第十五章 夫の懇願
パークスの的確な情報のおかげで、レオナルドの優秀な頭脳はあっという間に状況を把握した。
翌朝、レオナルドはまだ誰も起きて来ないうちにベッドから出ると、パークスの肩を借りて隣室へ向かった。頭の痛みは大分引いていたが、四日間もベッドの中にいたので、足元がふらついた。
病室のベッドにはピンク色の派手な髪の女が横たわっていて、そのベッドの側にはまだ若そうな女性が、椅子に座って付き添っていたが、主の姿に気が付くとその場で立ち上がり、一礼した。
その女性は女としてはかなり背が高く、しまった体つきをしていた。見覚えはないはずなのに、濡羽色の髪にエメラルド色の瞳が美しく、キリッとした顔付きで、何故か既視感を覚えた。
彼女が隣国からラリーナと共にやって来たという侍女の一人だろう。
ベッドから離れた場所で自分の愛人だという女性を凝視した。それは間違いなく第二王子の恋人だったラナキュラス=ボンズ男爵令嬢だった。
胸糞悪い。天地がひっくり返ってもこんな女を愛するわけがない。触れるどころか顔を見るのも嫌だ。
レオナルドはすぐに身を翻して自分の部屋へ戻った。
そしてベッドの端に腰を下ろし、これまでに集まった情報を整理した。そして朝日が昇った頃には、すっかり現在の状況を理解し、これからどうすべきかの結論を出していた。まあ、記憶がすぐに戻るかどうかもはっきりしないので、今のところはこちらから積極的に仕掛けるつもりはないが。
いずれにせよ、愛するミラージュジュを苦しめるこの状況を作った奴等を絶対に許すつもりはない。レオナルドの金色の瞳には、激しい復讐の炎が燃えたぎっていたのだった。
久しぶりに宿でゆっくりと睡眠を取ったミラージュジュが病室を訪れてみると、ベッドの中には夫の姿がなかった。
サーッと血が引いたが、後ろから声をかけられて振り向くと、夫のレオナルドが執事のパークスに支えられて立っていた。
「おはよう、ジュジュ!」
「おはようではありません。どちらへ行かれていたのですか? そんなお体で」
「ああ、御不浄だよ。そろそろ自分で歩いて行けと医師に言われたんでね」
夫は自分の足だけでベッドにたどり着き、そこに腰を下ろした。
「まあ、そうなんですか。もう横になっていなくてもよろしいのですか?」
「頭の痛みは大分引いたんだよ。そのかわりに寝過ぎて腰が痛いんだよ。
足の筋力も数日寝ていただけて大分弱ったから、今日から少しずつ体を動かして行こうと思っているんだ」
「わかりました。でも、無理はなさらないで下さいね」
「ありがとう」
結婚して初めて普通の夫婦の会話みたいな事をしているわ。妻はそう思った。
結婚してからずっと上司と部下のような業務報告だけをしていたからだ。
「奥様、交代で休ませて頂きますので、後はよろしくお願いします」
「ありがとうパークスさん。
ゆっくり休んで下さいね。宿に朝食の準備が出来ていますから。
リリアナさんと、護衛の方にもそう伝えて下さい」
「わかりました。ご配慮ありがとうございます」
パークスが病室を出て行った後、夫は妻に言った。
「君には色々と迷惑をかけてしまってすまない。
君の采配は素晴らしいとあのパークスがほめていたよ」
「まあ、本当ですか? あのパークスさんにほめられるなんて僥倖ですわ。
パークスさんほど優秀な執事さんなんていないもの」
「ああ、そうだな。
でも何故そんな優秀な執事に僕は何も相談しなかったのだろうな? 相談していたら君をこんなに手こずらせなくて済んだだろうに。
自分一人でなんとか出来ると、若気の至りで驕っていたのかな?」
レオナルドが自虐気味に笑った。夫はこれまでの経緯をパークスから聞いて落ち込んでいるのだろう。
そしてパークスにさえ話していたら、もしも…の時でもきちんと対処出来たであろうにと。
「旦那様はいつも冷静沈着で泰然となさっていて、驕るような方ではありませんでしたよ。
ただ旦那様はお優し過ぎただけですわ。
相手が相手なだけに家の者達に累が及ばないように、関わらせなかっただけだと思います」
「優しい? この僕が? 君にこんなに酷い事をしたのに?」
レオナルドは瞠目した。
「ええ」
とミラージュジュは微笑んだ。
「私達は契約結婚で、しかも白い結婚でしたが、それでも一応夫婦でしたから、隠しても貴方の優しさはわかりましたよ」
「契約結婚? 白い結婚? な、なんだそれは!」
レオナルドの金色の瞳がこれ以上無理だというほど、見開いた。
それを見てミラージュジュは慌てた。
彼女の言い辛い事を全て、パークスが彼に話をしてくれたものだと、ホッと気を緩めてしまっていた。
しかし、契約結婚と白い結婚の事は当然二人しか知る訳がなかったのだ。
夫はベッドからおりて床の上に座り込むと、両手を突き、頭を下げた。
「許してくれ。いや、殴って欲しい。君の気の済むまで何発でも構わないから。
でも、お願いだから離縁しないでくれ。僕を捨てないでくれ。
こんな事を言う資格がないのはわかっている。
だけど、君と離れたくない。君を愛しているんだ。信じてはもらえないかも知れないが……」
妻も慌てて夫の前に跪いて彼の手を取った。
「止めて下さい。侯爵様が妻にこんな事をするものではありませんわ。
それに二年前の貴方に謝って頂いても仕方がないですもの」
妻の言葉の意味がわからず、夫は少し頭を傾げた。
そんな仕草に思わずかわいいと彼女は一瞬キュンとしてしまった。
「ですから、二年前のレオナルド様が本当に私を愛して下さっていたという事は信じます。ですから、謝って下さる必要はないのです。
だって、私を裏切ったかも知れないのは、その後、記憶をなくしている間の貴方ですもの。
その記憶のない貴方に謝って頂いても意味がありませんもの」
「確かにその通りだ。だが、図々しいと思われるだろうが、僕にはどうしても、自分があの女性を愛したとは思えないんだ。
そして僕が君を裏切れるとは思えないんだ。
だって、君だけを子供の頃からずっと好きだったのだから。君だけを見つめてきたのだから」
レオナルドは子供のように金色の瞳から涙をこぼしながら、必死にこう言い募った。
あの冷静沈着で冷たく感じられた雰囲気は、今は微塵も感じられない。
恐らく、レオナルドの言っている通りなのだろう。
色々と総合的に考えれば、夫は両親の命令であの第二王子の要望を受け入れたに違いない。
義両親は妄信的な王族崇拝者で、しかも保守派の重鎮だった。
それ故に彼らは第二王子からの要求に応じたのだろう。
しかし、夫は自分が侯爵になった事で反旗を翻そうと、秘密裏に少しずつ事を進めていたのに違いない。
相手が相手なだけに周りに迷惑をかけないように誰にも相談せずに。
それならば何故あの時点で私と結婚したのか、それがよくわからないのだが。
自分なんかと結婚してもメリットなんか何も無いし。寧ろ第二王子派から抜けるつもりで事を進めるのなら、保守派の娘なんて邪魔者でしかない。
それに真面目で優しい彼が契約結婚や白い結婚なんてするのは、精神的にかなり苦痛で重荷に感じたはずだ。
社交をさせる為に妻が必要だと言ってはいたが、そんなに急いで結婚しなければならない理由としては弱い。
子供の頃から好きだったと言われた。たしか以前王宮の夜会に出席した時も、婚約前からの知り合いだと言っていた。
一体いつ夫に会っていたのだろう?
こんなに綺麗な人、いくら子供の時だとしても、一度会っていたなら覚えていると思うのだが……とミラージュジュは思った。
私をずっと好きだったから、早く結婚したかったと彼は言った。
でも本当にそうなら、嘘でも白い結婚だなんて言えるだろうか?
こればかりは、今目の前にいる夫ではわからないのだ。本当の事は…
「貴方の記憶が戻ったら、その時に本当の貴方の気持ちを聞かせて下さい。
それまでは信じるも信じないもないのですから。
とりあえず、それまでは結婚当初の約束通りの関係でいきましょう」
ミラージュジュがこう言うと、レオナルドはとても切ない顔をした。
そして甘えるような顔をしてこう言ったのだった。
「わかったよ。ただ、ハグだけは許してほしい。キスは我慢するから」
と……。
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