第十二章 初動対策
話の中に王子妃の母親が隣国の末姫という文章がありますが、これは誤りで、正しくは王子の母親、つまり正妃が隣国の末姫です。
訂正させて頂きます。
侯爵夫人は執事パークスとだけ情報を交換するようにした。
その際大事な情報は面倒でも文字にし、読み終えたらその場で焼却する事にした。どこに王家の影が聞いているかわからないからだ。
他の者達を信用していない訳ではないが、夫に確認する前にやたらと使用人に話をしてしまってはいけないと思った。それに、彼らに余計な不安を与えたくはなかった。
足を骨折したトムに対しては、警護担当の二人に交代で監視してもらい、医療関係者を含め、接触者を厳しくチェックしてもらう事にした。
ラリーナことラナキュラスには元々ヴィラの侍女である二人に世話を頼んだ。こちらも狙われる恐れがあるが、正直なところ、こちらに警護人を付ける余裕はない。
いざとなれば彼女の実家のボンズ男爵家に連絡をして援助を受けてもいいが、彼らがどういう態度に出てくるのかはわからない。
彼女がどういう経路で修道院を出たのかがわからないが、関わりたくないと思っている可能性の方が高いのではないだろうか。
彼女が自分と話をしたがっていると侍女から聞いた。
夫の記憶がない以上、彼女から話を聞くのが一番手っ取り早いとは思うが、どこまで彼女が正直に話すかはわからない。
それならばなまじ聞かない方がいいとミラージュジュは思った。不正確な情報は事態を混乱させ、対策を誤らせるからだ。
ミラージュジュは自分の代わりにラナキュラスの話を聞いてあげて欲しい、そうリリアナに頼んだ。
それにしても、ラナキュラスの立場は複雑で微妙で、本人もさぞかし困惑しているだろうと侯爵夫人は思った。
彼女は夫の一応愛人とはなっているが、実際はどれほどの関係なのかはわからない。
ただし、彼女がかつての恋人とまだ関係が続いているのは間違いない事実だろう。何度も侯爵家の屋敷で逢引し、こうして一緒に旅行をしていたのだから。
しかしそのかつての恋人は、大怪我をして血まみれの彼女を見捨てて自分だけ逃げたのだ。
今回の事故が誰かに仕組まれたものだという事を、彼女はまだ気付いていないだろう。
それでも、あの男と関係を続けるのはもう無理だとは感じているにちがいない。
では彼女は今後どうしようと考えるのか? もし実家に戻れないとすれば、夫を頼ろうとするのは目に見えている。
彼の記憶がないと知れば、これ幸いと自分に都合よく二人の関係性を訴えてくるかもしれない。
現在のところ、侯爵が記憶喪失だと知っているのは医療関係者を除けば、妻である自分と執事のパークス、侍女のナラエ、そしてヴィラの方の侍女であるリリアナだけである。
医療関係者にはラナキュラスにショックを与えるといけないので、夫の症状については話さないで欲しいと伝えた。
すると守秘義務がありますから大丈夫ですよ、と言ってもらえた。
もちろん、それなりのお礼を渡しておいたので、彼らも察しただろう。貴族の争い事に巻き込まれたくはないだろうし。
リリアナはあちら側の人間だからどう黙らせようかと悩んでいたら、彼女の方からこんな申し出を受けた。
「奥様、ラリーナ様には余計な話は一切していませんし、これからもするつもりはありませんので、どうか安心なさって下さい」
「えっ?」
「すぐには信用してもらえないとは思いますが、私はラリーナ様の侍女ですが、ラリーナ様側に立っている訳ではありません。
旦那様により彼女を見張るように命じられている者なんです」
夫人は目を見開いた。ただの侍女にしては隙がないと思っていたがそういう事なのか……
「あなたはもしかして二重スパイなの?」
「さすがですね、奥様。確かに私は隣国に命じられて侯爵様のメイドになりました。しかし、途中で侯爵様に寝返ったのです」
「何故?」
震える声で夫人は尋ねた。怖い。こんな闇の社会になんか無縁だと思っていたのに。
暗殺事件に巻き込まれておきながら平然としている癖に、と言われそうだが。
しかし隣国まで関係してくると、とうに自分の理解の範疇を超えている。
王子の母親は隣国の末の姫だった。それは当然知っているし、ラナキュラスが隣国で夫の元メイドだったと聞いた時点で、隣国が関与しているのは察していたが……
「私は侯爵様とは元々知り合いだったんですよ。
それにあちら側には恨みはあっても忠誠心なんてものは、そもそも私にはありませんからね。
彼らはこっちを金を払えばなんでも言う事を聞く傭兵だと思っているかも知れませんが、私も人間なんで、金ではなく情で動く事もあるんですよ。
まあ、あちらはこちらの国の《黒い二重線》のような制度がなかったんで助かりましたよ。あのレベルの捜査網なら簡単に逃げ切ってみせますよ」
こう言って酷薄な笑いを浮かべたリリアナの顔は、怖いというよりも凛としていて、神々しい美しさだった。
彼女が嘘をついているようにはとても見えなかった。
しかし、何故自分なんかにそんな重要な話をするのかがよくわからなかった。
「旦那様とはいつからのお知り合いなの?」
「子供の頃、友人でした。私は以前はこの国に住んでいましたので」
「もしかして、あなたは孤児院から隣国へ売られたのではなくて?」
突然ミラージュジュが顔色を変えた。そして意気込んで、リリアナの手を握ったので、冷静だった侍女も思わず後ずさった。
「奥様?」
「あっ、ごめんなさい。私には孤児院にいた親友がいるのだけれど、突然連絡が取れなくなって……ずっと探していたの。だけどまだ見つからなくて。
それで数年前にようやく、その子がいた教会が悪さをしていた事に気が付いたの。
それで私、色々と探ってみたのだけれど、やっぱりそこの教会は様々な悪事に手を出していたのよ。
子供達の入れ替えも激しいから、人身売買もしていたんじゃないかと不安になっていて……
あなたは違うの?
だって態々隣国へ行ってまでそんな危ない仕事をしているってことは、親御さんがいないからなのでしょう?」
「私の仲間には親がちゃんと揃っている者もたくさんいますよ。事情なんて色々です。
それよりも貴族の立派なご令嬢がそんな危険な真似をしたらいけないでしょう!」
リリアナが怒ったように言った。何も知らない世間知らずのお嬢様が余計な事をするなと、気を悪くしたのかも知れない。
「気分を害したらごめんなさい。でも、親友の為に何かしたいと思うのは当然でしょ?
家があるだけ幸せだったでしょと言われそうだけど、私にはその子ともう一人親友がいるのだけれど、彼女達が居なければ、多分とっくに人生を諦めていたと思うわ。
さっきあなたは情という言葉を使ったけれど、結局人は何かしらの情がないと生きられないと思うの。
その情を私に初めてくれたのが彼女達なの……」
ミラージュジュは仏頂面のままのリリアナの顔を見ながら、フワッと微笑みを浮かべた。
「あなた、その私の親友の一人にそっくり。髪は濡羽色のあなたとは正反対の美しい銀髪だったけど、深いエメラルド色の瞳はあなたと同じだったわ。
そして、私が少しでも無茶な事をしようとすると、今のあなたのように、いつも顔をしかめて叱ってくれたのよ」
その言葉に今度はリリアナの方が驚愕の表情でミラージュジュを見つめた。
「あなたを信用していいのかどうか、今の私では難しいわ。やはり旦那様の口からあなたとの関係性を聞かないうちはね。
でも、あなたの事は好きだわ。出来れば信用したいと思うわ」
ミラージュジュの言葉に、リリアナの体が再び小刻みに震え始めたので、私ってそんなに怖い人間に見えるのかしらと、彼女は少しだけ傷付いたのだった。
読んで下さってありがとうございました。




