第191話 順調な戦闘
柔らかな光の差すその湖面には、波紋すら起きる事がない。
そよ風が僅かに周囲の草の葉を揺らすが、そこだけは凍り付いてしまったかのように止まったまま。底を覗き込めば転がっている石すらも見通せるというのに、この美しい湖には命の気配すら感じられなかった。
そんな湖の底に、彼は一人佇んでいた。
魚すらも逃げ出したその湖は彼のためだけの宝物であったはずだが、彼にとってはもうどうでもいい事だ。人々から忘れ去られ、そして自分自身でも自分という存在を忘れつつある。もうしばらくすればきっとこの水の中に解けて消えて行くのだろう。
彼をこの場所に繋ぎ留めている者は、もういないのだから。
***
彼岸花の森を歩く事しばらく。
茎が生えているだけで視界が大変良いこの場所は、魔物の“発生”というのが良く見える。こちらが近付くまで眠ったように動かない魔物もちらほら居るが、それ以外はどうやら何もない場所から唐突に出てきているらしい。魔力が不自然に集まり、徐々に体が形作られていく光景というのは肉眼で見ても魔法視で見ても、かなり興味深い現象だ。
私達の魔法技術では、“このように”魔物を作る事は出来ない。
召喚体という非常によく似た性質を持っている存在を作り上げる事は出来るが、人の手を借りずにこうして自然発生させる事は困難だ。人間の様に雌雄で繁殖する種類も確認されているらしいが、基本的に魔物はこうやって増える事が多い。
魔法世界で魔物がなぜ発生する物なのかすら、私達にはよく分かっていない。
だからこそこの現象は興味深い。尤も、役に立たなそうなので積極的に研究しようとは思わないが。
今も、私達の丁度目の前に魔物が現れた。戦闘は避けられない距離である。
しかしその魔物は、体が完全に完成する前に鉄球によって弾き飛ばされた。かなりの距離を吹き飛びながら、魔力は単眼の魚の形になっていく。
……いや本当の所、これを魚と呼んでいいのかは分からない。何せこいつら、爬虫類のような前足が生えているのである。前後は逆だが、成長途中のオタマジャクシのような体の形だ。
まぁ私の中でオタマジャクシは両生類であると同時に魚なので、魚と呼ぶことに忌避感はないが。
リンの鉄球はその魚を一撃で粉砕し、戦闘は終了……という事にはならない。
私が静かに目を閉じれば、魚に纏わりつく黄色のオーラが小さく見える。魔物の体力は今の一撃で3割程度の減少だろうか。遠近感のせいで非常に分かりづらいが、全損していない事は確かだろう。
実際にこの森で戦闘が始まって気付いた事だが、リンは見た目から想像できない程に攻撃力が低い。
いや、比較対象がリサ……私の記憶に深く根付いているあの狂戦士なので仕方ない事なのだが、それでも数tはあるであろう鉄球を振り回している事を考えれば、敵の体力の減少は極僅かと言っていいだろう。
何せあの鉄球が直撃するのと、ティファニーの爆弾矢が刺さるのでは後者の方が高威力なのだから。現実的に考えれば前者の方が破壊力は強そうに思える。
ただし、彼女のその圧倒的な装備重量から繰り出される攻撃は、例え相手が2mを超える巨体でも易々と吹き飛ばしてしまう。相手が遠距離攻撃持ちであろうと攻撃範囲外へと一撃で弾き飛ばすので、盾が必要なのかが疑問になる程度には一方的な展開である。
鎖で繋がれた鉄球という長いリーチと、極限まで削られた敏捷性。それらを使って戦うには、こういう戦い方が確かに理にかなっているのかもしれない。
「ふふっ、わたくしの音色。存分に堪能なさいな」
私の隣ではそんな“独り言”を口にするウタミヤが、チェロのような楽器を演奏し始めていた。
リンの戦闘開始があまりに早かったので最初の攻撃に支援効果が乗っていなかったが、彼女はそもそもあまり魔法を使うのを急いでいる様には見えない。サポート役というのは何かと行動を急かされる立場だと思うのだが、演奏中に移動できないという性質を気にしているのだろうか。一応彼女の歌詠みとしての戦い方の工夫の一つなのであろう。
ちなみに、彼女の使っている楽器がチェロであると言い切れないのは、それが私の知っている楽器とは似ても似つかないからである。
戦場で立って演奏するためなのか楽器の尻に付ける、エンドピンと呼ばれる“脚”の部分が妙な形になっている。これが大幅にチェロとしてのシルエットを崩している。実際の楽器部分の大きさは大したことがないようだが、一見するとコントラバスの様な……いや、それ以上のサイズ感だ。
彼女はそんな巨大な楽器の弦に、楽器に使うには些か武骨な弓を当てて音を鳴らす。本来歌詠みの魔法は音なら何でもいいはずだが、彼女は何らかの拘りでもあるのか、優美な曲を演奏し始めた。まぁ確かに良く似合ってはいる。
その所作を注意深く観察すれば、どうやらピンに接続された足元のペダルで音を調整しているらしく、弦もなぜか1本増えていて5本。もうここまで来ると元の楽器の面影は一切ないし、本当にチェロが元になっていたのかすら怪しくなってくる。
おそらくだが、とにかく少ない手の動きで音域を広くするために作られた物なのだろう。
肝心のその旋律の効果は、何らかの味方の支援効果ではあるだろうが、攻撃も防御もしない私には実感が薄い。何かの役に立っているのは間違いないとは思う。実感がないので何とも言い難いが。
私は新顔の二人の動きを横目で確認しつつ、隊列の横から襲い掛かって来ていた別の魚を麻痺で止める。……このまま一つずつ状態異常耐性を調べて行くとするか。
まだまだ苦戦するような敵には出会っていないので、戦闘への貢献よりも先に情報収集をしておいた方がいいだろう。
ちなみにティファニーは珍しく嬉々とした表情でその弓の腕前を披露していた。私やベルトラルドがおだてたなんてわけではなく、単純に長距離狙撃の機会が多いからだ。アクロバットに活躍する姿の方が印象に深いのだが、元々彼女はこういう戦い方の方が好みらしい。
今も彼女はリンが弾き飛ばした魚を吹き飛んでいる最中に追撃するという、曲芸以外の何物でもない動きを成功させて大変ご機嫌だ。
もちろんその腕前は評価に値する、というか普通に凄い事なのだが、それを当てたからと言って何だというのか。戦闘の全体から見ればほとんど利点などないと言っていいだろう。
こちらとしてはむしろ確実に当たる的を優先して狙ってもらいたいのだが、どうも当たると分かっている的を狙うのが詰まらないらしい。
……当たるか外れるかが分からない的を狙いたいというのは、スナイパーというよりはギャンブラーに思える。
リンの派手な戦闘音やウタミヤの音色に釣られて来たわけではないだろうが、私達を中心にしてぞろぞろと魚が集まり出す。
この彼岸花の森は視界が開けているので、一度戦闘が始まって進む足を止めてしまうとこうして囲まれる事も多い。ある意味で厄介な場所だ。私や歌詠みに直接的な戦闘力はあまりないので、前衛が出来る3人に頑張ってもらうしかない。
そんなちょっとした危機を前にして、ようやく動き出した生徒がいた。周囲を取り囲まれるまで沈黙していたその少女は、ベルトラルド。
予備戦力としていつでも動けるようにしている……という考えが彼女にあるのかは怪しい。おそらくは動くだけで魔力を消耗するので、可能な限り働きたくないのだろう。それは理解できるが、パープルマーカーには気を付けて欲しい。
彼女は不気味な人形に出撃を命じる。それを受けて、一体だけ別方向から来ていた魚人の様な魔物に人形が左手を向けた。
直後、ゼンマイが弾けたような駆動音と共に人形の“左手”が飛翔する。
ワイヤーで接続された手に備え付けられているのは、三本の鉤爪のような指。それが音を立てて開かれ、魚人の頭に直撃すると同時に、潰すような勢いで握り込んだ。
凄まじい速度で射出されていたワイヤーは、先端の位置が魚人の頭に固定された事で僅かに撓む。
しかしそれが地面に落ちる前に、今度は魚人が宙を舞う事になった。人形がワイヤーを引き戻した事で、人形に比べて軽い魚人が勢いよく地面から浮き上がったのだ。
文字通り釣り上げられた魚を待っていたのは、鋭い槍の先。
人形は右腕に装着された槍を構えて、獲物が飛び込んでくるのを待っている。頭を鉤爪にがっちりと捉えられている彼には、最早なす術もないだろう。
小さく返しの付いた槍が、魚人の首を的確に刺し貫く。
人形はそこに一切の感情を見せる事はなく、リンの方へと魚人を投げ捨てた。
しかし、彼は人形からの二度の攻撃を受けても、まだ生きていた。それが彼にとって幸運だったのかは分からないが。
こちらをチラリとも見ずに、魔物の集団相手に戦い続けているリン。彼女は人形が投げ捨てた魚人を冷たい目で見下ろすと、左手に持っていた盾を持ち上げた。
未だ立ち上がる事すらできていない哀れな魔物。
彼は彼女の振り下ろす、あまりに鈍い切れ味のギロチンに頭蓋を砕かれて消えて行ったのだった。
私は魔物の増援が一旦止まり、残っている敵もティファニーとリンが殲滅しているのを確認してから、何とか麻痺と毒沼から抜け出そうともがく魔物を眺める。
……ふむ。この森に出る魔物は状態異常耐性が結構高いな。毒が最低5倍となると、私の魔法一発では深度1にもならない。これを優先的に戦略に組み込むのは論外だ。
逆に全体的によく通るのは麻痺。どうも水属性っぽい魔物が多く出現する関係か、麻痺は高くとも3倍程度の耐性しか持っていなかった。これならギリギリで一発で入る。足止めが一撃で完了するというのは結構戦い方に影響するが、難点を言えば一倍と三倍が同時に出現するので、よく使う広範囲の魔法では一倍の方の累積耐性を無駄に上げてしまう事。
もう一つの足止めである昏睡は、魔物の種類によって効いたり効かなかったり。数が多い時は、戦いの流れをよく見てから足止めをする事にした方がよさそうか。
ウタミヤの支援効果を受け取ったリンが、私が弄んでいた魔物に向かって軽々と鉄球を振り下ろす。
土埃を巻き上げ、小石を砕き飛ばした彼女の攻撃は、ついに集まって来ていた魔物達をすべて粉砕したのだった。




