第86話 次のイベント
「あ、センパーイ、わたしコーヒーがいいです」
「……かしこまりました」
私は私服姿の萌に一礼すると、踵を返して調理場へと戻る。
そしていつもの紅茶と、いつもは頼まれないコーヒーをトレイに乗せて席へと運ぶ。
今日は日曜日。開店時間はいつも通りだが、平日以上に朝の客足は鈍い……はずなのだが、なぜか今日は大繁盛。いつもの2倍もの客が来ている。
まぁ1が2倍になっても2なんだけど。
私はいつもの席に紅茶とコーヒーを置くと、隣のテーブルから椅子を引っ張り出して腰を下ろした。
「……それで、萌さんはどうして今日もここに居るの?」
「それですよ! センパイ聞きましたよ、ド変態に襲われたって! わたしサクラちゃんの事が心配で心配で、夜も眠れなかったんですから!」
「……それはどうも」
シフトが入っていないはずの萌がどうしてここに居るのか少し疑問だったのだが、どうやらリサからマルコについて聞いていたらしい。それで興奮して寝付けなかったから、こうして早朝……というにはやや遅いが、朝から店にやって来たのだろう。
……変態はどっちだよ、まったく。
私は今の話が休憩室まで聞こえて居やしないかを心配しつつ、デバイスからメモ機能を呼び出す。そこには“VRゲームについて”というタイトルの文章が、箇条書きで記されていた。
これは私が最近書き込んでいる物である。
その様子を見た絵筆は、にやりと笑みを浮かべる。
「桜子の悩み事を当ててやろうか? 昨日のあれについて悩んでいるんだろう?」
「えっ!? 昨日の!?」
昨日の出来事と聞いて萌が反応を示す。絵筆はどうやら私と会話をするつもりというよりは、萌の事をからかっているだけの様だ。
絵筆は昨日のシファの相談のことを言っているのだろうが、萌はそんなことを知りもしない。そのため彼女は“昨日の事”をマルコの事だと思い込んでいる。それで悩んでいると言われれば、慌てるのは仕方のない事だろう。
しかし、そもそも絵筆の指摘は大外れ。残念ながらこのメモは昨日の事ではない。
「残念だけど違うわ。そろそろ私がゲームを始めて1ヶ月だから、やっておかなきゃと思って」
「1ヶ月? 1ヶ月で何かあるんですか? 月額料金の支払い?」
私の発言を聞いて絵筆はそういう事かと納得した様子だが、萌は小首を傾げている。
……そう言えば、萌には話したことがなかったな。
「私、VRゲームがやりたくてVRゲームを始めたわけじゃないのよ」
「……頓智ですか?」
「難しく考えないで、そのままの意味よ。そろそろ甥の誕生日でね、私の兄がVRゲーム買ってあげたいんですって」
「へぇ、じゃあ高校生なんですね。おめでとうございます」
「でも、あの家夫婦そろってVRに詳しくないのよ。それに私に比べると忙しいし、ゲーム自体あまりやらないから。だから子供にやらせて良いのか、私に調べてきて欲しいって話」
「なるほど……」
そして私がやっているのは、その調査結果のまとめだ。
これをどうやって伝えるかは……未だに思案中。確かに楽しい物ではあるのだが、子供にどんな影響があるのかと聞かれた時に、諸手を挙げて賛同はできないかな、というのが私の感想である。
一日の接続制限が10時間って言うのが、ちょっと長いんだよなぁ……。
ただ、それを理由に反対するというのもやや過剰反応に思える。基本的には賛成、ただしいくつかの約束事を決めて……という結論になるだろう。
私はその約束事を決めるために、VRの利点と欠点を書き出しているのだ。私のせいであの家族が万一にも不幸になって欲しくはないから。
私の作業を他所に、絵筆は紅茶に砂糖をさらさらと流し込む。
「そっちはまぁ好きにすればいいが、例のアイドルの件はどうするつもりなんだ?」
「受けようかと思ってるわ。どうせ注目度はあまり変わりそうにないもの。イベントの時にちょっとカメラが入るだけよ」
「え? え? 何の話ですか? サクラちゃんアイドルになるんですか?」
昨日のシファの話を一切知らない萌は困惑するばかりだ。
一応事前に他言無用と言われていたから、絵筆以外の生徒には教えていない。まぁ配信の内容に関わる事だから、一応口止めしておいた……というだけだろうから、真面目に守ろうとも思っていないのだが。
萌の疑問に対して私が視線も上げずに作業を続けていると、絵筆が自慢げに萌に聞かせ始める。
「次のイベントあるだろ?」
「はい、あの強化合宿とか言うやつですか? でもあれってわたし達関係ないんじゃ……」
強化合宿。
それは数日前にシファのチャンネルで告知され、そして学生掲示板にも張り出された次の期間限定イベントだ。尤も、私が初めて知ったのは学院長とシーラ先生との話し合いの場だったが。
強化合宿は簡単に言えば、授業を好きなだけ受けられるイベントだ。
特設教室が学院の外部に作られ、そこで時間割のないフリーな授業を行うのだ。生徒は受けたい内容の授業を事前に予約すれば、好きな時間に好きな授業を受ける事ができる。
しかし当然、生徒よりも教師の方が少ないので生徒のすべての予約に応える事はできない……と思いきや、教室も教師も生徒の予定に合わせて増える仕様らしく、予約すれば予約しただけ授業が受けられるらしい。
また、進級テストも同時に実施されるらしいので、本当に好きなだけ授業を取る事が出来る期間と言える。
聞いた時は何と言うか、初心者救済の意味合いが強いのだなと思っていたのだが、一応時間割の関係で特定の授業だけを受けられなかったという、かなり奇特な生徒にとっては有難い話らしい。まぁ全体の1%居るか居ないかくらいの割合だとは思うが。
他には中級試験に残念ながら落ちてしまった生徒や、主専攻の転科手続きを行って授業が受け直しになってしまう生徒にも関係するイベントである。
しかし、テストも合格してすべての授業を受けた私達にとっては、萌の言う通りまったく意味のないイベントだった。
私があの話を受けるまでは。
「実は我が盟友が特別講義の教師役として任命されたのだ……これ普通にすごくね?」
「サクラちゃんが教師……? それって、まさかとは思うけど……女教師サクラちゃんって事!?」
「いや……そりゃ男教師ではねーけどよ……」
「……見たい。わたしも見たいそれ! ズルい!」
「いてっ、殴るなバカ、まだ始まってねーよ!」
……萌が暴れているが、まぁ放っておこうか。絵筆しか被害にあっていないし。
絵筆の言う通り、私は学院長との取引で教師役として指名され、それを引き受けた。
教師役を任されたのは私を含めて3人。筆記首席の私と、実技首席、総合主席の3名だ。当然だが、誰も知り合いがいない。
一時的に教師になったとは言え、何もシーラ先生の代わりに呪術を教えるわけではない。そもそも受講者居ないだろうし。期間中に特別講義として、自分の知識や経験から何か有用な事を教えて欲しいという話だ。
何を教えるのかは生徒の自由だが、筆記首席として教えろという話なら選択肢はそれほどない。
実技首席はイベント告知後早々に、SNSで“模擬戦”をするからかかってこいみたいな事を楽し気に書いていたらしい。総合の方は分からない。私と一緒で特に事前に告知はしていないようだ。
そしてもう一つ、これにはシファの頼み事も関係してくる。
実はあの後、私の授業を配信で流させて欲しい、そしてできればインタビューにも出演して欲しい……そういう提案があったのだ。
一晩悩んでみたが、結局注目されることには変わりはないと受ける事にした。授業の内容が残るか残らないかという大きな違いはあるが、あの注目度だったらほとんど誤差の様な物だろう。
それに、何も恥ずかしい内容を教えるわけではないし、学生にとってはそこそこ有用な話にはするつもりなので、多くの人に見て貰えるというのは別に悪い事ではないだろう。
あわよくば、私のNPC疑惑を……という思いもある。ネット上にソースがあれば噂も沈静化してくれるだろう。
私は甥っ子へ言いつける約束の内容を書き上げると、もう一度授業内容の確認をするために自習ノートの写しを開くのだった。




