第201話 魔物と神と
「逃げ出した魚って、もしかして木にぶら下がってるあれ?」
ベルトラルドが彼岸花の下の水球を指差し、湖底へとそう問いかける。確かにこの森で逃げ出す先など、他には考えられない。というか、魚らしい魚を私達はあそこでしか見ていないのだ。
それに対して沼の底から返って来たのは肯定だ。
『神格を持った沼から、森へと逃げ出した魚は大きな花を咲かせた。それが森の木々を食い荒らし、この森は今の形となっていった』
「あれ、花があるところに魚がいるのではなく、魚が花を咲かせたのですわね。……餌がないから逃げたのかしら」
『そうではない。我らが神格を失いつつあるのだ』
主の言葉と同時にずんと地面が揺れ動く。どうもあれから揺れが続くな。そういう土地だという事は話を聞いて理解したが。
それにしても、神格を失いつつあるから魚が逃げたとは、一体何の事だろうか。
あくまでも沼とその主が神格を持っているだけなので、魚は捧げ物でしかない。逃げた先で神格を保てるという話ではないだろうに。
沼の主は何かに急かされる様に言葉を続ける。まるでそうしなければならないとでも言う様に。
『私の自我は神格がもたらした。元々この体に備わっていた物ではない』
「人に崇められる存在として生まれた意識、という事ですか?」
『そうだ。信者も失い、神格が消えて行く今、体は自我と分離し始めている。今ではこうして他者の存在からの逆算によって自己を認識する事でしか形を保てぬ。それは他の魚も同じ事だ』
……なるほどな。それは道理だ。
希薄な自我しか持たない体に、神格によって無理矢理鮮明な意識を持たされている沼の主。つまり彼は頭脳という演算能力の上限を超えた精神を保持している事になる。
神格が消えれば自我を失うというのは、考えてみると当たり前だ。“沼の主”という人格は神の座に居たからこそ得られた、仮初めの物なのだから。
しかし、それが何だというんだ?
魚から自我がなくなったとして、沼から逃げ出す理由にはならないだろう。それもあんな高い場所まで。
『他の神がどうなのかは知らぬ。しかし、我らは自我を失うよりも先に、力が完全に失われるという事はない』
「つまり、自我が無くて力だけは神格の残滓があるって事だよね。って事は……暴走?」
『お前達も見ただろう。我らが同胞の姿を。魔物となり周囲を無差別に襲うあの様を』
私は彼の言葉を耳に入れて、沼から追い出されたままこちらを恨めしそうに見ている魔物達を眺める。
あそこでああしている魔物が、その元魚という事か。確かに魚の特徴を持っている魔物ばかりが出てくると思っていたが、そんな由来があったんだな。
思えば地震の後に大量発生したのも、もしかすると彼岸花の水球から落ちて来た魚が魔物と化したからなのではないだろうか。一匹の魚が一体の魔物になるわけではなさそうだが、それだとあのタイミングには納得がいく。
私がそんな事を考えている隣で、リンが沼の底へと問い掛ける。
「仮にも神格を持った存在が、魔物へと変じるというのですか?」
『ああ。魔物とは死した者。力に善悪が存在しない以上、神も死すれば魔物と変ずる。何もおかしな事ではあるまい』
「……」
沼の主の話を聞いて、リンが押し黙る。何かを考えている様にも見えるが、その内容はもちろん本人にしか分からない。
それに、沼の主の話も少し実際の仕組みとは異なると思う。
そもそも“神格”にすら善悪はないのだ。闇の神も神格を持っていた。それも光の神と同等の物であったと考えられる。悪神と呼ぶにも邪神と呼ぶにも多少憚られるあの神様だが、少なくとも“良い”性質を持っている神ではないのは確かだ。
そんな彼女が最大の神格を持っているのだから、神格それ自体に良いとか悪いとかそういう概念はないはずだ。
そして、そんな闇の神の作り出した存在が魔物である。神格を持った神やそこに捧げられて共に生活していた生き物が、自我と神格を失って魔物へと身をやつすというのはそもそも死体が魔物になる以上に自然な事なのだ。
なぜなら、神話の後の時代の神は光の神との直接的な関連性が、人間以上に薄いのだから。
『……そろそろ、潮時だな。この沼を離れると良い』
「そうですか。時間が残されていないのですね」
『そうだ。私の自我はもう消える。お前たちが来なければ既に消えてしまっていた事だろう』
「……そうなると、あなたの体はどうなるのですか?」
『さてな。以前の体に戻るのかもしれぬ。色々と考えてはいたが、どれも確証はない』
リンとのそんな会話を最後に、沼から溢れていた光がふっと消える。それと同時に“何かが”沼の底から消えたのが分かった。気配、とでも言うのだろうか。何か大きな存在の気配が、足元から感じられなくなったのだ。
それと同時に沼に魔物が足を踏み入れる。
しかし、彼らは以前の様に水面を叩くなんて事はしていない。きっとここから神格が失われてしまった事を感じ取っているのだろう。
……もしかすると彼らも、この水底へと戻りたかったのかもしれないな。残念だがここからでは水の中へは入れない。捧げ物をする度に縁を削り、沼を広げて行った村人たちの様に、水の外側から入らなければならないのだろう。
魔物が私達を目指して一直線に迫り来る。リンが蹴散らしたとはいえ、まだまだ数は多い。半分以上は残っているだろう。そんなのに囲まれては一溜まりもない。
しかし、私達がそれを気にする必要はなかった。
沼の底で、大きな影が動き出す。今まではじっとその身を潜めていたというのに、こちらを見付けて一直線だ。
まるで人が変わったかのようなその動きを見て、誰かが小さく息を飲んだ。
豪快な水音を立てて巨大な影が水面から飛び出し、そのまま私達を飛び越える。
彼が作った波は距離が離れる程に勢いを増し、集まって来ていた魔物達を森の縁へと押しやった。私は水飛沫を傘で防ぐと、件の巨大な影を見る。
そこに居たのは大きなナマズだ。
地震を予知する魚と聞いて何となくそうではないかと考えていたのだが、まさか本当にそうだったとは。
鱗のない黒い体に平たい頭。大きな口には用途不明の鋭い刃が生え揃っている。髭も長いが、体も長い。全長は優に10mを超えるだろう。体の半分が水面の下に入っているので、実はもっと長いかもしれない。
彼は人間を数人丸呑みに出来る大きな口を開け、奇怪な鳴き声でこちらを威嚇する。
そこに人と話し合うような理性は少しも見て取れない。
「……忘れられた神のなれの果て」
「では、とりあえず戦ってみますか。流石に神と戦うのは……いや、あったな」
「あるのですか!?」
「課題、戦闘ログは提出」
自我を失った沼の主を見てリンが小さく何かを呟くが、私には聞き取る事が出来なかった。
「人に請われて神になった魚、人の都合で……思う所はありますが、あなたが悪しき者だというのなら祓うまで。容赦はしません」
沼の主は彼女の言葉を聞いていたかのように動き出し、こちらに向かって長い体を伸ばしたのだった。
今週はちょっと土日の更新が怪しいです。絶対休むという程ではないのですが、おそらく更新はないと考えて下さい。
遅くとも月曜日には再開しますので、気長にお待ちください。




