第37話 秋雨の来客
ざあっと音を立てて降り続いている秋雨は、もう夏ではないのだとでも言う様に気温を一気に下げている。
私はそんな大雨を背に、そしてぽたぽたと雫を前髪から垂らしながら、見慣れた我が家の扉を開いた。
無人だった家の空気は、秋の雨にすっかり濡れてしまった私の体を凍えさせる。どうやら自動で除湿を行う空調が付けっ放しになっていたらしい。
そんな空気の冷たさには構わずに、急いではき慣れたパンプスを脱ぎ捨てると、玄関の左側、シャワー室へと続く扉を開け放つ。
「シャワー貸すわ。ここだから先に入って」
「あ、はい。ありがとうございます……すみません、急にお邪魔しちゃって」
「いいの。萌さんには聞きたいこともあるしね。着替えは……気にしないんだったら私の部屋着使って」
私に続いて萌が玄関へと上がる。
彼女も私と同じ様に、突然の大雨でびしょ濡れになっていしまっていた。日頃から私服がオシャレな彼女。そんな彼女が雨に濡れている姿は、私以上に見ていて可哀想だ。
そしてそれ以上に、職場の後輩とはいえ、一応今は客人なのだからこの部屋で寒い思いはさせられない。シャワーは先を譲るとしよう。
時刻は既に14時を過ぎている。もちろんこの時間には私達の仕事も終わっていて、いつもなら私はゲームを始めるか始めないかという時間だ。
そんな時間になぜ私達が一緒にいるのかといえば、見ての通り突然雨に降られたためだ。今日も一緒の時間に退勤となった私達は、その時刻丁度に見事に降り出した突然の豪雨に見舞われ、比較的店から近い私の家へと避難することになったのだ。
私は濡れた服を脱ぎながら、二人分の着替えをタンスから引っ張り出す。タオルは……脱衣所か。流石に今は入れないな。
たっぷりと雨水を吸った髪の毛を乾かすことを一先ず諦めた私は、顔を上げて誰も居ないキッチンへと声をかける。もちろん一人暮らしなので、そこに見えない同居人が居たりはしない。私の習慣のような物だ。
「……シェフ、ポタージュ温めておいて」
『お任せあれー! 愛情を込めて作るよ!』
「あっ、センパイの家ハブちゃん使ってるんですね! 可愛い!」
「いいから早く入りなさい」
私の、というよりは、人格再現プログラムを仕込まれたクッカーの声に萌が反応する。その様子はやや興奮気味で、半裸のまま脱衣所から身を乗り出し、キッチンを覗き込んでいる程だ。
私はその様子に呆れつつ、着替えを渡して扉をそっと閉めた。こちらも半裸なのは変わらないのだが、人の家でそう無防備な格好を晒すかな、普通。
ちなみにハブちゃんというのは、私の家で使われているクッカーの愛称である。正式な商品名はホームアシスト何とかかんとか。正確には覚えていない。
これは一人暮らしをする際に、兄が就職祝いとして贈ってくれた物だ。VRにも家電にもあまり詳しくない彼が選んだという事で、どうやらどこかの怪しいサイトの性能比較を鵜呑みにして買ってしまったらしい。
店の調理場にある様な全自動調理機というよりは、お料理をする人間のお手伝いというコンセプトの機械であり、中途半端に人間に調理をさせようとしてくる。してくるというか、単独で料理を完成させることのできない性能なので、私が所々で手を貸さなければ完成に至れないのだ。
萌が反応したのは、このハブというクッカーが有名声優とのコラボ商品として売りに出された一機だからだろう。妙に明るい少女の様な声は、言われて見れば確かに彼女が気に入りそうな性質に聞こえる。
ハブにはこれ以外にも細かい型番がいくつもあり、老人や執事といった様々な声が収録されている。アップグレードすれば声の変更もできるという事だが、今更“彼女”と別れると言うのも心情的に複雑な気分なので今の所は変えるつもりはなかった。
私は手早く着替えを済ませると、シンクの前で髪を絞る。ドライヤー……も脱衣所だな。しかしこのままでは風邪をひいてしまう。
音声認識で部屋の暖房をつけると、加熱途中のクッカーを開いてスープを一杯カップによそう。まだまだ中途半端なぬるさだが、それでも冷えた私の体は喜んでその液体を嚥下させた。
「はぁ……」
『過熱を続けるからクッカーの扉を閉めてよー。それにしても本日は雨の予報だったけど、傘は持って行かなかったの?』
『桐野江様にしては珍しいですね。今朝は慌てていらっしゃったのですか?』
「別に……昨日は疲れた……というか、嫌なことがあっただけ。うっかりしてたわ」
私は放熱を続けるクッカーから離れ、後ろ手に扉を閉める。あの扉を開けていると少し温かかったのだが、怒られてしまった。仕方ない。
私はそのまま振り返りもせずにキッチンを後にした。私がそこを出るとすぐに、聞こえるか聞こえないかの囁きで、“二人”が会話を始める。
キッチンにある冷蔵庫とクッカーは向かい合わせのように設置されているので、昔からよくこうして会話をしているのだ。
……思えば、あのゲームを始めてから、私が家電と会話する機会は増えたな。
今までも話しかけられれば返事くらいはしていたが、はいとかいいえとかそういった返答以外はまともにしてこなかった気もする。もしかするとシーラ先生の授業を聞いてから、人格再現プログラムと会話すると言うことに対する、無意識的な忌避感が徐々に消えて行ったのだろうか……?
私がそんな考え事をしながら一杯目のスープを飲み終わる頃、ドライヤーを片手に萌が脱衣所から出てきた。どうやら凍えている私のため、シャワーは急いで出て来てくれたようだ。
「はー……センパイ、ありがとうございました。急にお邪魔したのに……」
「別に気にしなくていい。冷蔵庫とクッカー……後食器とかは好きに使って。ドライヤーは私が使う前に返して欲しいけどね」
「あ、はい」
私は脱ぎ捨てた自分の濡れた服を拾い上げると、シンクの脇にカップを置いて脱衣所に足を踏み入れる。
そして、少しだけ戸惑った。
私とは違う、萌の残り香。体臭と呼ぶにはあまりに甘いので、おそらくは香水か何かなのだろう。
生憎私はこれでも飲食店の店員なのでそう言った物は使ったことがない……というか、萌香水なんて使ってたんだな。先輩として注意するべきか否かというか、そもそもそんな印象が無い。
いや、もしかして今か? 仕事が終わってから、今使ったのだろうか……私しかいないのに、なぜ?
多少疑問に思いつつ、きっちり折りたたまれていた彼女の服と下着、ついでに自分の分も洗濯機に入れてスタートボタンを押す。こちらはキッチンの連中と違って特に喋ったりはせず、短い電子音が洗濯の開始を告げた。
半分以上既に体温で乾いてしまっているが、これでようやくシャワーを浴びられる。
私が足を踏み入れたシャワー室の床は濡れている。見れば、萌は余程慌てていたのか蛇口が閉まり切っておらず、シャワーヘッドからはぽたぽたと水滴が落ちていた。
この家に居て久し振りに感じる、人の気配。
私がこの家に引っ越してきた時には、兄は既に結婚して子供もいた。母も住所だけ確認して後は放任。
この家に私以外が居たことは、数えるほどしかない。萌は数少ないその一例となったわけだ。
「はぁ……変な感慨で、ゆっくりしてられないわね」
萌には好きにしていいとは伝えたが、職場の先輩の家など、気が休まる環境ではないだろう。私は萌の痕跡を消していくように、お湯を体へと流していった。その温かさに体が震え、小さく吐息が漏れる。
何も体を洗うとかそういったことを目的としているわけではない。私は熱めのお湯で手早く体を温めると、乱雑に体を拭いて着替えを終えた。
タオルで髪の水気を取りつつ脱衣所を出ると、萌はピンクの何かを咥えながら人のタンスを開けている所だった。
私はそれを見て動きを止める。
「……何、しているの?」
「ふぇ? せんはい、はひゃいふぇふね」
「何言ってるのか分からないわ……」
一瞬何を食べているのかと警戒してしまったが、どうやらいつからか冷蔵庫に入れてあった薄切りのハムらしい。私の言葉通りに冷蔵庫を勝手に開けて食べているようだ。
見た限り、全く遠慮していないな、こいつ。心配するだけ無駄だったか。
私に見つかってからもしばらくタンスを漁っていた萌だが、目的の物が見つからないと分かるとそっと棚を閉める。そして手を使わずにもしゃもしゃとハムを飲み込むと、私に視線を向け直した。
その視線には若干の非難の色が混じっている様に見える。
「センパイ、もうちょっと可愛い下着とか買わないんですか?」
「要らないでしょ。見せる物じゃないんだから」
「いや、わたし達普通に毎日更衣室で見るじゃないですかー。ていうか、何より自分自身が見るし」
「人の下着漁ってる変質者に諭されてもねぇ……」
彼女の言い分には一理あるかもしれないが、私はそれほど気にしないな。見せて喜ばれるものでもないし。実際、さっきも畳まれた萌の下着は見たが、私は嬉しくも可愛いとも思わなかった。
萌は私の変質者という言葉にぷくっと膨れて立ち上がる。
「でもわたしも、下に何か履かないと落ち着かないですよー。可愛いの借りようと思ったのに……」
「え? 流石に下着は貸し借りは……するつもりなの?」
「……え? し、しませんか?」
「したことないわね……」
下着の貸し借りなんて人生で一度もしたことない。普通はするのだろうか。もしかして私、結構特殊な人間関係だったのか?
そもそも私と萌の身長差は結構あるので、下着もサイズが合わないはずだ。
現に私の部屋着を着た萌は、ネックラインから白い肩口が見えている。ウエストも結構違うはずだが、パンツはベルトで無理矢理絞っているようだ。
微妙な沈黙を流すために、私はクッカーから加熱の終了したポタージュを取り出すと、食卓にしている小さなテーブルに二人分配膳する。
「まぁいいわ……それより、昨日の事、詳しく聞かせてもらうわよ。流石にあれだけ私に乱暴しておいて、何も釈明が無いって話はないわよね」
「えぇと……違う話にしませんか?」
職場だと他の人の目が合って話しづらいかと思って、午前中はずっと黙っていたんだ。これ以上待っていられるわけがない。
そう目で答えると、彼女はここに来てから一番のため息を吐くのだった。




