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第三章 夫婦の晩餐

 結婚して数日経ったが、ミラージュジュは予想外に穏やかに暮らしていた。

 真の奥様とはまだ一度も顔を合わせていない。挨拶をしに行くことも禁止されていたので。

 愛妾は屋敷の一階の一番左奥の部屋で、正妻の彼女の方は三階の右奥と一番離れた部屋で過ごしている。それ故にたまたま顔を合わさないのか、それとも周りの者達に配慮されているかはわからないのだが。

 

 使用人達は一切本妻の前で愛妾の話はしない。さすが侯爵家。しっかり教育されているようだ。

 しかしただそれだけではなく、どうもこの屋敷の者達は、愛妾を快く思ってはいないようだった。

 そのせいか、ミラージュジュは思ったほど冷遇されなかった。むしろ周りの人々は親切かつ優しく接してくれたので、彼女は幸せだった。

 今までは家族だけでなく使用人からも無視され、誰からも関心を持たれなかったからだ。

 

 それからさらに三週間ほど過ぎ、その間夫とは三度夕食を共にした。

 会話らしいものはそれほどなかったが、特段酷い言葉を投げかけられる事もなかった。

 むしろ、最初の晩餐の時、なにか不便な事はないか? 何か足りないものはないか? と尋ねられたくらいだ。その時彼女は何もありませんと答えた。本当に何も欲しい物などなかったからだ。

 

 ただ二回目の晩餐の時に、書斎の本を読ませて欲しいと頼んだ。手芸以外する事がなくて困っていたからだ。すると自由に読んで良いと言われ、嬉しくなって思わず微笑みながら感謝の言葉を述べると、何故かそっぽを向かれた。

 

 笑顔が不気味だったのかと焦って、彼女は慌てて頭を下げた。

 幼い頃から両親や兄から愛想が無く可愛げがないと言われ、必死に笑みを浮かべると、今度は気持ちが悪いと叱られていた。

 

 だから顔をあまり人に見せないように俯く事が多く、彼女は人前ではほとんど笑った事がなかったのだ。

 それを失念していた。あまりにこの屋敷の居心地が良過ぎて、つい気が緩んでしまったのだろう。

 

 ところが夫は怒った訳ではなかったようで、

 

「何か要望が出来たら、執事のパークスに申し出るように…」

 

 そう言うと、一足早く食事を終えて席を立った。

 

 初めて夫と食事を共にした時、レオナルドの食事のスピードがかなり速かったので、二度目の晩餐の際は妻は必死に両手を動かし、急いで咀嚼して飲み込もうとした。しかも出来るだけマナーを守りつつ。

 しかし二品目に手を付けた時、夫は食事を途中で止めて言った。

 

「私は多忙なのでこのように早食いをしているが、君がそれに合わせる必要はない。

 そんなに慌てて食べたのではろくに咀嚼が出来ていないだろうし、美味しさも感じないだろう? 君は君のスピードでゆっくり味わって食べるといい。

 せっかく我が家の料理人は腕がいいのだから味わって食べないともったいない。

 それと、君に好き嫌いはないと聞いたが、本当か? 遠慮しているなら正直に言いなさい」

 


 学園の寮に入るまで、ミラージュジュは厨房の残り物しか食べた事がなかった。家族、特に父親が娘と食事の席を共にするのを嫌がったからだ。

 

 近衛騎士だった父親は食事をするのが早かった。戰場ではいつ食事が出来るかわからない。食べられる時に短時間で食べる必要があったからだ。

 彼は幼い娘がのそのそ食べるのが腹立たしかったらしい。

 

 それならば父親が居ない時くらいは母親や兄と食事を共にしたかったが、父親が怖いからと二人は彼女を無視した。その上、娘がどこで何を食べようが気にもとめなかった。

 主一家が無視すれば、使用人達も図に乗る。どうせ叱られないのだからといい気になって、主の娘であるミラージュジュを軽んじ蔑ろにした。

 

 使用人達はミラージュジュの食事を作らなかった。

 ミラージュジュは生きていくためには何でも口にしなければならなかった。故に好き嫌いなどある筈もなかったのだ。

 

「あ、あの、私にご配慮して頂き嬉しいです。私は本当に好き嫌いはございません。こちらで頂くお料理はどれも美味しくて、本当に幸せです」

 

 ミラージュジュはまたもや無意識に笑顔でこう答えた。するとずっと無表情だった夫の顔が僅かだが緩んだように見えた。

 

 この後まだ仕事があると言って執務室へ向かう夫の背中を見つめながら、妻はこう思った。

 結婚初日は泣いてしまった。不幸のどん底に落とされた気分だった。しかし翌日からは彼女はもう不幸ではなかった。

 

 夫には愛されていないし、これからも愛される事はないのだろう。しかし嫌われてはいないようだ。

 そして、超多忙の中でもそれなりに気に掛けてもらっている事がわかる。

 なんてありがたいことか。本当に幸せだと彼女は思った。

 

 そう、考えてみればこの結婚はそう悪いものではなかった。あの家から出る事ができて、あの人達とはもう顔を合わせる必要もない。

 使用人との関係も良好で、快適な部屋と美味しい食事も頂ける。なんの不満もない。いや、寧ろ申し訳ないとさえ感じる。

 

 この暮らしがいつまで続けられるのかはわからない。しかし、今は奥様と呼んでもらっているのだから、これからはこの家の為に何か役に立つ事をしなければ……それを探したいと彼女は思った。

 

 そして三回目の晩餐の時、夫が席を立ち上がる直前に、妻を見ずにこう言った。

 

「一週間後に王宮の夜会に夫婦で招待された。君の初披露の場となるからしっかり準備をしておくように。

 支度の準備については、侍女長マーラと侍女ナラエに相談したまえ」

 

 すると妻は『はい』と素直に応じた。

 ミラージュジュは夜会というか、舞踏会というものにはまだ一回しか参加した事がなかった。しかもその一回というのも、半年前のデビュタントだった。

 故に初日に白い結婚を告げられた時、もちろん大きなショックは受けたが、それなら社交をしなくても済むかもと、一瞬だけ期待してしまった。もちろん、けんもほろろに却下されてしまったが。

 

 しかし、社交もしないなら無駄飯食らいになるつもりか、夫からそう言われて妻は畏れ慄いた。それでは実家に居る時と同じではないかと。それでは自分の存在意義がなくなってしまうと。

 

 そこで彼女は、屋敷に慣れた数日後から、いずれ訪れるであろう社交場に向けて出来るだけの準備をしてきたのだ。

 学生時代のマナー教本を読んで復習し、執事から貴族名鑑を借りて、なるべく上位貴族や夫の仕事関係者と思われる者の名前と爵位と役職と家族関係、そして顔写真を覚えていった。

 それから、ダンスが得意だという執事にダンスの練習の相手をしてもらった。彼は教えるのが上手で、ミラージュジュは自分がみるみるうちに上達していくのがわかった。

 それと同時に実家の両親が頼んでいたダンス教師が、教えるのがイマイチだったという事もわかった。

 

 そう、ライスリード伯爵家では跡取りである息子には、幼い頃から勉強もダンスも剣術も一流の教師をつけていたが、信じられない事に娘のことは放りっぱなしだった。貴族の家としてあり得ない事だ。

 

 ただ唯一ミラージュジュにとって運が良かったのは、彼女が物心がついた頃、学園を卒業したばかりの男爵の令嬢が行儀見習いとして屋敷にやってきた事だった。

 なんとその令嬢がミラージュジュの家庭教師も兼ねてくれる事になったのだ。

 

 アンジェラというその男爵令嬢は大変利発な上に情があり、伯爵家の異常な状況をすぐに理解した。お嬢様に関わると主夫婦に睨まれる。それを理解した上で、上手く立ち回りながら彼女に勉強を教え、生きる為の知恵まで授けてくれた。

 

 アンジェラはミラージュジュにとって姉であり、教師であり、女神だった。

 アンジェラは結婚して伯爵家を辞めるまでの三年の間に、彼女にいわゆる読み書き計算、及び裁縫という、生きていく上で必要最低限の基本を教えてくれたのだ。

 基本さえわかっていれば、どうにか自分の努力でなんとかなると。そして別れの際にこうも言ってくれた。

 

「お嬢様は何も悪くありません。この家がおかしいのだという事だけは、決して忘れないで下さいね。世界は広いのです。この家だけが全てではないという事も。

 私は人として生きるために必要な最低限の事はお嬢様にお教えしました。後はお嬢様の努力次第です。どうか強く生き抜いて下さい」

 

 アンジェラがいなかったら、何一つ自分の頭では考えられない人形になっていただろう。そして心身に暴力を受け続けても逃げ出す事すら出来ず、学園へも進学しなかったに違いない。

 

読んで下さってありがうございます!

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