第200話 沼の主
集まっていた魔物の半分程が消滅し、視界が大きく開ける。
私は一先ず思考を占領していた疑問を頭の片隅へと畳んで押し込み、時間が限られている課題の方へと意識を戻す。
そこに広がっていたのは、一見するとただの湖だ。いや、大きさ的には池と呼んだ方がいいだろうか。とにかく大きな水溜まり。
しかし、その様子は誰がどう見ても普通ではない。疫病の蛇の頭が眠っていたあの湖に比べてかなり小さいが、ここには明らかにおかしな点があった。
波が一つも立ってないのである。
どこかから水が流れ込んでいるようには見えないが、それでなくとも風がないわけでもないのに波が立つことは一切ない。
リンが消滅させ切れなかった魔物がまだ湖に集まっているが、彼らはそのガラスの様な水面に立っている。足踏みをしても拳を振り下ろしても波は立たず、水面より下に体が沈むという事もない。どう見ても浮いているというより立っている。実は比重が異様に大きくて浮力で……とも考えたのだが、どうも摩擦までありそうな動きだ。
私とティファニーは揃ってその水底を覗き込むが、特に何かが見えるわけではない。水は透き通ってはいるが、湖の底は暗く見通すことはできない。
……まぁそもそもこれ、本当に水なのかすら怪しいが。
周囲の魔物は粗方片付いてしまったし、残っている魔物も私達に気付いても怯えた様にこちらを窺うばかり。そっちの魔物の様子も気になるが……それより先にどうしても試してみたくなってしまうな。
私はそっと水面に足を差し出す。
少しばかり踵の高い硬い靴は、まるでガラスに触れたような硬質な音を立てて水面で強く反発する。私の軽い体では、それ以降いくら体重を掛けても体が沈むという事はなかった。
今まで柔らかな土の上ばかり歩いてきたが、これはかなり固い床だ。手で触っても指先が濡れるという事はなく、つるつるとした感触が伝わるだけ。本当にガラスみたいだ。
湖の水を全部抜いて、そこに水の色をしたガラスを流し込んだらこういう事になるだろう。もちろん本当にこれがガラスなら、まず間違いなく今頃バリバリに砕け散っていると思うが。
リンが乗っても何の問題もない(そもそもあの鉄球と盾が直撃したのは湖の上、つまり水面である)この湖、一体どういった物なのだろうか。人里らしき場所がなく文字媒体の資料がないので、話を聞ける人物となると限られていく。
一番おっかなびっくりだったウタミヤが水面に足を乗せ、全員が湖へと足を踏み入れる。
すると僅かな光が湖から溢れ出し、集まっていた魔物達を追い出していく。リンの魔法と違って大した威力ではないようだが、この光を浴びると魔物は一応苦しいらしい。蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく様は、その数もあって中々に壮観だ。
……何とも実に神の力っぽいな。あのリンの後ではあまりに弱々しいが、これはこれで神秘的な場面だ。
『何者だ……そこに誰かいるのか……?』
「……いますよ。そういうあなたはどこの誰ですか」
光と共に下から聞こえてきた声に適当に返事をすると、水面が僅かに揺れる。
いや、これは……地震か? 森を振り返れば、大きな彼岸花も僅かに揺れ動いている。その動き方を見るに、どうやら風ではなさそうだ。
先程の地震に比べるとあまりに小さな揺れだが、それでも無視できるような現象ではない。
『ああ、随分と長い間眠っていたようだ……私の意識ももう長くはないだろう……』
地震を気にした様子もない声の主は、変わらず大地が響くような低い声を水底から私達へと投げかける。
……おそらくは彼がそうなのだろう。私達の探している相手であり、今回の調査対象。
『私は、この沼の主。それ以外に名乗るべき名を持たぬ』
「沼? 沼っていうかこれは、池とか湖に見えるけど……」
『今はそうかもしれぬ。しかし、元は小さな泥沼だった……』
沼の主を名乗る彼がそう語ると、湖の底で何かが動く。素早く物陰から物陰へと移動するその動きは、水辺ではよく見るものだ。
『私はこの沼にいた、ただの魚。人からは沼の主と呼ばれていた……』
「……その割りに、随分と好待遇だったようですが?」
彼の謙遜とも受け取れる言葉を聞いて、私は純粋に疑問を返す。
まず間違いなくこの沼の主は鎮守神だろう。この世界では何年前の話なのかは分からないが、大量の人柱を得てかなりの神格を獲得していたと思われる。
何せこの不可思議な水の中に住んでいるのだ。本人の言う通りに、ただの魚でも神秘を感じる人は多かっただろう。それとも、ここ以外に神様がいるとでも言うつもりか?
私の言葉を聞いてぐぐぐと唸る様な音が響く。笑っている、のだろうか。はっきり言って愉快そうには聞こえないが。
『……どうやらただの旅人ではないようだ。それならば我が最期の時に付き合ってもらおうか』
「随分と一方的な話ですね」
『なに、ただの昔話だ』
リンの非難めいた言葉を受けても平然としている沼の主は、静かに語り始めた。
昔、ここは人など住んでいない土地であったという。
そこには小さな泥沼があり、大きな魚が一匹住んでいた。彼は自分が誰なのかも知らないどころか自我すら希薄な生物で、ただただ沼の中で何も食べずにじっと眠っていたのだという。
時折雨や風を感じに水面へと顔を出すことはあったが、誰かと交流する事も戦う事もなく、一人でじっと水底に沈んでいた。
……おそらくはこの時から、地脈などから魔力を吸収して成長する、半精霊のような存在だったのだろう。
そんな日々が始まってから随分と長い年月を経て、ある日一人の人間がこの沼を見付けた。
この辺りで地表に出ている水は珍しいと釣り糸を垂らしたが、どういうわけか水面に釣り糸が入らない。凍っているわけでもないのに波も立たず、それどころかその上を歩けてしまう。
あまりに不思議なその沼と、時折顔を見せる大きな大きな沼の主は、釣り人の住む村で大いに話題になった。
その村は剣の王と呼ばれる侵略者によって追い立てられ、遠くの故郷から落ち延びた者達で構成された比較的新しい村だった。もちろん信仰の対象は光の神。他に娯楽もない村では、手が空くと不思議な沼の見物に来る者も多かったという。
そんなある日、事件は起きた。
『ここは森のへそ。森の腹が鳴る前に、血が巡り音が鳴る』
「……何の話?」
突然比喩の様な表現が出て来て私達は首を傾げる。
詳しく話を聞けば、森の腹が鳴るというのはどうも地震の事らしい。森のへそとはこの沼の事。
それらを踏まえれば、血が巡り音が鳴るというのは“地震の前にこの沼で水が流れるような音が鳴る”という事だ。
度々見物に来ていた村人は、地震の前にここで奇妙な音が鳴る事に気付いたという。そしてそれを“沼の主の声”だと勘違いした。
これが沼の主への信仰の始まりだった。
『森は生きている。腹を空かせては、建物や動物、人を地の底へと飲み込む』
「だから、それを予知できる沼の主に頼ったと……そう言う事ですの?」
……なるほど。そうして彼は僅かながら神格を得たわけだ。
神格を得るのに必要なのは集団からの信仰心だ。まぁ極端な例だと個人でもいいらしいのだが、そんなのは例外中の例外である。
そしてそこに、信仰の根本となる情報が間違っているとかいないとかは関係がない。心が本物なら、信仰の対象は神格を得る。いつかの村のシンシも神の使いを僭称する事によって神格を高めていた。
あれと似たようなことがここでも起きていたのだ。尤も、こちらは本人に騙すような意図は全くないという点が異なるが。
たまたまここが地震の前に音が鳴る地形で、彼はそこに住んでいた少し特殊なだけの魚。それを“沼の主は地震を予知する”と勘違いされて神格を得た。
聞いていると何とも不思議な気分になって来る話だ。
しかし、それが本当だとすると一つ納得がいく。
異様な程に周期的ではない人柱の時期の話だ。あれはきっと大きな地震の後の行為だったのではないだろうか。だから年に何度もある時と、数年間が空く時があったのだ。
「……ところで、その村人はあなたに何を捧げていたんですか?」
……納得がいった情報もあったが、話を聞いてもう一つ気になった事もある。
話を聞く限り、この沼の主はかなり小さな村で信仰されていた神だ。つまり、年に何人もの生贄を捧げるなんて余裕がない場所であるのは間違いない。
『その者達は色鮮やかな魚を飼っていた。私を見て独りでは寂しかろうと地面を掘って沼へと流した』
「……それがあの名簿。人間の名前じゃなかったんですね」
何ともまぁ呆気ない話で。そもそも人柱の習慣などなかったのか。
私が肩透かしだったとばかりにため息を吐くと、沼の底から小さく声が響く。その言葉は私にとってある意味で予想外の物だった。
『尤も、今となっては皆逃げ出してしまったがな』
ブックマーク、評価、ご感想、ご愛読いつもありがとうございます。
今回の更新で拙作が200話を突破いたしました。これも皆様の応援の賜物です。ありがとうございます。
今後も可能な限り更新を続けていきますので、拙作を楽しみにしていただければ幸いです。




