第五十二章 トムの真名(しんめい)
この章のタイトルにある真名は本当の名前の事で、小説などで使われる言葉です。辞書には載っていないと思いますが御了承下さい。
「旦那様、それはどう言う意味ですの?」
「彼の主と是非話がしたいと人伝にお願いしたらね、まずトムに聞くように言われたんだよ。
そしてその後トムを連れてきたら話をしてもいいと」
「それは誰なんですか?」
妻の質問に夫はフワリと微笑んでから、ベネディクトを見た。
「王妃様ですか?」
「その通りだよ、ベネディクト…
君はあの落石事故を命じたのは王妃殿下じゃないと言っていたよね。あの方は厳しくも立派な方で、卑怯な真似をする訳がないと。
その通りだよ。あれは国王陛下の指示で行われた事だ。陛下はご自分の不始末をご自分の手で処理なさろうとしたのだ」
主である侯爵のこの衝撃的な言葉に、その場にいた全員が衝撃を受けて呆然とした。俄には信じられないような話だったが、やがてトムがボソッとこう呟いた。
「まさか、まさか陛下が……」
「陛下は全ての真実に気付かれたんだよ。わかるよね、これがどう言う意味なのか…
王妃殿下や宰相閣下は急激な変化は望まず、これまで地道に事を進めてこられた。
しかし、陛下はヴェオリア公爵家の悪事を知ってしまわれた。
そしてご自分がそれに乗せられて、正妃殿下に冤罪をかけて苦しめてこられた事にようやく気付かれたんだ。
そして後悔に苛まれた陛下は直ちに行動に移されたという訳だ。
まあ、その罪滅ぼしが正妃殿下がお生みになった息子の暗殺未遂だなんて馬鹿げているけどね」
「王妃殿下がアダムズ殿下を亡き者にしようなどと望む訳がありません。
たとえ廃嫡なさっても息子として愛し続けるに決まっています。あの方ほど情の深い方はいらっしゃいません」
トムは真っ青な顔をしていた。
「分かっていますよ。陛下は信頼していた臣下や側妃殿下の裏切りによるショックで視野が狭くなり、それによって浅慮な行動を起こしてしまったのでしょう。
しかしその結果、目的を果たすどころか関係のない者達まで巻き込んだ事で、更に落ち込んでおられるのです。
まあ今のところはそのせいで大人しくなさっておられるが、この現状がまずい事だと言う事は貴方にもわかるだろう?」
侯爵の言葉にトムは力なく頷いた。
「貴方がさっさと真相を話してくれていれば、もっと早く対処ができたというのに。
もう一刻の猶予もないんですよ。ヴェオリア公爵一派に気付かれないうちに、こちらも対抗出来るだけの準備を整えて置かなければならないのだからね」
トムはその言葉に真っ青になってその場に崩れ落ちた。
「貴方は自己犠牲が忠臣だと思っているようですが、貴方は『王家の影』じゃないんですよ。
それくらい自分の頭で状況判断出来ないとまずいでしょ。貴方が王妃殿下のお考えを一番理解しているなら尚更。
私の妻はまだ十八で、社交界デビューしたばかりでしたが、今回の事故後の処理を一人で立派にやり遂げましたよ」
夫の賛辞の言葉に妻は驚いた。夫に感謝はされたが、その成果について認めて貰っているとは思ってはいなかったのだ。
「私は・・・」
トムは何かを言いかけたが、言葉が続かなかった。恐らく話す気にはなったものの、どこから話せばいいのかがわからなかったのだろう。
「貴方の本当の名前を教えて下さい。真名を言わない相手の事は信頼出来ませんから」
ミラージュジュの言葉にトムはこう答えた。
「トーマス=カートンと申します。通称トムです。奥様には嘘をつきたくなかったので…」
トムのこの台詞にレオナルドは顔には出さなかったが、心臓に針を差し込まれたような痛みを感じた。
この男は真実は語らなかったが妻には嘘をついてはいないのだ。自分とは違って……
「君は隣国の出身なのだろう? 王妃殿下の輿入れの際にこちらに来たのか?」
「はい。でも、どうしてそれをご存知なのですか? 大分昔の事で知っている者もあまりいないはずですが」
「訛りというか、アクセントが少し隣国に似ているからな」
トムは瞠目した。彼は王妃殿下が隣国の姫だった頃から護衛を務めていた。
そして姫がこの国の王太子と結婚する際に、姫の護衛として一緒にやって来て以來、この国の家臣となってずっと過ごしてきたのだ。
この国に来てもう四半世紀も経つというのに、まだ故郷訛りが抜けていないとは。
「訛りなんかありましたかね、トムさんに?」
ベネディクトが頭を捻ると、ジャックスはある事に気付いたようだった。
「そう言えば単語の頭の部分に、わずかですがアクセントを付けて話をしてますね」
「確かにそうですね。我が国ではアクセントはあまりつけませんが、つけるとしたら二番目の母音ですよね」
パークスもこう頷いたので、ミラージュジュとノアとベネディクトは驚いた。
彼らはトムのアクセントの違いに全く気付かなかったし、言葉に違和感など感じなかったのだ。
容姿がすっかり変わっていたノアとベネディクトを、昨日すぐにこの屋敷の中へ入れたのは、姿形ではなく、声や喋り方やアクセントで本人だと確信したからなのだろう。
侯爵家の使用人達の優秀さを改めて思い知ったミラージュジュだった。
「侯爵様のおっしゃる通りです。私は王妃殿下と隣国の橋渡しの役目をしてきました。
しかし信じて下さい。私は隣国のスパイなどではありません。私は、私は王妃殿下とともに、この国の為に働いてきました。
しかしこの国の改革には時間がかかり、当時はまだ、この国の行政力では目の前で苦しんでいる人々を助ける事が出来ませんでした。
ですから仕方なく裏の手を使って彼らを隣国へ逃がしました。それしか解決方法がなかったのです」
トムの必死な訴えに、ベネディクトとノアも彼を庇った。彼のおかげで自分も仲間達も命を救われたと。
隣国だって綺麗事ばかりじゃない。スパイとして利用もされてきた。しかし、この国にいる時よりずっとましだったと。
「お二人の気持ちはわかりますよ。
トムさん達がなさった事を批判するつもりなんて毛頭ありません。
むしろこう言っては叱られそうですが、人道的にご立派な事をなさったと思います。
でも、この国の高官である旦那様の前で、二人のその物言いは失礼です。
貴方方はご存知ないでしょうが、旦那様はまだ幼少の頃からこの国の疑問点を把握し、その対策をずっと練っていらしたんですよ。
まだ子供で何も出来ないというジレンマに耐え、精一杯努力なさってきたのです。
そしてこの国のために、学園入学前に早々とご自身の進路を決めさせられ、高官としてその重責を負いながら、ひたむきにその任務を遂行されてきたのです。
その旦那様に、まるで何もしないで手をこまねいた様に聞こえる言い方は許しません」
ミラージュジュは嫁いで来てから、義姉達や執事のパークス、侍女長のマーラから幼い頃からの夫の事を色々聞いていた。
そして、数日前に夫の友人であるケイシーから、二人の馴れ初めのエピソードを綴った手紙をもらっていたのだ。
ミラージュジュが凛としてこう言ったので、護衛の二人はハッとした。彼らは決してそんなつもりで言った訳ではなかった。
レオナルドが外交官として隣国で獅子奮迅の働きをしていた事は、むしろミラージュジュよりも知っていたからだ。
二人が批判したかったのは、国の上層部や親の世代の貴族達の事だった。
しかしそれらの批判さえレオナルドが自分の咎として受け取ってしまう可能性がある事を失念していた。
普段ホワンホワンとして天然気味のミラージュジュにしては珍しい厳しい表情に、二人だけではなく他の人々も息を呑んだ。
「精一杯頑張っている者に、更に何かを要求する人を私は軽蔑します。望みがあるのならば人には頼らず、まず自分から動かないといけません。
平民だろうが貴族だろうが、豊かだろうが貧しかろうが、やろうと思えば何かしらやれる事はあるのですから」
ミラージュジュは二人に言っているというよりは、ここにはいない有象無象の者達に向かって、心の内にあったもやもやを吐き出しているようだった。
そう、彼女自身はいついかなる時も、彼女に出来る事を肩肘張らずに自然にやっていた。
誰に頼まれたわけでもなく、誰に命令されたわけでもないのに、己の頭で考えて、自分の出来る範囲の事で行動していた。
もっとも他人から見たら、とてもそんな小さな女の子が出来るとは思えない、という事ばかりしていたが……
「すみません、旦那様、ミラージュジュ様、失礼な物言いをしました」
「本当にすみません。旦那様には感謝してます。配慮のない、まるで自分達が被害者のような発言をお許し下さい」
ノアとベネディクトの謝罪にレオナルドは苦笑いをした。
彼は自分が他人から冷酷無比だと呼ばれている事を知っている。
相手が誰だろうとはっきり物を言うし、きつい言い方をあえて口にする事もあるからだ。
こちらが強く出ればその反動も当然大きくなる。それは当たり前の事だと考えていたので、さっきの二人の物言いなどはなんとも思ってはいなかった。
ただ、妻の反応があまりにも意外だったので、正直その辺を転げ回りたいくらい嬉しかった。あの普段穏やかな彼女が自分の為に怒ってくれた事に。
そしてミラージュジュがあんなに冷めた目でノアを見るのは初めての事で酷く驚いた。
彼女(彼)には申し訳ないが、自分の気持ちの方を優先してもらえた事に、レオナルドは有頂天になったのだった。
読んで下さってありがとうございます!




