第3話 リリース
お風呂上がりのジャスミン茶を飲みながら、並べられた文字列を追っていく。
セール価格で投げ売りされていた古い文学作品は、私の視線の動きと同じ速度で、そしてやや単調な語り口調で物語を進めている。
……この前あの店で文章を読む用に購入した電子ペーパーは、軽くて画面も広い中々の品だ。私はそう勤勉な読書家ではないのだが、それでも悪くない買い物だったと言えるだろう。
何せ私の普段使いのデバイスは重いしバッテリーの消耗も早い。読書にはまったく向かない代物なのである。
本の内容は男の子が夢の世界で活躍をする冒険譚。
不器用だけれど頑張り屋な主人公と、彼のその心根に惹かれて集まった夢の世界の仲間たちの視点から物語は進んで行く。
主な登場人物はもう一人。優しい主人公とは対照的に、効率は良いけれど余裕はない、一人で冒険をするライバルの男の子だ。
目的のためならば手段を選ばず、人を裏切り、平気で見捨てるライバル。彼を説得しようと試みる主人公だが、二人の目的はどちらか片方しか果たせないため話はいつまで経っても平行線だ。
現実世界に帰るため、そして自分の願いを叶えるために奔走する二人。物語は淡々とした語り口調のまま、終盤へと向かって行く。
……最終的には、主人公がライバルの悩みを解決してあげるのだろうか。それとも主人公は自分の目的を優先して、たった一つの解決法を自分のために使うのだろうか。
そうして言語化してしまうと後者が些か薄情に聞こえてしまうが……。
そんな事を考えた瞬間、文章を読む手が止まる。突然疑問に思ってしまったのだ。
彼の優しさは罪を背負った人間にも、等しく向けられるべきなのだろうか。それは果たして正しいのだろうかと。
ライバルのせいで、夢の世界とは言え何人もの人が家を失った。物語には描写されていないが、亡くなってしまった人もいるかもしれない。死者がいるということは、その数倍は遺族もいるはずだ。
そんな彼を断罪せずに、主人公のただの優しさだけで救ってしまうことに意味などあるのだろうか。
優しいとは何だ。正しい選択とは。善悪の判断基準はどうするのが正しいのか。
これは、現代日本なら話は簡単だ。
法治国家なのだから法律が正義なのである。法律は正しいという前提があって初めて法律が人を従える事ができる。もちろん改正だの立法だのと変わることはあれど、その時代に於いての正義はそこを基準に考えるのが基本になっている。
なぜ法律が正義なのかと考えても仕方がない。国家という社会の秩序を成立させるために必要だから、としか答えはないのだから。そこを考え始めれば、社会秩序は個人の幸福に比べて善か悪かと疑問が続いて、キリがない。
しかし、自分に馴染みのある基準の通用しない夢の世界で、この主人公は正しくあろうとしている。優しく、助け合うのが良いことなのだと信じ、それを実践している。
そしてそこに、悪人に対する処罰と言う概念はないように見える。
そんなことを幾度か考えてはみるが、それこそ時間の無駄だろうか。どうせ読めばすぐに“彼の答え”は分かってしまう。
すっかり止まってしまった読書を再開し、果たして物語は……という所で、殺風景な部屋に不快な振動音が響く。
一体何事だと“本”から視線を上げれば、バイブモードにしていたデバイスがメッセージを通知していた。
メッセージの差出人は絵筆。内容は「現在時刻が0時を過ぎた」と言うただそれだけの話だ。
一瞬何のことだと疑問に思ってしまったが、すぐにこれが何の話なのかを思い出す。
確かこの前予約した賢者の花冠という作品のリリースが、今日の0時だったなと。絵筆はオンゲはスタートダッシュが肝心とか言って、私にもリリース直後からのプレイを推奨……というか強要していた。
「はぁ……待たせても仕方ないか」
明日も私は普通に午前中から仕事があるのだが……数時間くらいは大丈夫か。
確かVRには健康被害を減らすために連続接続制限や一日の利用上限というものがあったはずだし、最悪徹夜で仕事に行っても一日くらいは大丈夫だろう。特に午前中は暇な店だし。
私は電子ペーパーの電源を落とすと、初期設定とゲームのインストールを終えてから一切触っていないVRマシンをベッドの下の収納から引っ張り出す。
首輪の付いた奇妙なゴーグルのような形をしているそれをぱちりと装着し、付属品である手首と足首用のバンドも着けていく。そしてベッドに横になるとこめかみ付近にある起動ボタンを長押しした。
独特な起動音を聞きながら首と枕の位置を調整していると、半透明の画面を半分程貫通する照明の光が目に入る。部屋の明かり……は、放っておいても私が寝たと勘違いして人感センサが勝手に消してくれるか。
流暢な機械の音声案内に従ってそっと目を閉じる。ついにVRの起動だ。
横になったままだと言うのにじわじわと上下の感覚が揺さぶられて行き、次第に自分がどのような姿勢でいるのかが分からなくなっていく。
そしてついさっき閉じたはずの視界に光が差し込んだ。これは間違っても照明の光ではない。
その光をよく見るために意識して目を開けると、視界に広がった光景は既に私の部屋の天井ではなかった。
見渡す限りの広い空間。遠くに壁も地平線すらも見えない。あるのは真珠色をした薄い霧だけだ。
私はいつの間にか止めていた息を吸い、吐き出す。そして自分の体を見下ろせば、異様に近い爪先が見えて、自分がどこにどのようにして立っているのかを認識し直した。
「……さっきまで寝てたのにいつの間にか立ってるこの感覚、やっぱり慣れないわ」
誰に言うでもなくそう独り言つと、聞こえたのは自分の物より些か高い声。アバターを作成時に面倒くさくて初期設定のままにしてあるはずだが、どうやらアバターに合わせて声の高さも多少自動調節されているらしい。
自分の意志で動く小さな手を見ると、何と言うか幼い頃に戻ってしまったかのようだ。このアバターが私の幼少期に似ているかどうかは別だが、鏡がないので生憎確認はできない。
私は自分の意思に従って自然に動く手を確認し終えると、一歩前へと踏み出す。
霧で視界は良くないが一応床はある。少し高そうな新品の革靴は、真珠色の霧の奥にある白い床にぶつかって硬い靴音を立てた。
そして私は、もう一度、今度は思い切り顔を顰める。
「……歩きづらいな、これ……」
元々現実では長身な私だ。半分までは行かないが、現実の体とは比べ物にならない程に小さくなった体は、当然歩幅も小さい。
脚を動かした距離とタイミングが感覚と合わず、かなりぎこちない歩き方になってしまう。いつも通りに足を運ぶと、間違いなく転んでしまうだろう。
それでも注意すれば歩くだけなら何とかなる。私は慣れない体で、霧の中をふらふらと歩いて前へ進む。
そして数歩目の足を踏み出した瞬間、まるで私を避ける様に霧が晴れた。さーっと微かな音を立てて床が現れ、同時に視界が晴れていく。まだまだ壁は見えないが、床はさっきよりもずっとはっきりと見渡せた。
旧約聖書にある海を割るような光景に多少の感動を覚え、私は現実では不可能な事を可能にするVRという物の“実感”を初めて体験していた。
急に開けた視界の先には、一本の棒が立っている。黒一色に塗られ、足は三本。
一見コートハンガーのようだが、よく見ればその先端は丁字になっており、そしてその上には……
「ようこそ、サクラ・キリエ君。よくぞ、本学に入学希望を出してくれた」
幽霊の様にぼんやりと、白くて半透明の何かが止まっている。大きさから考えれば猫のようだが、あれはおそらく違うだろう。
そのシルエットを認識することで私はようやくその棒が止まり木であることに気が付いた。このずんぐりとした独特な形には見覚えがある。
「……梟?」
「その通り!」
半透明の梟は私の言葉にばさりと羽をはためかせる。
霧が晴れた先で、透明な梟が止まり木に止まって人間の言葉を話しているのだ。少々珍妙な見た目だが、彼がこのゲーム内で、もっと言えば私が現実以外の世界で最初に出会った人物ということになる。
彼の人間とのスムーズな会話は、何もこの中に人間が入っているからではないだろう。おそらくこれは人格再現プログラムと呼ばれるものだ。
とある暇人が開発して無料で公開してしまったそれは、幾人もの技術者の改良や専門化を経て瞬く間に日本中に広まり、今では独り身用の家電にまで普及している程に身近な物だ。家の冷蔵庫とマルチクッカー、そして掃除機もよくこうして会話している。
そういった技術がある以上、この空間でこうしてスムーズな会話ができるからと言って、それが人間だとは限らない。
尤も、そんな常識的な裏事情はこの先あまり役に立たないかもしれないのだが。
ゲーム的に考えれば、白い世界で梟に出会ったと言うただそれだけの事。この世界で活動するにはそれだけ考えていればいいのだ。目の前の人物が“本当は何者なのか”を気にしても仕方がない。
それにしても少し唐突にも思える状況ではあるが、おそらくこれがゲーム開始時のチュートリアルか何かなのだろう。
確かに、微かに記憶にあるこの作品の設定では、魔法学院に入学するところから始まると聞いた覚えがある。絵筆の長話以外の情報を調べていないのでどうにも曖昧だが、目の前にいる彼の言葉に不審な点はない……はずだ。
私がそんなことを考えながら梟に歩み寄っている間にも、彼はバサバサと動きながら話を続けていた。
「私は本学の魔法学部学部長サルメラの使い魔、トビスケだ。ここで知識を求める者の案内人も務めている。当然君も私が入学前の世話をしてあげよう」
「はぁ……よろしくお願いします」
彼の言葉に小さく頷く。ただ、その肩書を聞いてどの程度の敬意を示せばいいのかは悩むところだ。
学院長ではなく学部長。その更に使い魔。偉いのか偉くないのか分かりづらい設定だが、案内役と言うことは少なくとも生徒よりは上なのかもしれない。
私が気のない返事をしながら止まり木の下までやって来ると、トビスケと名乗った梟は再びばさりと羽を動かして私の鼻先に突きつけた。
止まり木はそう高くないが、私の身長が低いのもあって羽の先端はピタリと鼻先で止まり、柔らかな風を受けた私は少し顔を仰け反らせる。
「しかーし! その前に伝統ある本校に入学する素質が君にあるのか、ここで見極めさせてもらう!」
「えっと……入学試験ということですか?」
「その通り!」
私の質問にトビスケはうむうむと頷いた。……どうもこの梟、動きが人間臭いな。こういう物なのだろうか。
それはともかく、思った通りここがチュートリアルのようだ。サクッと熟して絵筆に会いに行かなくちゃな。
意外に設定事項の多いアバターの作成中はずっと通話をしていて、そしてそれからも相変わらず毎日のように午前中に店に来る絵筆。最近彼女からはこの作品に関する長話しか聞かされていないので、基本的な部分はある程度は把握していると思うし、チュートリアルさえ突破できればあとは案内の絵筆と合流するだけだ。
学院側の用意した案内役であるトビスケも早く終わらせたいのは同意見なのか、私の意思を確認するよりも早く、早速とばかりに指示を出す。
「まず、目を閉じて、私を見るのだ」
「はい」
目を閉じて相手を見る。
何も知らずに聞かされれば何のことだと聞き返しただろう。しかしやることは単純で、私は片目を閉じて梟を見る。
すると少し狭くなった視界の中で、青い何かが梟に重なって見えた。
炎の様に体から上へと向かってゆらゆらと揺れているそれは、胡散臭いオカルト好きがたまにいう“オーラ”という物を想起させる。実際それがモデルになっているのだろう。
それを確認してからすぐに両目を開くと、私をじっと見ていたトビスケは半透明な頭をくるりと回していた。
「私は何色に見えた?」
「青です」
「ふむ、魔法視力に問題はなしか……。それは魔法視と呼ばれる物でな、魔法の才を持つ者ならば基本的に持っている力なのだ。炎の色や大きさは主に魔物の体力や状態を表している。詳しくは入学してから勉強するといい。君がやったように片目だけ瞑れば視界も確保しやすいが、集中が必要な時は両目を閉じた方がいいぞ」
梟の解説を聞き、その話が絵筆の長話と相違点がない事を確認する。
この作品、実は現実味を優先し過ぎて“ゲージ”という物がほとんどないらしい。
当然敵の体力ゲージも自分の体力ゲージもない。数値が設定されていないとかではなく、そんな物が見えたらファンタジーの世界観が崩れてしまうということで排除されているのだそう。
プレイヤー側からすると、良いのか悪いのか分からない拘りだ。まぁ視界がシステム的な数値で埋まらないと言うのは、確かに“現実味”や“没入感”には直結するのかもしれないが。
しかし自分の体力も敵の体力も見えないとなると、何かと不便なのがゲームという物だ。
特に自分の体力は痛い。いくら“現実的”なVRと言えど、痛みの再現は実際の体力の減少と連動しないため、小さい敵に二回攻撃されたと思ったら死んでいたなんて事が頻発することになる。そして敵側も敵側で、いつまで経っても死なない不死身の相手に攻撃を延々と続けていた……ということになっても困る。
もちろん、そこに魅力を感じる人もいるかもしれないが、私としてはどうしても不親切に感じてしまうだろう。
そこで体力ゲージの代わりに実装されたのがこの“魔法視”というシステム。目を閉じることで視覚情報として自分や敵の状態を確認することができるのだ。
さっきやったように片目だけ閉じたり、意識して瞬きをすることで視界に残像を残したりと結構色々と工夫のできるシステムで、先行体験版での評価は上々だったらしい。
尤も、その評価は序盤の弱い敵相手だからというのも多分にあるのだろう。しかし、コントローラーを指で操作するゲームしかやったことのない私から見ると、これだけでも中々面白いシステムだとは感じてしまう。
「さて、魔法の才能があると分かったところで、次は本題、専攻学科の決定だ」