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プロローグ 喫茶ル・シャ・ノワールにて

「ありがとうございました」


 支払いを終えた客がやや重たげに開いた扉は、残暑の厳しい外気を店内へと運ぶ。店内中央の天井に備え付けられている空調が、室温の変化に反応して冷気を吐き下ろし、低い駆動音をそう広くはない空間に響かせた。


 暦の上では既に夏が終わって久しいと言うのに、まだまだ気温が下がらない。毎年恒例になっているとはいえ、この気候には少々うんざりする。

 しかしそれでも外に耳を傾ければ、毎日遠くから聞こえていたはずの蝉の声はいつの間にか消え、それとは逆に夏休みで随分と静かになってしまっていた学生の声も、今は遠くから響いている。


 気付きにくいだけで、時間の流れはいつも変わらずに私達の背中を押しているのだ。

 仕事を始めてから年を重ねる度に、こうして流れていく時間の無常さに嫌な哀愁を持ってしまう。どうしようもなく自分が年を取ったように感じて、私は小さくため息を吐き、空になったレモネードのグラスをそっと片付ける。


「お? 何だ、悩み事か? 仕事のストレスか、それとも兄弟にまた何か言われたとか?」


 そんな私のため息を目ざとく見つける人物が一人。

 些か子供っぽいラフな服装に、これまたやや幼さの抜けきらない顔立ち。彼女は今日も私の感傷などとは無関係に、まるで自分が女学生であるかのように振る舞っていた。私と同い年のはずの彼女は、本人の自覚はともかく、私に老いとは年齢の事ではないのだというどうしようもない現実を突き付けてくる。

 今も彼女は仕事中の私とは違い、テーブルの上で頬杖を付きながら何か冗談染みたネットニュースを閲覧していた。


 朝の仕事も粗方終了し、やることがなくなった私はそんな彼女の前の席に座る。少しだけ顔を顰めながら。

 その表情の理由はこちらが口を開く前に彼女から図星を突かれたためであり、それよりなにより珍しく私から彼女への相談があるという、多少の後ろめたさからだ。


「こういう時はやけに勘がいいんだから……」

「お? え、もしかして本当に悩み事なの? 仕事サボってまであたしに相談するほどの?」

「生憎私は休憩中。決してサボってないの」


 私は店長の趣味でやや洒落た、そして座り心地の悪い椅子に座ったまま黒いエプロンを外す。

 ちなみに休憩というのは半分方便のような物で、店長から了承は取っていない。まぁ多分大丈夫だろう。彼女の他に客はいないし、そもそもこの時間帯は滅多に客が来ない時間である。とある理由で人目を避けている、目の前の一人の常連を除いて。さっきまでいた客の方が珍しいのである。


 この喫茶店、ル・シャ・ノワールの黒猫のロゴがプリントされたエプロンを丁寧に畳み、私は自分の店員の制服から一つデバイスを取り出した。何の変哲もない、電話兼メーラー兼テレビ兼財布兼……その他諸々のための多目的通信電子端末である。

 三面のワイドマルチモニタを売りにしていたが、折り畳み式のモニタの利点は今一つ。ただただ重いだけで大して売れもしなかった型番のそれを、私は彼女にも見える様にテーブルの中央に置いた。


 テーブルを挟んで向かい合っている私達二人に見やすいように、自動で三角柱型になったそのデバイスは、普段使わないサブモニタの二面にとある映像を流し始めた。


 それは勇ましく竜と戦う戦士の男と、幻想的なステージの上で優美に踊っている白い衣装の女性の映像だ。場面場面で二人が交互に映し出されながら、最終的にはタイトルとキャッチコピーがデデーンと出てきて映像が終了する。


 一応店内と言うことを考慮して音量はかなり抑えてあるが、頭の数瞬を見ただけで彼女はその内容を察したらしい。

 彼女なら当然と思うべきか。すっかりこういった物に疎くなってしまった私でも、このCMは知っている。これはそれほど大々的に放映されているものなのだ。


「ああ、天上の……ゲームのCMだな。あたしもちょっとやってたことあるけど、最近CM効果で凄い人気らしいんだよな」

「らしいわね。……で、相談なんだけど、あなた“こういうの”詳しいでしょう?」


 私の今一つ内容の薄い言葉に、彼女は少し迷ったような表情を見せながらも軽く頷く。

 私はそれを見て少しだけ口角が上がるのを自覚していた。まぁ私の人間関係の中で、今回の人選に彼女以上の適役は存在しないし……そして、断られてもそれはそれで構わなかったのだが。


「私にVRゲームを教えて欲しいの」



 ***



 VRゲームという存在自体を、私は良く知っている。私が特別に詳しいと言うことではなく、高校で現代史を勉強すればそれとなく教わる代物だったからという詰まらない理由である。言い換えれば、現代人の社会常識に近い。

 それが歴史的に、もっと正確に言えば時代の変遷から見て、大ヒットするための大きく確かな下地の中で生まれ、必然的な人気を博したと言うことももちろん知っている。


 これについて語るには、近代、そして現代という時代背景を語らざるを得ない。


 現代は、普遍的な完全自動機械化に何とか“人間が追い付いた”時代である。

 そう考えると近代はといえば、自動機械化に“人間側が追い付けなかった”時代と言えるだろう。


 機械文明はとうの昔に人間の知性を上回り、無能な人間を数人雇うよりも仕事の早い機械を一台導入した方が安いと言う状況を次々と生み出していった。工場は警備員すらいない完全無人に切り替わり、自動運転車はトラックやバスの運転手を必要とせず、画家もデザイナーも完全学習型人工知能に“ゴースト”を頼む。

 半世紀以上前の世の中は、そういった自動化の“便利さ”と引き換えに人間の雇用機会を失っていく世界だった。当然当時の貧富の差は凄まじいものがあり、そしてそれは現代にも一部脱却しきれずに受け継がれている。


 日本は……というか、ほぼ同時期に緩やかに世の中が自動化していった世界中の国々は、有権者のほとんどが貧困層で、税収の大半が富裕層の納税というアンバランスを抱えてしまっていた。

 政治家は“票数”のために貧民に良い顔をし、同時に“税収”のために富裕層の待遇をより良くしていく。

 そんな時代は当然長くは続かず、形ばかりの民主主義に大きな亀裂が入っていくのは……いや、根底が崩れていくのは自明の理であったのだろう。


 そんな中、とある国がクーデター紛いの方法で通した法案により、世界は一変した。


 これが後に日本も追従せざるを得なくなる、“雇用安定法”である。

 各国によって細部は異なるが、簡単に言えば一企業の雇用の数を法律で決めてしまおうという何とも大雑把で暴力的な法律である。それも名前だけ貸して実際には働いていないだとか、給料が規定値以下であるとかがあると行政から漏れなく指導(と言う名の罰則)が来てしまうので、各国の大企業は大慌てで働き口を失って久しい無能な人間を雇い、たっぷりため込んでいた資金から無駄な人件費をばら撒く羽目になった。

 そのごたごたで倒産した企業も、そしてごっそり資産を抱えたまま事業をやめた経営者も多かったが、数十年にも及ぶ期間を経て、断崖のような経済格差はそれなりになだらかになって行ったのだ。


 さて、前置きが長くなってしまったが、ここで一つVRシステムを語る上で重要な大ブームが巻き起こる。

 上にばかり溜まっていた大金が、国民の大部分を占める貧困層に大きく行き渡り始めると、どうなるか。

 もちろん社会的にはインフレ……もしたのだが、事実上給料を政府に決められているのでインフレは政府の予定内に収まった。貧困層のために大いに(一部では貨幣社会の崩壊寸前まで)デフレしていたので、その分を取り戻したような値になっている。

 それ以上に問題なのが、元々少なかった雇用機会を広く大勢の人間に与えると、どうなるのかと言うことだ。


 何が言いたいのかと言えば、大半の社会人が暇なのである。仕事の時間は人数の関係上短く、そして内容も機械の面倒を見る程度か、自動化の流れに逆行するような多少の手作業をする程度。

 時間はあっても金はなかった人々がそこそこの給与を手に入れた結果、彼らは大いに“娯楽”を買い求めたのである。


 そしてここで話の本題。神経接続型ヴァーチャルリアリティシステムという存在が産声を上げたのは、丁度そんな折だった。


 収入はあるが仕事がなくて暇な人々は、その新たな電脳世界での体験を大いに夢想し、そしてその期待は技術の進歩を多少過剰なまでに後押しした。

 数々の取り返しのつかない事故と、その副産物によって実用的な安全性を十分に確かめられた時、その技術が娯楽、つまりは“ビデオゲーム”に使われたのは最早必然の流れだったと言える。


 電脳空間は生まれながらの性差、人種差、疾患の有無などを可能な限りフラットにした、完全に“平等な試合(ゲーム)”の舞台として注目を集めた。

 尤もこの見方に関しては、VRの才能とも呼ばれる脳の適性が発見され、近年では完全とは程遠いと否定されているのだが、それでも現実よりはマシだと受け入れられているのが現状である。


 とにもかくにも、そんな時代背景によってVRゲームといえば知らない人はいないと言うまでに一気に広まった代物なのである。

 欠点は、非常に高額な機器を必要とすることや、とある事件が原因でかなり厳重な年齢制限がかかっていること等。それらを除けば他の欠点など、一晩寝れば回復するような健康被害程度だと言われている。随分前から懸念されていた依存性も、社会的に問題が出るのは個別のカウンセリングで解決可能な範疇であるとするのが主な主張である。


 VRとはそれほどまでに超有名な物ではあるのだが、残念なことに私、桐野江(きりのえ) 桜子(さくらこ)は未だに一度も体験したことがなかった。

 小さい頃はとある幼馴染の影響でそれなりにゲームや漫画を趣味にしている子供ではあったが、あの頃は今よりもVR機器の年齢制限が厳しく、例えやりたくとも手の届かない作品だったのだ。

 そして、余裕で対象年齢を超えている社会人となった今となっては、そういった趣味から離れた生活を送っている。


 そんな私にとって兄が持って来た“相談”は、一人で解決するにはやや荷が重い物だった。



第一話は今夜投稿予定です。

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