。教会には派手な色合いは相応しくないだろうと、伯爵は毎年白薔薇を送っていたのだが、半年前に贈呈したその白薔薇に色味がついていたからだ。しかも幻の青い色だった。
「一体どんな手入れをしたのですか?」
と尋ねても、ただ毎日の水とたまに肥料を与えているだけだとシスターは言った。
しかしそんな訳がない。何もしないで白薔薇が青く変色する訳がないのだ。そこで、ワインの残りでもこれにかけたんじゃないのか! と聞けばシスターがハッとしてこう言ったのだそうだ。
赤ん坊を洗礼した後、残った聖水を勿体無いと思って、白薔薇にかけていると。
そこで、伯爵は白薔薇の鉢植えを更に二つ贈呈し、片方にだけ聖水を、もう一つの鉢植えには普通の水を。そして青く変色した鉢植えにも、これからは水だけを与えて欲しいと頼んだのだそうだ。
するとその結果、青く変色していた薔薇はそのままで、後で贈呈した白薔薇のうち、聖水を与えた方の白薔薇だけが青く変色していた・・・
「父は教会から聖水を分けてもらい、青薔薇の研究をしたいと言い出しました。
しかし兄が反対したのです。聖水は子供の洗礼の為のもの。趣味に使うなんてもっての他だと。
兄のモットーは質素倹約、上に立つ者は下の者の見本にならなければなはない、領民の納めた税金で奢侈な趣味を楽しむなんて以ての外だと。
兄の事を融通の利かない者だと思われる方もあるでしょうが、兄の考えは間違っていないと思うのです。
青薔薇を流通させられるくらいに栽培出来れば、領民の為にもなるでしょう。しかし聖水がなければ青薔薇を作れないのなら、それは無理ですからね。研究したいのなら、ポケットマネーで出来る範囲で研究するべきでしょう?」
「兄上は間違っていないと思いますよ。それに伯爵はおやめになったのでしょう?」
パークスが言った。
「ええ。でも、結局家は取り潰しになりましたが……」
と、ベネディクトは悔しそうに呟いた。するとレオナルドがそんな彼に珍しく同情的な労りの目で見ながらこう言った。
「もしかしたら、君の兄上、チャールズ卿はその青薔薇のせいで罠に嵌められたのかも知れないな……」
と・・・
「どういう意味でしょうか?」
「君のお父上のおかげで教会の方は聖水に青薔薇を作る力があると知ったのだろう? あいつらの事だから、それを金儲けに利用しようとすぐに思いついただろうさ。
好事家というのは己の欲を満たすためならいくらでも趣味に金をかけるからな。
しかもライバルがいれば尚更熱が上がって見境がなくなる。
教会がそれを利用したのさ」
ベネディクトが瞠目した。
「ローマンシェード伯爵が仲間に入れば問題はなかったのだろうが、息子の反対で彼はこの青薔薇研究会の集まりに参加しなかった。
故にもし青薔薇作りが成功した時にそれを発表したら、教会が聖水を融通している事を伯爵、いやご子息のチャールズ卿からいつ糾弾されるかわからない。
そこでチャールズ卿に罠を仕掛けて思想犯という冤罪を作り上げたんだ。犯罪者にしてしまえば、彼らが何を言っても取り上げられる事はないだろうと。
まあ、兄上がヴェオリア公爵の政敵だったせいもあるのだろうが……」
「そんな……。兄が逮捕されたのも、父が自殺に追い込まれたのも、大元はあの青薔薇のせいだったんですか? たかがあんな薔薇のせいで、我が家は潰されたんですか?
父親は信仰心が強く真面目で優しい人でした。悪い遊びもせず、ただ母の好きだった薔薇作りだけが唯一の趣味だった。それなのに……許せない!」
ベネディクトは震える声で呟いた。彼の胸中を察すると皆何も言えなかった。
レオナルドの友人ケイシーの父親も趣味に目がない人間だった。黄金を収集する事に盲目になり、脱税や誘拐などの大罪を犯して侯爵家を潰した。
しかし、ベネディクトの父親は純粋に薔薇作りを楽しみ、家族や教会を訪れる人を喜ばせようとしていただけだった。
そんなただ実直に生きていた人物を、自分達の欲のために利用した挙げ句、家族全員を破滅させたのだ。
許せないとレオナルドも思った。教会もヴェオリア公爵も。
「王妃殿下とトーマス卿がベネディクトを亡命させたのは正しかったと思う。逃さなかったら教会の秘密を知る者として、絶対に命を狙われただろう」
「旦那様、どうか明日私も教会へ同行させて下さい」
ベネディクトはこう懇願したが、主は頭を振った。君の気持ちはわかる。しかし残念だが君の腕ではいざという時に太刀打ち出来ないから危険だと。
それよりも青薔薇研究会のメンバーの調査をしてくれ給え… これも重要な任務だからと彼の肩に優しく手を置いた。
そしてこうも言った。
「君にもしもの事があったら、父上や兄上の名誉回復を一体誰がするんだい? あいつらを叩き潰すために今は堪えてくれ」
と……
最初はヴェオリア公爵とは無縁だと思われた青薔薇愛好家グループは、人身売買グループと同等の悪党だという事が判明した。
そして残りのヴェオリア公爵家一派の連中は、公爵家と教会を繋ぐ連中だろうか…
家の名前を聞いても、すぐに思い出せないくらいの家の者だった。
しかし、これらの連中の事もアンクルトに一応調べて貰うことにした。
そして本日の会議はここまでにした。明日は教会に調査に入るのだから、体調は万全にしておかなければならない。
レオナルドは部屋に送り届けた妻からこう言われた。
「旦那様、ベネディクトさんのお兄様の事、どうにかならないのでしょうか?」
「僕の立場でははっきりした事はいえないが、王太子殿下や宰相閣下に相談してみるつもりだ。
今なら王太子殿下に陛下から権限が委譲されているし。少なくとも彼の現在の状況は把握出来るかも知れない」
夫の言葉に妻はホッとした顔をして微笑んだ。妻は確信していた。夫ならなんとかしてくれると。
それにしても教会とヴェオリア公爵はなんて罪深いのだろう。
人は皆罪を犯すものだ。しかし、そんな人々に寄り添い、導くのが教会で、その教会と共に民や国を守るのが貴族だろう。
それなのによくも私利私欲のためにこんな残忍非道な真似が出来るものだ。
人の面をした悪魔というのは、ああいう人間をいうのだろう。お話に出てくる恐ろしい形相した悪魔なんて、実際にいやしない。だからみんな騙されるんだとミラージュジュは思った。
しかし天然の彼女にもわかっている。教会やヴェオリア公爵家一派の罪を暴き、それを公表して裁けば済むという単純な話ではない事を。
ただの破壊では世の中に混乱をきたすだけだ。その変革の前には、再生の道筋を先にきちんと立てておかなければならない。
夫のこの先の厳しい試練や困難を思うと、妻の身体は震えた。自分には大した事は出来ない。しかしそれでも側にいて、少しでも夫を癒やせる存在でありたい。
ミラージュジュは夫に身を寄せると、初めて自分から夫に唇を寄せた。そしてこう言った。
「私を旦那様の側にずっと置いて下さい。私には何も出来ませんが、それでも共に居させて下さい」
レオナルドは驚きの表情で妻を見た。それからすぐに満面の笑みを浮かべて、今度は自分の方から妻に深いキスをした。そして愛しい妻の息が切れ切れになるまるで、その柔らかな唇を離そうとはしなかった。
「君を離すわけがないだろう? 逃げ出したって世界中どこまでも追いかけるに決まっているだろう」
深いキスで頭がボーッとしていた妻は、夫に言われた恐ろしい言葉の意味がよくわからないまま、コクリと頷いたのだった。
そしてザクリーム侯爵家で会議が開かれた翌朝、主を始めとして皆がそれぞれ自分のすべき事を粛々と開始したのであった。
主のレオナルドは宰相室で昨夜判明した事実を王太子と宰相に報告し、今後の対策を練った。
主の護衛として共に登城したジャックスは城に残っているヴェオリア公爵家一派の動きを調べた。
奥方のミラージュジュと侍従のアンクルト、侍女のナラエは、主の書斎で教会に出入りする者のさらなる洗い出しに励んだ。
ベネディクトは青薔薇研究のメンバーについて調べに出かけた。
執事のパークスと侍女長マーラは、今夜高貴な客人を迎える準備を始めた。
そしてノアとトーマスは聖職者の服装をし、近衛第二騎士団と合流して教会へと向かったのだった・・・
読んで下さってありがとうございました!




