第五章 初めての夜会
いよいよ夜会のお話です!
王宮の夜会当日のマーラからのアドバイスは、とにかく背筋をピンと伸ばしているようにとの事だった。自信の有り無しは背筋に現れると。
なるほどとミラージュジュは思わず納得した。実家にいる頃は、身を守ろうと無意識に背を丸めていた。アンジェラ先生からはよく注意を受けていたが、先生がいない時は周りがみんな敵だったので、不安で仕方なかったのだ。
学園に入ってからは教師達に指摘されて直したつもりだったのだが、油断するとすぐに丸くなってしまうのだ。
それからもう一つ。表情を顔に出さないのは淑女として当然だが、作り笑顔だけはするようにと。無理だと思った場合は扇子で口元を押さえて、目だけ弧を描けば誤魔化せると。
そして答え辛い質問は夫に丸投げすればいい・・・マーラはこの言葉を主の前で言った。彼は苦笑いをしていた。
マーラの教えは新米侯爵夫人に大きな力と勇気を与えてくれた。
馬車の中で夫は妻にこう言った。誰でも始めから上手くはやれないのだから、たとえ失敗してもそう気にする事はない。それと、なるべく自分の側から離れないようにと。
ああ、やっぱりこの人は優しい。とミラージュジュは思った。本当に愛している人が別にいるとしても、だからといって自分に対する態度を極端に変えるつもりはなかったのだと嬉しくなった。
『真実の愛』を見つけた途端に、落ち度のない婚約者に平気で冷たい仕打ちをするような、そんな男ではないのだと。
以前はかけていなかった黒縁の眼鏡のせいで、夫の表情がよくわからない。
だから結婚後ずっと、自分を不愉快なものでも見るような目つきで見ているのではないか? そう不安になって怖くて顔を合わせてこなかったが、そんな事はないのかもしれない。
馬車が止まって外側から扉が開けられると、夫が先に降りて妻に手を差し伸べた。
その後夫が差し出した腕に、妻が自分の腕を軽く組ませると、二人は会場に向ってゆっくりと歩を進めた。
なるべく足に馴染ませようと、ミラージュジュは靴を買ってから五日ほど履き続けていた。
しかし今までハイヒールを履いた事がほとんどなかったので、靴がまだ彼女の足にはしっくりしていなかった。
もっと早く歩かなければ、夫の歩調に合わせねばと気が急くが、転んでしまうのでは…と妻は焦った。
無意識に力の入っていた彼女の腕を、夫が軽くトントンと触れた。そして耳元でこう囁いた。
「慌てる事はない。ゆっくりでいい」
妻は驚いて顔を見上げて夫の顔を見た。彼は普段通り無表情だったが、妻の顔に不思議そうな顔をした。
「どうした?」
「いいえ、何でもありません」
ミラージュジュはそう答えたが、彼女は夫のスマートなエスコートに驚いたのだ。あまりにも自分の兄とは違うので。
去年のデビュタントの時、彼女のエスコートをしたのは兄だった。当時婚約者のレオナルドは外交官として隣国にいたからだ。
その日に初めて履いたハイヒールのせいで踵がすぐに痛くなった。それなのに兄にグイグイと引っ張られ、あまりの痛みで兄の腕を振り払うと、鬼のような顔で睨まれて、その後は放置された。
エスコートとは相手に付き添う事、相手に合わせる事だという当たり前の事に、ミラージュジュはようやく気が付いた。そして兄が未だに婚約者が出来ない理由も。
広間に入ると、二人は一斉に人々から注目された。若き侯爵で、いずれは外務大臣だと目されている外交官。しかも眉目秀麗で社交界一美形でありながら、仕事上滅多に社交場に現れない幻の貴公子が登場したのだから無理もない。
しかも女性連れだ。婚約者がいるらしい、という噂があったが、彼女か!
周りがざわついた。若い女性達はその連れの女性について詮索を始めた。しかし、ある程度の年齢以上の女性は、そそくさと娘を別の若者へと誘導しようとした。というのも、その連れの女性が着ているドレスを見て、それを準備したのが誰かをすぐに思い浮かべる事が出来たからだ。彼女は侯爵の妻に間違いないだろう。
王族が着席すると、身分の上の者から次々と挨拶をしに御前に近づく。
筆頭侯爵であるレオナルドは公爵家に続いて妻を伴って両陛下に挨拶をした。
ミラージュジュは頭を垂れて視線は両陛下の足元に向けたが、背筋をピンと伸ばしたまま、見事なカーテシーを披露した。その堂々とした態度に周りからため息が漏れた。
「陛下、我が妻、ミラージュジュでございます。以後、お見知りおきの程よろしくお願いします」
「ほう、そなたがザクリーム侯爵夫人か。顔を上げられよ。
ほう、若くて美しい貴婦人の伴侶を得られて、侯爵も幸せだな。家庭を持った事だし、今後のさらなる君の活躍を期待しておるぞ」
「ザクリーム侯爵夫人、是非とも私達のお茶会にもおいで下さいね」
「お誘い頂きありがとうございます。身に余る光栄でございます」
ミラージュジュは王妃にもカーテシーをし、その後、王太子夫妻や第二王子夫妻にも挨拶をして、王族の側から離れた。
「立派に挨拶が出来た。大したものだ。ありがとう」
思いがけなく夫に褒められて、妻は破顔した。しかしそれを見て瞠目した夫に、失敗したと慌てて扇子で顔を隠した。
しかし、その一瞬のミラージュジュの弾けるように輝く笑顔が、周りにいた紳士達のハートを貫いたようで、次々と二人に声をかけてきた。
そのほとんどが夫レオナルドの同僚だったり、学生時代の友人達だった。
ミラージュジュは夫に言われた通り余計な事は一切言わなかったが、挨拶に来た者達の名前や爵位や仕事などを全て把握していたので、さりげない言葉の中にその情報が混ぜ込んであって話が盛り上がった。
妻が彼らから高い評価をされた事を夫は理解した。ただし、そのやっかみなのか、ミラージュジュの服装のせいなのか、彼らの婚約者や女友達からは罵詈雑言の嵐だったようだが。
そしてその後、次々と夫にとって面倒な相手がやって来たのだった。
「あら、珍しいこと。パーティー嫌いな貴方でも、さすがに王家の主催だと参加するのね、レオナルド…」
「あら違うわよ。新妻を紹介するために致し方なかったのよね? レオ…」
「スージーお姉様、カレンお姉様、先日は素敵なお花を贈って頂き、ありがとうございました」
ミラージュジュは夫の姉である公爵夫人と侯爵夫人にカーテシーをした。
「気にしないで。愚かな弟に代わって少しだけ罪滅ぼしをしたいだけだから。ねぇ、お姉様」
「ええ。それと、私達には妹は一人で十分だわ、と教えてやりたかっただけだから・・・」
「・・・・・・・・・・」
「それにしても、最低だとは思っていたけど、本当にクズだったのね、我が弟は。これは私達に対する嫌がらせなの? こんなものを妻に着せるなんて」
夫の姉達とも三年の付き合いがある。いや、ずっと他国へ行っていた婚約者よりも、むしろ彼女達との方がずっと親密であり情を通わせていた。
故に弟が愛人を囲った事を快く思っていないのだろう。そして、義妹に対して申し訳なく感じているのだろう。
しかしそれはある意味弟である夫を思うからであり、妻はそんな義姉達の情を嬉しく思ってしまった。
人前だけ白々しい言葉を紡ぐ実家の家族よりよほど優しいと。
「初めての夜会に妻にドレス一つ新調してやれないなんて、情けないわね。ああ、他所で浪費しているからお金が回らないのね。気の毒ね」
「ジュジュ、今度私が貴女に似合う素敵なドレスを贈って差し上げるわ。不甲斐ない弟に代わって」
「私などにはもったいない事です。お言葉だけありがたく頂戴致します。でも、とても嬉しいです。
お義姉様方には教えて頂きたい事が山のようにございますので、今度是非また色々と相談に乗って下さいませ」
「もちろんだわ。でもあの屋敷にはお邪魔したくないので、どうか拙宅で開くお茶会にいらしてくださいな」
「まあ、スージーお姉様にご招待して頂けるのですか? 嬉しいです。是非ともその節には新種の薔薇を拝見させて頂けないでしょうか。『プリンセス・スージー』を。とても気品があって高貴な香りを持つと今評判ですもの」
「ええ、もちろんよ」
「うちにも是非来てね」
「はい、カレンお姉様。フレッド様にお会いしたいです。もう、よちよち歩きをなさっているとお聞きしています。早くその可愛らしいお姿をこの目に焼け付きたいですわ」
「そういえば、貴女に作ってもらったよだれ掛けが可愛らしいと評判なのよ。ありがとう」
「まあ、使って頂いているなんて嬉しいですわ」
母親とは又違う意味で面倒臭いあの姉達と、こんなにもにこやかに会話をしている妻に、夫は内心驚いた。
婚約を交わした三年前は、暗い顔をして、人と碌な会話も出来ない娘だったのに。そう。結婚式前日に久し振りに再会した時、確かに印象が変わったとは思っていたのだが……
読んで下さってありがうございました!
次章も夜会のお話です!