第十三章 夫婦の戸惑い
夫レオナルドの本音が出てくる話です!
ミラージュジュは病床の夫に対して、その接し方にかなり苦悩していた。
というのも、記憶喪失の今の夫と記憶を失う以前の夫とでは、彼女への接し方が全く違ったからだ。
レオナルドは妻の顔を見る度に破顔し、まるで女神の如く輝く笑顔で見つめるので、彼女は眩し過ぎてまともに夫の顔を見られなかった。
しかも、ベッドの脇に腰を下ろすと、すぐに彼女の手を取って放さない。そして何度も何度も彼女の手を自分の口元に寄せてキスをした。
彼がその先を望んでいるのは、さすがに鈍い妻でも察してはいたが、自分から顔を近づける勇気はなかった。
「早くベッドから出て君にキスをしたいよ」
夫が臆することなくこう言った時、妻は思わず上半身を後ろへ引いたので、さすがにその綺麗な片眉を少しだけ釣り上げた。
「ねぇ、僕達は結婚しているんだよね、ジュジュ?
それなのに、何故そんなに僕を避けようとするの?
僕達の結婚生活は上手く行っていなかったの?
まさか、そんな事はないよね?
僕が君に嫌われるような真似をしていたとは思えないんだけど」
夫の言葉に妻の顔が引きつった。
上手くとはどういう事でしょうか?
あなたが望んでいた契約結婚としてなら、とても上手くいっていたと思いますが、その場合はこんなスキンシップは必要ありませんでしたよね?
白い結婚はもちろん秘密でしたから、月に数回夜の訪問を受けていました。
しかしそれは、侯爵家の領地経営や、今後の侯爵家の方向性を話し合ったり、貴族社会の派閥や人間関係について夫からレクチャーされたり、逆にお茶会で知り得た情報を夫へ伝えたり、…
そしていつも旦那様はソファーで丸くなって寝ていましたよね?
返事に窮している妻に何か感じ取ったらしい夫は、妻が席を外した際に侍女のナラエに、再び同じ質問をした。
すると、侍女の顔も引きつっていた。しかも、妻とは違い、彼女はあからさまに不快感を醸し出していたので、彼は正直戸惑った。
レオナルドにとって妻ミラージュジュは初恋の相手であり、ずっと恋焦がれた相手だった。
その彼女と婚約するために、彼はかなりの労力を要したのだ。
何故なら幼い頃に彼女との婚約話を、彼の一存で拒否していたからだ。
レオナルドの両親は子供を親の所有物だとして、自分達の思うままに扱って良いものだと信じているような親だった。
子供達は衣食住の些細な事まで全て決められていた。
しかし、そのうち年子の姉達が力を合わせて徐々に反抗を始め、次第に、特に母親に逆らうようになっていった。
それに母親は必死に立ち向かっていたが、二対一では分が悪くなってきた。そして最後の砦として末息子を囲い始めた。
レオナルドはそれが息苦しくて堪らなかった。だから十歳の時に初めて婚約者の話が出た時、相手の少女の事など全く知ろうともせずにその話を拒絶したのだ。
このままでは自分の人生が親の言いなりになってしまうと、恐怖を抱いたからである。
しかしその直後に偶然街で知り合って恋した少女が、その婚約者候補の令嬢だったと知り、まるで雷が落ちたような衝撃を受けた。
ミラージュジュとの婚約話を受けたいと言ったが、たとえ正式なものではないとしても、一度断った相手との婚約話など出来る訳がない、と父親から激昂されたのだ。
それは当然の事であり、彼は絶望のドン底に落とされた。
それから彼は自分の価値を高め、稀有な存在となり、自分の意見を通せるような人間になろうと決意した。
その結果、彼の必死な努力は報われて、将来は外務大臣か官房長官かと評される人間になった。
そして主席で学園を卒業後、大嫌いなライスリード伯爵に頭を下げて、ミラージュジュへ結婚を申し入れたのだった。
伯爵は自分の娘には関心がなく、娘の価値など全くわからない愚かな者だったので、あんな娘で本当によろしいのですか?と、娘の意見も聞かずにあっさりと認めてくれた。
この時の喜びと言ったらとても言葉では言い表わせなかった。
しかし、彼女に有無を言わせないやり方で婚約をしてしまったので、心が痛んだ。
その詫びの為にもこれからは彼女に尽くして、時間がかかっても良いからゆっくりと自分を好きになってもらおうと思った。
ところが婚約した途端、レオナルドは外交官として隣国への赴任が決まってしまった。
しかし、離れ離れになっても、少しでも彼女の心に近づきたくて、彼はまめに手紙を書いた。
そして珍しい物を見つけると、彼女にそれを送った。
それに対し、彼女もすぐに丁寧な手紙を返してくれた。
会えなかったが、頻繁に手紙のやり取りをする事で、お互いの事を気持ちを正直に伝え合い、語り合った事で、二人の仲は深まっていったと思う。
そして彼女が学園を卒業したらすぐに結婚しようと決めて、その日が来るのを一日千秋の思いで隣国で待っていた・・・筈だった。
それなのに、ふと気付いたら見知らぬ病室で、婚約者が自分の事を見下ろしていた。
一年半ぶりくらいだろうか。ミラージュジュは酷くやつれていたが、以前より大人びて美しくなっていた。
何故急に隣国にまで彼女が見舞いに来てくれたのか不思議だったが、久しぶりに彼女に会えて嬉しかった。
しかし彼女はレオナルドが何か喋るたび、彼女に触れる度に驚いたり恥ずかしがったりするので、そのリアクションに違和感を覚えた。
そしてそれから間もなくして、それこそ衝撃的な真実を知らされたのだ。
なんとレオナルドは三日前に馬車で移動中、落石事故にあって頭に怪我をして、約二年間の記憶を失っているというのだ。
しかも半年ほど前に父親が脳梗塞で倒れて下半身麻痺になったために引退して、母と共に領地へ引っ込んだという。
そしてレオナルドが侯爵位を継承し、赴任先から戻ってきた。だから、今現在は隣国ではなく自国で暮らしているらしい。
そして一番驚いたのは、レオナルドが既にミラージュジュと結婚をしているという、その事実だった。
「結婚? 僕とジュジュはもう夫婦なのかい?」
「はい、そうです。結婚して四か月が経ちます」
「信じられない… 信じられないよ。君が僕の妻になってくれたなんて。早く君と結婚したいとずっと願っていたのに、目が覚めたらもう結婚していたなんて、まだ夢を見ているようだよ」
レオナルドは大変な状況に陥っているというのに、満面の笑みを浮かべていた。
それを見て、妻は複雑な顔をしていた。彼女はその時、こんな事を思っていた。
あの結婚初夜、契約結婚と白い結婚を言い渡されて、ミラージュジュは泣いた。
婚約中の手紙ではあんなに優しかったのに、あれは全部偽りだったのかと。
政略結婚で嫌嫌結婚をするのなら、最初から優しくなんかしないで欲しかった。そうすれば期待などしなかったのにと……
でも、夫の今の様子は浮気の許しを得る為に、必死に媚を売っているようには見えない。
本当に自分を好きだと思っている事が、ジンジンと伝わってくる。
という事は、少なくとも二年前までは、夫は私の事を本当に愛してくれていたという事なんだろうか……
でもその後ラナキュラス様に会って、彼女が真実の愛の相手だと気付いたという事だろうか……
しかし、スキャンダルまみれの彼女を正妻には出来ないため、屋敷の西側を彼女のスペースにして囲い、世間体を守るために私と契約結婚したのだろうか?
ミラージュジュはこんな事を考えているうちに悲しくなった。
所詮これは自分の妄想なのだとわかっている。
夫が本当に自分を愛してくれていた事があったのかなかったのかは、夫の記憶が戻らないとわからない。そしてその記憶が戻れば、夫はまた元の夫に戻ってしまうのだろう。
夫に嫌われていないなら、それで自分は幸せだと思っていたが、やっぱりそれは自分を守るための嘘だった。
愛されないのは辛い。自分以外の人を愛している夫の側にいるのは辛い。
記憶を無くした今の夫の甘い言葉に惑わされてはいけない。そうミラージュジュは固く心に誓った。
そんな妻の様子を見て、レオナルドはおかしいと思った。
記憶をなくしている間に、自分は妻に何か酷い事をしてしまったに違いない。
まずそれを確かめなくてはとそう決心して、彼は侍女のナラエに尋ねたのである。
「ねぇ、僕とジュジュは結婚しているんだよね、ナラエ? それなのに、何故彼女はあんなに僕に触れられるのを避けようとするの? 僕達の結婚生活は上手く行っていなかったの?
まさか、そんな事はないよね?
僕が彼女に嫌われるような真似をしていたとは思えないんだけど」
と・・・・・
読んで下さってありがとうございました。




