第0話 魔女の戯れ
煌々と輝く大きな月は周囲の星々の明かりを吹き飛ばし、湖畔に居る人間の影を鮮烈に浮かび上がらせている。
そこに居るのは数人の男女だ。
様々な鎧を身に纏い、ある一人の人物に刃を向けている。人数差は明白だが各々の表情は緊張を感じさせるものであり、この状況をとても気楽に捉えているようには見えなかった。
「観念しろ、魔女め! もう逃げられないよ」
「……遺跡の盗掘だけではなく、“あんな物”までばら撒くなんてあんた一体何を考えているんだ」
対して、敵意を向けられ魔女と呼ばれた人物は、そんな怒声も気にした様子はない。この状況を不利だとは微塵も思っていない様子である。
彼女は幼い容姿をしていた。
あまりに小さな体躯は武装した彼らであれば容易に組み敷けるどころか、強く掴めば折れてしまいそうな程に儚い。豪奢な衣装も相まってその容姿は、月光に照らされた美しい姫の様に見えただろう。
ただ一点を除いては。
口元を、あまりに不釣り合いで武骨なマスクで覆っているのだ。服を着飾っている割りに、そこだけは機能性を重視したガスマスクである。
彼らと話すつもりはないのか、口元を覆う二本の呼吸缶は音すらしない。彼女は手元の日傘を弄ぶばかりだ。
「……分かった。答える気はないんだな」
そんな様子にしびれを切らした一人の男が、湖を背にした彼女に迫る。その手には鋭い槍を持って。手にした槍は、確かにか弱そうな彼女を刺し殺すには十分な威力を持っているように見える。
彼を援護するため他の数名が、彼を追って駆け出す。後ろに控えている者も、油断することなくそれを見守っている。ようやく包囲できた彼女を、万に一つも見逃せない。
そして、槍が彼女を貫いた。
月の光は、確かに少女の胸を武骨な刃が刺し貫いた事を照らしている。
しかし男は、あまりに薄い手応えに顔を顰める。
貫かれた彼女も、そこから一歩も動きはしない。まるで実体がないかのような無反応。ここまできてようやく彼は異変に気が付いた。
その瞬間、男の背後からシューッと激しい音が響く。それと同時に、辺りは白い煙に包まれていく。
「何だ!?」
「ガスだ! 逃げ……」
突如噴出した煙によって塞がった視界の中で、仲間の倒れる音だけが響く。
これは不味いと駆け出した男だったが、すぐに仲間の後を追う様に膝を突いてしまう。元より背後は湖だったので、彼に逃げ場などなかったのだが。
男は動かなくなった視界の中で必死に状況を確認する。
辺りは一面真っ白だが、そんな中でも何かが動いている様な音だけは耳に入る。
しかし、彼にはそれが仲間の物だと考える事は出来なかった。後方支援役の味方からの声は一切聞こえない。同じ様に倒れてしまったのだろうかと想像するばかりである。
そんな中、地面が禍々しい色合いに一瞬だけ光る。何かの魔法であることは分かるが、その内容は専門家ではない彼には読み解けない。ただ、その内容を想像すればするだけ嫌な焦燥感だけが募る。
そして煙の中から僅かに聞こえた軽く硬い靴音。その存在に振り向こうとし、その直後に首元に刃物が突き刺さる。
「っ……」
「気分は如何でしょうか」
上から降ってきたのは、聞き覚えのある幼い声。彼はそれが魔女のものであると知っていた。
道理で返事もないはずだ。男は最初から幻と会話しているつもりになっていた自分を恥じ、首を振ろうとして諦めた。指の一つも動かせないのだ。
魔女はしばらく突き刺したままだったナイフを引き抜くと、それ以上何をするでもなく歩き去って行く。
男の首からは出血もなく、このままでは死なないだろうと踏んだ男は彼女の行為を怪訝に思う。まさか見逃してくれるわけではないだろう。それだけの“因縁”が彼らの間にはある。これ以上自分達に何をするのかと彼女の足音を追う。
しかし、それは無駄な行為だった。
彼女は動けない男の口に、ある物を蹴り入れる。異性から食べ物を貰う……と言うにはあまりに乱暴な方法だが、その内容も最低の物だっただろう。
それはさっきまで煙を放出していたガス缶だった。すっかり出し尽くしてしまって、もうただの燃えないゴミでしかないが、それでも毒薬の容器を銜えさせられると言うのはいい気分ではないだろう。
「この煙は強烈な神経毒……言い方を変えれば麻痺毒です。数秒もこの中に居れば、余程強力な耐性でもない限り動けなくなってしまうでしょう。……とは言え、あなた方はそれだけで死ぬことはない」
缶をぐりぐりと愛らしい爪先で弄んでいた彼女だったが、突然そんな解説染みたことを語り始める。
しかしそれが何かの交渉というわけではないと言うことは、すぐに分かった。
「そして、先程のナイフですが、倒れていて見えなかったでしょうけれど毒を注入する形になっています。……もう、後30秒程でしょうか」
「……!」
その言葉を聞いていた男達はそれが何のカウントダウンなのかを察し、何とか体を動かそうともがく。しかし麻痺が入ったばかりの彼らの中から、奇跡の脱出を可能とした者は一人もいない。
ただ一人、魔女を除いて、誰もが微かに呻くばかりである。
それを見ていた“魔女”は、堪らず我が身を掻き抱く。そして幼く、高く、それでいて淫靡にも聞こえる嬌声を漏らした。
「あぁ、素敵……ねぇ、どんな気持ちですか?」
「……」
「まともに動けもせずにじわじわ死んでいくの、気持ち良いですか? 腹が立ちますか? それとも怖い? ねぇ!」
すっかり煙も晴れた中で、魔女は空になったガス缶を蹴飛ばす。ついに口から外れたそれは、男の唾液を撒き散らしながら湖へと落ちて行った。
「……悪人である私に、傷一つ付けずに、何も出来ずに死んでいくんですよ」
魔女は未だに動けずにいる男に馬乗りになると、耳元でそう囁く。
「それは何て素敵で、愛らしいのでしょう……ねぇ、正義の味方さん」