第219話 抜け道
嫌いな虫から逃れようと大暴れしていたセイカの体から力が抜け、地面へと倒れ込む。
彼女の命をあっさりと奪ったのは蜘蛛の牙。口の横から伸びているそれは、消化用の液体をぽたぽたと落として口の中へと戻っていく。どういう構造になっているのか分からないが、口の中の牙へと繋がった脚のような部分は折り畳んで口の中へ仕舞っておけるようだ。
これで残ったのはもう一人。一人になってしまったシオリは、茂みの中から飛び出してきた金剛に向かって刃を振り下ろしている所だった。
金属とはまた違う硬質な、それでいてやや軽い音が響き、鋸の刃が止まる。大角に刃を噛ませ、青白い巨体を豪快に投げ飛ばした彼女はこちらをチラリと振り返り苦笑した。
「これは、無理かな?」
「早々に諦めてくれると助かりますね」
「うーん、どうしよっかなー」
そんな言葉を口にしつつ、笑みすら浮かべて戦闘を続けるシオリ。
正直な話、天文術科相手に長期戦はしたくない。運さえ良ければどんな状況でも一発逆転をしてしまえる相手だ。戦いが長引けば長引く程に状況は悪くなっていく。
尤も、すぐに倒す事は簡単なのだが。
武器を手に駆け出した彼女に向かって、サソリの尾が迫る。
……それから程なくして、私達は危なげもなく勝利を重ねる事が出来たのだった。
私はすっかり静かになった戦場を見渡し、マップから次の安全地帯を確認する。
有難い事に今回は近場だ。この次の崩落時にはもう移動距離が長くなる程に面積が残っていないので、これ以上は走らなくて済みそう。
安全そうな移動経路を確認し終えると、私は隣に居る大きな影を見上げた。彼女は未だ周囲を警戒している様子である。
「乱入もなさそうですね。もういいんじゃないですか?」
私がそう告げると、クモの様なサソリの様な怪物は空中へと解けていく。
魔力が意味も形も失い、ただの霊的な要素へと分解されるその様は、召喚体が消えて行く時によく見るものだ。
ロザリーとコーディリアと組むことの多い私には見慣れた光景ではあるが、一つだけ召喚体とは異なる点がある。
怪物の体が半分ほど消えてしまうと、その中から小さな影が地面へと降り立った。その姿は見慣れた、私と色違いの格好をした少女、コーディリアである。
「はぁー……この魔法、やっぱり楽しいですわ」
「……でしょうね」
何かいい笑顔をしているコーディリアは、自ら平らげた戦場を目にして満足気だ。
まぁ楽しいだろうな。他を圧倒する能力で敵を殲滅してしまうというのは。私がやりたいかと言われれば、あの見た目を何とかしてくれない限り遠慮したいが。
今回の私達の基本方針となる作戦は、とても簡単だ。
私がコーディリアの詠唱時間を稼ぎ、十分に戦力が整った所で攻勢に出る。戦力の整え方はもちろん蠱術の召喚であるが、それ以上に切り札となっているのが彼女の“変身”の魔法である。
もちろん蠱術の授業で習う物ではない。彼女のオリジナル魔法だ。
本来演技士科の魔法であるそれは、装備品や能力値を変動させるという効果の魔法でしかない。
しかし、それを蠱術として転用した時、“自分の体を召喚体と同等の能力にする”という効果へと変化した。本来自分にしか効果のない狂化魔法を、私が他人に使う事が出来るのと同じ様な理屈なのだろう。同じ魔法を別の魔法に持って来ると、その性質が変化してしまう事がある。
コーディリアはそれを使って、さっきまで暴れていた怪物へと変身していたというわけだ。
尤も、召喚体は多くの場合生徒に比べて非常に弱い。
召喚の最大の利点は数の利を得られる事なので、召喚体はその分能力値が低めに設定されているのだ。そのため普通に使っても姿を変える事が出来るだけ。見た目が変われば色々と使い様もある気もするが、直接的に戦闘での利点は少ないだろう。
そこで私の例の研究成果が輝く。
……まさかとは思っていたが、本当にこんな事が可能になるとはな。
使うのはもちろん呪術ではなく、魔法陣の短縮表記だ。コーディリアには邪法も呪術も適正がない。
色々と面倒な制約はあったのだが、簡単に結論だけ言えば、これさえあれば召喚陣の改造が可能になるのである。
今まで召喚陣は、その情報密度の関係で“召喚体”から自動生成された物しか使えなかったのだが、短縮表記によってある程度内容を弄る事が可能になったのだ。
召喚陣の改造で分かりやすい所と言えば、召喚体の能力値だろう。
召喚陣には召喚体の使う技や能力値が書き込まれている。この数字を書き換える事が出来れば、理論上能力値は無限に増やす事が出来る……はずだった。
しかし、もちろんそんな事が単純に許されるわけもない。別にそこまで期待していたわけではないのだが、召喚陣を改造しても召喚体は呼び出せない理由がいくつかあるのだ。
余りにも強いのである程度失敗するだろうなと予想していたのは事実だが、短縮表記で消費魔力が激増するという問題以外にも色々と課題があった。
まず、召喚魔法というのがどういう理屈で動いているのかというと、召喚体生成用の魔法陣と魔石を使って召喚体を作り上げる事から始まる。
召喚体の種類を増やすための授業では、召喚陣ではなくこの召喚体の生成陣を習うらしい。召喚の種類毎に生成陣が別にあるという事だ。これはとても特殊な陣であり、生徒が勝手に新しく作るなんて事は不可能である。
生成された召喚体の能力は使用した魔法陣だけでなく、生成に使った魔石の内容、つまりは魔力因子の影響を受ける。魔石は一つ一つ中身が微妙に異なるため、完全に同一のものは滅多に生まれないらしい。
召喚体を生み出すには、最初に生成陣に魔石を乗せ、外見などの情報を与えて魔力を通す。
そうして作られた召喚体は、術者の魔法体の中に宿る。体に宿った召喚体から対応する召喚陣を作り上げ、術者はそれを用いる事で召喚体を戦わせる。
つまり、召喚体が先にあり、召喚陣は召喚体ありきで作られる陣なのである。
それにも拘わらず、私達はまず最初に召喚陣を作ってしまった。
この方法では当然呼び出すための召喚体が存在しない。
例え短縮表記によって倍増した消費魔力を十分に用意しても、召喚体が居ないので術は不発となるのだ。陣の改造さえすれば召喚体の育成に割くコストを削減するどころか、無敵の存在を生み出す事が出来る……なんて甘い夢はもちろん実現しなかったのだ。
しかし、現にこうしてコーディリアは改造した召喚陣を使って戦えている。
その鍵を握っているのは、蠱術に流用した変身魔法の性質だ。
蠱術に転用した変身魔法は、“召喚陣”と対応してその姿を変化させるという魔法。引用元が召喚体ではないというのが重要だ。
そのため、変身する先の召喚体が召喚中でも使えるし、そもそも召喚体が魔法陣から生成されて体に宿っている必要もない。その召喚陣が今使用可能か否かは無関係であり、見かけ上機能する召喚陣さえあれば、それを使って変身する事が可能なのだ。
そうして出来上がったのが、あの怪物。
魔物の親玉の様な性能を持った体は、生徒や兵士を次々と薙ぎ倒すことを可能にする。本人は貧弱な能力しか持たないコーディリアでも、その辺の前衛に押し負けるなんて事はなくなってしまうのだ。
ちなみに、古代召喚陣は生成陣が存在せず、初期状態だと生成陣としても使えるらしく、ロザリーもコーディリアも召喚陣に魔石と身体を捧げたようだ。
何やら秘密のありそうな話だ。もしかすると古代蠱術や古代死霊術は本当に“何かを呼び出している”のかもしれない。
ちなみに、そんな夢の様な方法にも、大きな欠点がいくつかある。変身中は無敵の能力値! なんてお気軽な話でもないのだ。
まず最初に、敵から隠れなければならない程の膨大な詠唱時間。
この長さは変身する対象によって変化するが、今使っている設定では短縮詠唱によって短縮しても非常に長い間無防備となってしまう。それをどうにかするため、私が決死の思いで敵から逃げ回らなければならない。
続いて、変身に必要な魔力量。
こちらも変身先によって量が違う。自分の能力値と変身先の能力値の差によって変化するようなので、実力に見合わない程に強い存在になる事は出来ない。逆に言うと、魔力最大値さえあれば他の能力値を補う事が出来るようになる。
消費魔力は詠唱時間が長い事と、変身中に魔力が減っていく仕様から踏み倒すことも難しい。
最後に、変身後は完全に変身先の能力になってしまう事だ。
これは当たり前の話なのだが、召喚体は蠱術を取得していない。そのため、コーディリアは変身後に一切の魔法を使う事が出来なくなってしまう。
これは少し問題だった。
戦力を整えるためには、コーディリア単独ではなく複数の召喚体を必要とする。その状況を実現するためには、予め召喚をしておいてそれから変身する事になる……のだが、一番時間のかかる魔法を最後に使う必要があるのだ。
変身魔法の詠唱中は召喚体への命令もできない。ある程度自律制御させていれば別だが、待機命令中ではそれも不可能だ。
つまり、コーディリアは詠唱中に戦況が急に変動したとしても私の救助には来られない。出来たとしても、それは変身魔法をキャンセルした、もしくはさせられた場合だけ。
その上召喚時間には制限があるため、一斉に攻撃を仕掛けるためにはある程度召喚時間を無駄にする必要があるし、誰をどの順番で呼び出すかも戦闘開始直後に決めなければならない。
変身魔法の本家本元である演技士でもある程度そうなのだが、蠱術に転用した今ではそれ以上に小回りの利きにくい魔法となってしまっている。
もちろんこうして勝てている以上、それを差し引いても十分な性能の魔法であることは間違いないのだが。
何にせよ、虫の体を手に入れてご満悦のコーディリアは、小さく歌を口ずさみながら黒い桜月を空に放つのだった。




