第27話 毒性学
副専攻の教室は、教室棟二階にある。毒性学の授業はその中でも一番中央だ。
地下に押し込められている呪術科よりもマシな立地……かと思いきや、実は二階に上がる階段から絶妙に遠いという微妙な場所だ。この辺りは通行する生徒が多いので端の教室も、入りづらいという欠点がある。総合すると一長一短だろうか。
夕日が長く影を落としている廊下。学生時代ならばそろそろ下校の時間だと嬉しくなっただろうか。家に居ても学校に居ても、いずれにせよあまり楽しかった記憶がないので、特に何も感じていなかったか。
何か楽しそうにおしゃべりをしている数名の生徒の間をすり抜けて、目的の教室までやって来る。教室の前に張り出されている時間割を確認して、私は暗い色合いの扉を押し開けた。
毒性学の教室と言っても何か嫌な刺激臭がするわけでもない。夕焼けを消し飛ばす程に青味の強い光で照らされた教室は、呪術科の教室とほぼ同じ造りになっている。
私以外の生徒はたった一人。これからあるのが毒性学の授業という事を考えれば、この“環境”で一人いるのはむしろ多いと捉えるべきか。
シーラ先生曰く担当は妙な教師とのことだが……あの人以上の変人か。この学院ではまだ見たことがないな。ロザリーは例外として。
私が一人だからと言って、カリキュラム無視で他の事教え始める教師も十分変人だが、それ以上……。
私の足は自然と最後尾の席へと向かっていた。
この人数では目立たないというのは無理があるが、だからと言って警戒せずに真正面に陣取る必要はないだろう。もう一人も目立つのを嫌ってか、中列の窓際に座っている。
しんと静まり返った教室。遮音がしっかりしているのか、廊下や窓の外の音は一切聞こえない。空気を揺らしているのは私ともう一人の小さな呼吸の音だけだ。
ただ待っているだけというのも難なので、私は図書室から借りてきた本をぺらぺらと捲る。二人の息はその小さな音にかき消され、断続的に続く紙の音だけがその場を支配していた。
実は図書室の本は既に粗方片付いてしまっている。残っているのは重複している内容かつ、呪術に関係のない話ばかりだ。
それでも一応メモだけは取っているのだが……早く閲覧権限が何とかなればなぁ。他の本を読む方法自体には見当がついているのだが、あいつが帰って来ない内はどうしようも……。
私が読み止しだった一冊を読み終わる(確認し終える)のと同時に、扉が開いて廊下の音がわっと入って来る。時計を見上げれば既に授業開始時間だ。
廊下の音と同時に教室へと足を踏み入れたのは、長身痩躯の男。不健康そうな手足を隠すように、大きめの白衣を着ている。その下は随分とラフな格好だ。
ぼさぼさと伸ばしっぱなしの頭を掻いて教壇の中の椅子を引っ張り出すと、彼はそのまま教壇に突っ伏すようにして顔を下ろした。
そしてそのまま、私達に気付くこともなく寝息を立て始めた。
……変人。
いや、これを変人という括りで呼称してもいいものなのだろうか。教師としてあるまじき姿……というかこれで授業時間が流れたら、態々この授業取った意味がないので私が困る。
同じことを思ったのか、後ろを振り向いた女生徒と目が合う。その表情が困惑に染まっていることは分かるが、流石にアイコンタクトが可能なほどの関係性は持っていない。
そのまま二人で見詰め合っていると、先に折れたのは向こうだった。
「あの、ヒューゴ先生?」
「ぁん……?」
おずおずといった様子で女生徒が声をかける。大きな声ではなかったが、静かすぎる教室の中ではそれで十分だったようだ。
呼ばれた毒性学教師、ヒューゴはのんびりと顔を上げる。
そしてバチリと目が合った。私と。
窓際にいるもう一人はどうやら視界に入らなかったらしい。目立たないためにはそっちが正解だったか……。
私はまだ寝ぼけている様子のヒューゴ先生にかける言葉を探す。
「授業、しないんですか?」
「……え? 生徒?」
私の言葉にぱちぱちと瞬きをすると、ようやく彼は教室を見回す。そして二人の生徒を見つけ……
「毒性学の生徒!?」
ぱっと表情を輝かせるのだった。
その後の行動は早かった。彼は私達二人を真正面最前列の席へと呼び寄せると、どこからかガチャガチャと実験器具を運んでくる。
ちなみになぜ寝ていたのかと言えば、
「いやー、まさか生徒が来るなんてねぇ……ここ数日待ちぼうけだったから、授業は仮眠の時間に当ててたんだよ」
とのこと。
勤務態度に思う所はあるが、誰もこない教室で一人待っているというのも考えてみると嫌な時間だな。ここに人が来たのなんて、毒の弱さが公然となる数時間くらいではないだろうか。いや、その頃だって専攻学科を優先していたはずなので、本当にここに人がいた時期なんてなかったのかもしれない。
ヒューゴ先生は実際に話をしてみると意外に快活な人で、不健康そうだと感じていた顔も表情が明るくなると、どことなくあどけなさが残る可愛い顔立ち。髭面が何とかなれば女子生徒に人気が出そうだなと、どこか他人事のように感じてしまう。
突然教壇で寝始めたのには驚いたが、これがシーラ先生以上の変人かと言われると疑問が残るな。
「実験の準備をしている間、自己紹介でもしていてくれないかな。久し振りの授業だし、生徒の顔と名前は覚えておかなきゃね」
と、いかにも明るそうなことを言い始める。
私はすぐ隣に居る生徒と目を合わせ、どちらが先に言い出すかという何とも微妙な雰囲気を数秒味わう。
仕方がない。私が先にやろうか。自己紹介を焦らしても特に面白いこともないしな。
何となく学生の頃からの習慣で、私は席から立ち上がる。考えてみれば、座ったまま自己紹介をしたことがなかった。
「サクラ・キリエです。……」
名前を言って言葉に詰まる。
他に、何を言えばいいのだろうか。年齢なんて学院に何と届け出たか、つまりキャラメイクの時に設定したのか忘れてしまったし、趣味もこちらでは特にない。他に私を表す所属や属性と言えば……
「呪術科専攻です。よろしくお願いします」
「ほー、呪術科ね。あ、もしかしてシーラ先生の愛弟子って君か。何でも教員試験以上の授業受けてるらしいっていう。あの人の授業か……頑張ってるねぇ」
愛弟子。特に期待を寄せている弟子。傍から見るとそんな風に見えているのか。
そう大きく間違ってもいない気がしてしまうのが厄介な所だ。うぬぼれている自覚があまりないどころか自己評価は正当に低いつもりでいたので、ここは気を付けておこう。
ヒューゴ先生の話が終わると同時に、これ以上話す事は無いと私は腰を下ろす。肉の薄い尻が生徒用の簡素な椅子を上から押して少し音が立った。
それと同時に隣にいる女生徒、つまり私の他に現在毒性学を履修しようとしている唯一の生徒が立ち上がった。
「えっと、私はコーディリアと申します。専攻はコ術です」
私は意外な言葉に思わずちらりと横目に彼女を見上げる。
嫌に丁寧な言葉遣いに惹かれたと言う訳ではない。彼女の専攻学科、蠱術が外見に見合っている様には見えなかったからだ。
私と同等程度の矮躯、つまり設定できる下限に近い身長に、細い手足。顔立ちは優し気で、虫も殺せぬような見た目をしている。魔法使いというよりもどこかのご令嬢と言われた方がしっくりくる。
顔、もしくは表情の所為で身長以上に年老いて見える私とは、根本から違う少女像だ。とにかく雰囲気からして儚い、弱い、優しいを詰め込んだような、あどけない女。
その専攻が蠱術で、しかもこれから毒性学を学ぶというのか。見た目完全にヒーラーなのにな。
蠱術とは、読んで字の如くの虫の魔法だ。召喚系に分類される魔法学部の一つであり、その中では最速の召喚魔法でもある。
精霊から幻獣まで何でもござれの召喚術科は回復や防御、補助が揃う万能タイプ、死霊系しか召喚できない代わりに本体もそこそこ強い死霊術を攻撃タイプとするなら、蠱術科はスピードタイプと言えるだろう。召喚系の中では一番難易度が低いと言われているが、死霊術科と人気は大差ない。
召喚する召喚体は“虫”。一部蛇やらミミズやらといった分類学上の昆虫ではない生き物も含まれる概念で、意外に応用範囲が広いらしい。性能的な人気よりも、魔法の気持ち悪さで一部から大批判を受けていたりする、何かと不遇な学科だ。
詠唱時間の短さで次々と召喚体を呼び出し、手数と速度で攻めるゴリゴリのアタッカー運用が主流らしい。虫嫌いからしたら地獄絵図といった様だろう。
詠唱時間と一緒に召喚の維持できる時間も短く限られているが、むしろこちらは遠慮なく捨て駒運用ができるのであまり評価には影響していない。
ちなみに単発火力の低さを補うように状態異常にも適性があるらしいが、もちろんそちらを優先している生徒はまったく居ない。
少なくとも私はそう思っていたのだが、こうして毒性学を学ぼうとしているという事は、彼女こそが……そう言う事なのだろうか。
ヒューゴ先生と二言三言言葉を交わすと、私の数少ない級友コーディリアは席に着く。布が落ちたような小さな音と共に、彼女は小さく息を漏らす。こんな少人数での自己紹介に緊張していたらしい。
座った拍子に、ずっと横目で見ていた私と目が合った。すぐ隣に座らされて気まずいのはお互い様だ。
向こうも数秒何か言いたげにしていたが、ヒューゴ先生の解説がついに始まってしまったので、私達がその時それ以上言葉を交わす事は無かった。




