第十章 目覚めた夫
「ええと、今回の落石事故で怪我をされたのは六人ですね。もっともそのうち一番軽症だった男性は、こちらに来る直前に居なくなられたようですが…」
医師の言葉にミラージュジュはまさか……とある人物を思い浮かべた。
「残った怪我人のうち、お一人の女性が両手足に擦過傷で軽症。そちらにいる女性が利き腕に捻挫。
一人の男性が右足を骨折しましたが、まあ時間はかかるでしょうが元通りになるでしょう」
医師が一旦ここで話を止めたので、ミラージュジュは後ろに控えていたリリアナを咎めるように見た。そして口パクでこう言った。
『あなたも怪我をしているんじゃないの。黙っているなんて駄目でしょ!』
リリアナはすみませんとばかりに頭を下げた。
すると「コホン」と医師が咳をしたので、慌てて彼の方に顔を向けた。
「ええと、それからもう一人の男性が大した外傷は見当たらないのですが、二日経っても意識が戻りません。この方と貴女のご関係は?」
「妻です。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私の名前はミラージュジュ=ザクリームと申します。そして夫の名はレオナルド。侯爵です」
侯爵と聞いて、四十代と思える医師は驚いた顔をした。そして少し困った顔をした。厄介事に巻き込まれるかもと危惧したのかも知れない。
「頭の怪我というのは外傷だけでは判断出来ません。まず意識が戻ってから今後の事を判断します」
「はい」
「そして最後の女性が一番重症です。ええと、こちらの女性とのご関係は?」
「家の者です。ですから私が今現在の責任者ですから、どうか彼女の状態の説明をお願いします」
「そうですか……
実は腹部にかなりのダメージを受けまして、内臓がいくつか損傷しました。緊急手術をして命の危機は乗り越えました。しかし、子宮を取らざるを得ませんでした。お気の毒ですが…」
「えっ? そんな……」
ミラージュジュは絶句した。
夫は彼女が産む子供を跡取りにするつもりだったのだ。それなのに。目が覚めた時の二人のショックを考えると、彼女はどう対応してよいのか想像もつかなかった。
ふらつく足元で医師の部屋を出たミラージュジュに、空いている病室を借りて休みましょうと、パークスは提案してくれたが、彼女は首を振った。
いつ夫が目覚めるかわからないので側についていたいからと。
「私が旦那様の側についておりますから、奥様はどうかお休みになって下さい」
そうリリアナも言ったが、ミラージュジュは首を振り、侍女の右手を取って彼女の服の袖を捲った。
「まあ、こんなに腫れ上がって、かなり痛むでしょう…」
「足を怪我をしたのならばともかく、片腕など大したことはありません」
「どこだろうが怪我には違いありません。あなたはずっと休んでいないのでしょう? 顔を見ればわかります。
あなたに倒れられたら、アノ方のお世話はどうするのですか? 今付き添っている方と交代で休んで下さい。これは命令ですよ」
リリアナは一瞬驚き、その後何故だか少し悔しそうな顔をして、頭を下げた。
何故か彼女から侍女というより騎士とか警護担当者のような雰囲気が醸し出されているような気がして、ミラージュジュは首を捻った。
そして耳の良い彼女でも、小さく呟いた侍女の言葉を拾う事は出来なかった。
「私は貴女の側にいたかった。貴女が辛い時に……アノ人ではなくて…」
レオナルドは空腹で目を覚ました時、そこがどこなのかわからず焦った。
しかし、病院特有の消毒薬の匂いで、そこが病室である事を察した。
頭を起こそうとしたが、頭が割れるように痛んだので諦めた。その上誰かを呼ぼうにも声が上手く出なかった。
一体どうしたんだろう。何が己の身に起こったのだろう。
仕事を終えて家に帰ってきて、婚約者に手紙を書いていたところまでは覚えているのだが…
暫くして、ようやく体の色々な感覚が戻ってくると、自分の手が誰かに握られている事に気付いた。そこで出来るだけ大きく手を動かしてみた。
すると女性が驚きの声を上げた。
「旦那様、気付かれたのですか? 良かった。私がわかりますか?」
白い天井を隠すように女性の顔がレオナルドの視界に現れた。
旦那様と呼ばれたのでメイドかと思ったら、なんとそれは婚約者の顔だった。
何故ここにいるんだろう? 態々隣国から私の見舞いの為に来てくれたのだろうか……
いや、あの伯爵家がジュジュを隣国になど出す訳がない。
自分はまだ夢を見ているのだろうか。会いたい会いたいと思っていたから…そう彼は思った。
しかし彼女の瞳から涙がポタリポタリと彼の顔に落ちてきて、これは現実の事なんだという事をようやく悟った。
「私の事がわかりますか?」
彼女にもう一度そう尋ねられたので、彼は頷いた。すると、彼女は心底ホッとした顔をしたが、ようやく彼が口にした言葉に瞠目した。
「ジュジュ……」
何をそんなに驚いているんだろう? ああ、そうか。今まで僕は彼女を愛称で呼んだ事がなかったんだ。
僕は子供の頃から彼女をジュジュと呼んでいたけど、彼女が僕を認識したのは婚約してからだ。
だから、愛称で呼ぶにはまだ馴れ馴れしいかなと躊躇して、本人の前ではまだ呼んでいなかったんだっけ…
「僕から愛称で呼ばれるのは嫌かい?」
レオナルドがそう尋ねると、ミラージュジュは首を激しく振った。そして
「嬉しいです」
とはにかんだように言った。彼も嬉しくなって両手で彼女の顔を引き寄せると、軽い口づけをした。
すると、彼女は再び瞠目して固まった。
病室でファーストキスだなんてどうかと思ったのだが、態々他国にまで見舞いに来てくれた事に感動して、気持ちを抑えられなかったのだ。
「旦那様、一体どうなさったのですか?」
彼女は大きく目を見開いたままで、信じられない…という顔をしていた。
「突然ごめんね。でも、僕はずっと君が好きだったんだ。
たから、君とキスをしたいと思っていたんだよ。ようやく婚約者同士になれたんだし。
でも、僕が他国に赴任してなかなか帰国出来ず、君とも二人きりの時間が持てなかっただろう?
だから、こうして君がこんなところまで見舞いに来てくれて嬉しくて……」
「・・・・・・・」
「旦那様、今日が何年何月だかわかりますか?」
ミラージュジュの質問にレオナルドは何故そんな事を聞くのかと小さく首を捻った。それからこう答えた。
「XXXX年の十月だろ。日にちは思い出せないが」
すると、彼女は大きく息を吐き出した。そして真剣な眼差しでこう言った。
「旦那様は馬車に乗っていて落石事故に遭遇されて、頭に怪我をされました。そして二日間眠っていました。そのせいで記憶が少し混乱していらっしゃるようです。
でも大丈夫です。私もパークスさんもついていますから。
今お医者様をお呼びしてきますから少しお待ち下さいね」
彼女は慌てて病室を出て行ってしまった。
パークスも来てくれているのか。ああそうか、彼がジュジュをここまで連れてきてくれたのか。
そうだよな。あの伯爵家がそんな気の利いた事をしてくれる訳ないものな。
それにしても馬車の落石事故だと? 出張先で事故に遭ったのだろうか、全然覚えていないのだが。
自分の記憶が混乱していると愛しの婚約者に言われたレオナルドだったが、何故か気分はスッキリとしていた。まるで何かの重荷がとれたかのように……
読んで下さってありがとうございました。
次章で新たなテンプレが起こります。楽しみにして下さると嬉しいです。