第185話 廊下の混雑
資料を読みながら廊下を歩く。
最近の調べ物は求める資料が禁書庫にすらない事が多いので、あまり期待できそうもないのだが、それでもこうした少しの空き時間でも未見の資料は読み進めた方がいい。
ただ、今回は選んだ資料が間違いだった。
いくつもの雑多な紙面をファイルしたこの資料、これを作った学者が単純に自分が気になった話をまとめただけのものだった。その雑多な情報故に何かのヒントになるのではと考えたのだが、正直あまり役に立ちそうな話は載っていない。
猫が好きだったんだなという事だけは想像が付く。関係のない猫の写真が何枚も挟んであるのだ。
そんなファイルの最後のページに、この世界では珍しい化学式が掲載されていた。どうも亜鉛を例にとって聖質化された銀の酸化についての考察を行っているようだ。光属性に偏る聖質化の後の酸化はかなり特殊な条件下でしか成立しないらしい。
それを酸化させるための方法が何通りか書かれているが、面白いとも思わないし、何より私にはまったく役に立たない知識であることは間違いないだろう。
私が普通の本よりも軽いそのファイルを閉じると同時に、私の手をだらしない顔で引いていたティファニーが口を開く。
彼女は、お互いに資料を読みながら歩いている間はコーディリアと手を繋ぐと言う話を聞いてから、私達がながら歩きをしている間は絶対に話しかけない様になった。手を繋ぐ時間が減るからである。所構わず抱き付かれるよりよっぽどマシなので正直助かる傾向だ。
「その恰好も可愛いねぇ。お人形さんみたいだよ」
「……そうですか」
ティファニーの言葉に私は淡泊な言葉を返す。
彼女からの誉め言葉にはすっかり慣れてしまった……というよりも、人形みたいと言われて普通の人は嬉しいのだろうか。私はあまり喜ばしい表現だと思わないのだが。
それに、今は普段と特別変わった格好をしているわけではない。
相変わらず学院では制服のままだし、髪型も普通に下ろしたままだ。それが人形っぽいという事は、元から私の容姿がそれっぽいというだけで、服装はあまり関係ないのでは?
今の格好の普段と違う点と言えば、後頭部に着けられた大きなリボンと、足をすっかり隠す薄手の黒いタイツ。たったそれだけだ。
脚は元々長めの靴下で隠していたし、リボンは髪留めとしての意味もなくただの装飾品となっている。ティファニーの要求で着せられたこれらが、特別な変化であるとは思えなかった。
そういう意味では、隣を歩いているティファニーの方が余程変化があると言っていいだろう。
彼女は普段から学院でも服を着替える事が多いのだが、今日は珍しく制服を着ている。彼女も元はこの格好だったはずなのに、いつもと違うと言うだけで逆に新鮮に見えるな。
余談だが、彼女に言わせれば「女の子は年16シーズン分の衣替え」が必要らしい。
私の認識では衣替えは年に二回だし、一年のシーズンは4つしかない。指摘するのも面倒だったのでそのままにしてあるが。
「うーん、やっぱりパンストもいいよね。幼女の生足が大トロだとしたら、パンストはサーモンだよ。わたし生魚食べられないから味知らないけど」
「あなた、意外に好き嫌い多いですよね。生魚に始まり、納豆、生卵、湯葉、カリフラワー、レバー……」
飲食店で働いていると言うのに、彼女は嫌いな食べ物が多い。いつだったか彼女の嫌いな食べ物について聞いた時は、こいつ本当に日本人かと疑ったほどだ。
その食の嗜好が原因で、料亭の和食なんかは大抵食べられないらしい。その上体型と健康のために糖質を制限しているので炭水化物もあまり食べない。
資料を読み終えた事で手持無沙汰になってしまった私は、彼女から手を放す。廊下の先を改めて確認して、目的地である準備室までの距離から到着時間を割り出すが、まだもう少し時間がかかりそうだ。だからと言って、資料をもう一つ……という距離でもないから困った物だ。
準備室や記録庫は寮から近いが、使用頻度の低い学院の施設から行くとなると少々遠いのが難点だな。
私は何となく会話を続けるため、さっきティファニーが口にしていた謎の単語を聞き返す。
「……ところで、パンストって何ですか?」
「え? パンストはパンストだけど……せ、サクラちゃんもしかしてパンスト知らないの!?」
「そんなに驚かれるような、常識的な用語なんですか? パン……パンダ、ストア?」
私は単に話のネタとして知らない言葉の意味を問い掛けたのだが、彼女は目を丸くして私の前で立ち止まる。そんな事も知らないのかと言われても、本当に知らないのだから仕方がない。
私はパンストという単語を、生まれてこの方一度だって聞いた事がないのだから。
私の反応がどうやら本気らしいという事を悟ると、彼女は難しい顔で私の足を指さした。
「パンストはパンティストッキングの略。まぁ和製英語なんだけどね。腰まであるストッキングの事だよ。サクラちゃんが今履いてるやつ」
「……? これはタイツじゃない?」
「シアータイツはタイツじゃないよ。タイツより薄手のやつ。下着の代わりとして履くからパンティストッキング、略してパンスト」
……何だかよく分からないが、どうやら彼女が私に今回渡してきたこのタイツ、彼女の中ではタイツとして認識されていないらしい。パンストなんて初めて聞いた単語だが……。
それに今ティファニー、よく分からない事を話していたな。下着の代わり? これが?
「……これって下着の代わりにするやつなんですか?」
「そうだよ! サクラちゃんもおパンツ脱いで履いてね!」
「そんな事したら全部丸見えじゃ……?」
「大丈夫! 見えてもいいやつだから!」
「いや、ダメでしょ」
この黒いタイツ(ティファニー曰くパンスト)はそれなりに透けている。そんな物を直で履いたら当然色々見えるだろう。一体何を考えているんだ?
ちなみに私はこれを普通にタイツだと思って履いたので、もちろん下着を着けている。当たり前だ。こんなシースルー生地と短いスカートだけなんて、ほぼ露出狂か何かだろう。
私は、本当にパンストという物が実在する代物で、ティファニーが私に性的な格好をさせるために作り上げた概念なのではないかと訝しむ。
しかし、その会話はそれ以上続くことはなかった。廊下を曲がった先の大きな音とざわめきによって、そんな疑念は塗り潰されてしまったのだ。
生徒準備室や万象の記録庫に続くこの廊下は、元々人通りが激しい。
尤も、その場にいる全員が目的を持って歩いているのが常。不心得者が複数人で準備室前で待ち合わせなんて愚かな事をしていない限り、この廊下が“渋滞”することは稀だ。
常に混雑はしているが、そんなのには皆慣れたものなので常に集団的に動き続け、そこまで不自由しない様になっている。入口や廊下も他の施設よりも広くなっているし。
しかし、今日はどういう訳か廊下が騒がしく、そして生徒の集団が廊下を完全に塞いでいた。普段はここでこんな事は滅多にない、というか私が入学してから初めての事だ。
入学直後は慣れていないのもあってここでの事件も色々とあったようだが、私は入学から1週間程度この辺りには近付きもしなかった。実際にこの目で見た事はない。
遠くから喧騒と共に聞こえてくるのは、どこかで聞いた事がある様な音楽と歓声、そしてそれを掻き消さんとするような大きな罵声。姿の見えない奥のご機嫌な音楽とは対照的に、手前に居る生徒達は進まない行列を前にかなり不満が溜まっている様子に見える。
一体ここで何が起きているのだろうか。
そんないつもと違う状況を目にして、私は思わず立ち止まる。そうでなくとも完全に廊下を塞がれているので立ち止まらざるを得ない。
しかし、身長の低い私には当然奥の光景など見えはしない。この集団が一体何のために集まっているのかなんて知りようもないのだ。
仕方なく隣に居るティファニーに確認してもらおうと視線を横に向けるが、彼女は既にそこには立っていなかった。
ティファニーは私達の前に居た数人の生徒を男女関係なく弾き飛ばし、一人の生徒に駆け寄る。そして、そのままその生徒を全力で抱き上げた。
「きゃー! ベルちゃん久し振りぃ! 元気してたかなぁ!?」
「……ティファニーお姉ちゃん、久し振り。そして苦しい。うるさい。だから離れて」
「うんうん! お姉ちゃん何でもしちゃうよ!」
何だか二人の会話が嚙み合っていないが、私はそのあまりに突然な光景に動きを止める。
ティファニーが人込みの中に突撃し、一人の女の子に抱き付いたのだ。常人には理解できないその行動を見て、驚かないと言う方が難しいだろう。
人込みの中からあれだけ小さい生徒を見付ける観察力も相当なものだが、それ以上にその奇行に驚いて体が固まってしまった。
弾き飛ばされた数名の生徒達も同様で、怒っていると言うよりは突然の行動に驚き、動揺している様に見える。完全にヤバい奴扱いだ。
どこかで見覚えのある太った男子生徒も薙ぎ倒していたが、彼女のどこにそんな力があると言うのか。
私は熱烈な頬擦りを冷めた顔で受け止め続ける彼女の顔を見て、何とか再起動に成功する。
とにかくこの状況をなんとかしなければ。弾き飛ばされた生徒に怪我人はいるはずもないので放っておくとして、あの子だけは助けなければならないだろう。
私はティファニーの後ろに駆け寄って、彼女の膝を蹴り抜いた。思い切り体勢を崩した彼女は、少女を持ち上げたまま膝から床へと崩れ落ちる。あの転び方では二人分の体重で膝を打ち付けたはずだが、まぁここでは大して痛くもないはずだ。こちらも放置でいいだろう。
ティファニーが倒れた反動で解放された少女に、服装の乱れなどがない事を確認すると、私はようやく彼女と挨拶を交わす。彼女は私にとっても見知った顔であり、こんなことになってしまった以上無視するわけにもいかない。
「ベルトラルドさん、久し振りですね」
「こんにちは。サクラも記録庫?」
「ええ、“これ”を連れて」
ティファニーに「お姉ちゃん」と呼ばされていたこの少女、ベルトラルド・ガルシアは少し私と縁がある生徒だ。
具体的には実技訓練で一緒の班になり、何の因果か上位を独占。幼女組なんて巷で話題になってしまった過去がある。
彼女はこの前会ったレンカとは違って詠唱系の魔法使いではない。イベント終了後は本当に関わりが無くなってしまった生徒なので、こうして再び会う事など無いだろうと考えていたのだが……。
偶然再会した彼女は相変わらずの無表情。
彼女とティファニーはあの時は大した関係もなかったはずなのだが、どうやらあれから何度か会っていたらしい。その際にお姉ちゃんと呼ばされるようになったのだろう。
彼女はその長すぎる髪の毛を後ろから抱き締められても一切の動揺を見せていない。このあまりに無頓着な反応が、慣れに起因するのか彼女の性格が原因なのかは判断が付かなかった。
私は偶然再会したその人形士から視線を外すと、目の前の人込みを指さす。私達よりも先に来ていた彼女が、何かを知っていやしないかという期待を込めて。
「それでこれ、何の集まりなんですか?」
「知らない。でも何か歌ってる」
「歌?」
彼女にそう言われてようやく気が付く。
確かに音楽に合わせて何か声らしきものが聞こえる気もするな。歓声や罵声に混じっていて大変聞き取りづらいが、確かにこれは何かの歌の様にも聞こえる。
ベルトラルドはそれ以外の情報は教えてくれなかった。彼女にもこの騒ぎについての詳しい事情は分かっていないようだ。
私達は揃って背伸びをして人込みの奥を覗き込もうとするが、それでも見えるのは見慣れた制服の背中ばかりであった。




