第184話 片想い
本話は本日二話更新の後半になります。
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本岡 笑顔は大変不幸な生い立ちの女の子だ。
私も自分が恵まれた家庭環境であったとは思わないが、正直彼女と比較してしまえば私なんてただの“教育上の失敗作”でしかなく、不幸な子供という枠組みに入れるのさえ憚られる。
彼女が2歳の時、彼女の両親は離婚した。
直接の原因は母親の不倫。その不倫相手は笑顔の祖父、つまり彼女の父親の実父である。
離婚前もこの不倫の発覚以来家庭内別居状態だったらしいが、いざ実際に離婚するとなった時に、笑顔の親権が問題となったのは想像に難くない。そして実際にその点は大いに揉めに揉めたそうだ。
結局現在は父親と二人で暮らしているが、当初親権は母親に渡るという話もあったと噂に聞いた。祖父は既に配偶者を亡くしていたし、子供一人を養う程度の経済力もあったので、母親が祖父と結ばれればそれで構わないという判断であったらしい。
それというのも、笑顔は父親と“腹違いの兄妹”であり、親子ではないからという単純な血縁上の問題があったからだ。
つまり笑顔は祖父と母の子供であり、戸籍上父親であるはずの男とは血縁上は妹で親と子として認められないと予想されていたのだ。これは母親側も父親側も、そして不倫相手の祖父も認める話であった。
しかし、家裁の手続き上の問題で一同のDNA検査を行った所、実際には父親の子である事が判明した。
祖父と母親の不倫は事実で、子供を作る気持ちは二人の間にあり、せっせと子作りに励んだはいいが、実は実際にはあまり仲のよろしくなかった父親との行為で母親は笑顔を妊娠していたのだ。
これが突然明らかになると母親側が“不倫は事実ではなく、父親の勝手な妄想で一方的な離婚を突き付けられたのだ”と主張を翻し、裁判だか示談だかは更なる混迷を極めていく事になる……。
そして最終的にその話が落ち着いたのは、笑顔が2歳になる頃であった。
笑顔の父親は、多少の金銭を母親、そして離婚当日に彼女と正式に結ばれる事になった実の父にも間接的に渡し、自分の子ではないと思って手放そうとしていたはずの女の子を突然一人で育てる事になったのだ。
……彼の気苦労は私には想像も付かないが、笑顔はそんな人物の手で育てられた。
近年の育児法や子育て機器は育児の負担を親から大きく緩和しているとはいえ、育児という物から親が完全に切り離されているわけではない。物心つかない内から育児施設に預けられることは多かったそうだが、それでも結局父親は我が子を手放すことはなかった。
こんな家庭環境で育てばそれなりに鬱屈した性格になるのも仕方ないだろうに、本岡 笑顔という人物は、実際にはそれをまったく感じさせない人物である。
そんな笑顔は今、私の部屋でじっと俯いている。
時計はまだ午前を針で示している。今日ばかりは仕事を萌達に押し付け、早上がりをしてきたのだ。普段真面目な勤務態度だし、元々人手は余っていたのだから一日くらいは大丈夫だろうと思う。まぁ正式に早退の手続きをしてしまった以上、もうあちらの心配をしても仕方がない事なのだが。
私は銘柄だけは店の物と同じはずの茶葉でお茶を淹れ、笑顔の前に差し出す。僅かに揺れる暗い水面に映り込んだのは、今にも泣きだしてしまいそうな顔だった。
……高校ではそれなりに一緒にいる時間は長かった気はするが、彼女がこんな表情をしている所は、記憶の中から見つける事は出来ない。思い出されるのは人の良さそうな“笑顔”だけ。私が見る笑顔はいつも笑っている優し気な人であり、だからこそ私は興味を失った。
そう、少なくとも高校の時は、彼女を見て私は驚いたはずだった。事前に想像していたものとはまるで違う、彼女の表情に。
愛や優しさのない環境で育てられている彼女の境遇を、私は確かに羨んだはずだったのに。自分とはまるで違う“優しい”彼女を見て、失望とも憧れともつかない奇妙な感情を抱いたはずなのに。
私は自分のカップに映る表情も険しくなっている事に気付き、わざと水面を乱して軽いカップを手にする。
「勉強はどう?」
「……ううん、あんまり上手くいってない。元からそうだったけど、最近は何か、どこの教室に行ってもあの人がいる気がして……」
「友達は?」
「……いる……と思ってたんだけど、相談しようと思った時、そんなに親しくないなって気付いちゃって……それに、みんな、私があの人と付き合ってるって知っているから……」
「このまま彼と付き合いたいとは思わない?」
「分かんない、どうしていいのか……。でも、恋人みたいな事をされる時、凄く嫌なの。それに、この先、私に本当の好きな人が出来た時、お母さんみたいに酷い事をしてしまうんじゃないかって……私、あの人の顔も知らないのに不安で……」
散発的な私の質問に、彼女はぼそぼそと答えて行く。
その声に力はない。それでもこの無音の自室では、嫌な程彼女の声がよく聞き取れた。
私はそれを見て、奥歯を噛み締める。
高校を卒業する時、私は確かにこう思った。
高卒で就職する私は劣っていて、進学するその他大勢の連中は優れているのだと。そして、優れているから幸せに近く、劣っているから苦労するのだろうと。
それは私が就職先を探している時に、何となくではあるが感じていた感覚で、そして何より“私の母”から常に聞かされていた事だった。
向上心を持ち、上を目指せ。下に居ればその分だけ苦労する。
“私”はこの程度で足を止めてはいけない。
例え一時的に苦しく、刹那的な快楽から遠ざかるのだとしても、結果的にそれが“幸せ”に近付く唯一の手段なのだから。
そんな、母親の言う通りにするのが嫌で逃げ出していたくせに、何とも浅ましい価値観であったのだと、今なら思える。
母の言う事が間違っているとは思わない。
人生の良し悪しに運は付き物なのだろう。一人ひとりのスタートラインが違えば、常人にできる努力程度ではそう易々と差は覆らない。努力ですべてを解決できるなんて、それこそ天武の才を必要とする事だ。
だから、自分に与えられたスタートラインから、精一杯努力して目一杯手を伸ばす。そうして自分が得られる幸せを少しでも増やそうと考えるのは、きっと間違っているわけではない。むしろ、嫌になるくらいに正しい行いで、正しい考え方なのだろう。
でも、私が今の生活にある程度の満足を感じている様に、優れているとか“幸せ”に近いだとかとは別の……“妥協”としか言えない感覚。
そんな妥協だってこうして今の私が振り返ってみれば、目の前にいる彼女と比べてみれば、そう悪い物でもないのではないだろうか。
例え目指していた幸せを諦めたって、そこに安寧があるのならば、それも選択肢に入れていいのではないだろうか。
最大の努力で、最短の経路で、最高の幸せを。でも、その道中でそれ以上の苦しみを味わうのならば、泥濘に足を取られてしまうのならば。
努力しなくても、いいのではないだろうか。
「……ねぇ、一つ良い? ……私、あなたの人生に興味はないわ」
「……え?」
私は自分で淹れた、店のものに比べて香りが少ないお茶を机に置く。
波紋で歪む自分の顔は、どういう訳か少しばかり幼く見える。
「あなたが大学で何をしたいのかとか将来何をして暮らしたいとか、そういう話は知らないし、私の話を聞いてあなたが幸せになれるのかなんて保障は出来ない」
「……」
「だから、少しでも嫌だったら怒って、怒鳴っていいわ。それで足りないなら押し倒して殴りつけてもいい。そもそも私が指図する権利なんてどこにもないし、これから口にする事が“あなたのためにならない”事なのは間違いないから」
それでも、私は言わなければならない。
妥協を知らない優れた人間に、失敗作が下から教える事なんて一つしかない。それで解決しなければ、元からこれは私に何とかできる相談事ではなかったというだけ。
それでも、私は伝えたい。
それはもちろん彼女を苦しみから助けたいなんて優しさではない。
私はそんな事を口にしない。こちらに見向きもされずに、ただ不幸になってしまったと嘆く彼女に、少しばかり腹が立ってきただけであり、私はあなたの下で自堕落に、それでも生きているのだと認めさせたいだけなのだ。
「大学をやめなさい」
「……ぇ?」
「今の時代、大学中退なんて肩書くらいで就職先が見つからないなんて事はないわ。高校卒業前に働く所を探した私が、そこだけは保証してあげる。
だから、大学をやめて引越しをして連絡先を変えて、一切の連絡手段を断ちなさい。大学に居る全員から」
「っ、そんなのっ……」
「簡単に言うなって? でも、できない事じゃないでしょ? 大学に親しい友人もいない、成績だって良くない。何かあなたが大学を離れられない理由なんてある?」
彼女は一瞬だけ驚き、声を上げたが、その勢いはすぐに弱くなっていく。
……例えそれが論理的ではなくたって、今の人間関係をすべて解消しろと言われたらしっかりと反論くらいはして欲しかった。こんなのを羨んでいたなんて、私が馬鹿みたいじゃないか。
その後しばらく、耳が痛むような沈黙が流れる。
あまり寒くもない今日は空調すらも止まっていて、お茶の水面すらも動きはしない。
やがて、笑顔は小さな言葉を呟いた。
「……ズルい……」
それに私は反論も反応もしない。知った事かと突き放す。
私は出来る限りの解決策を提示をした。そう考えた理由も説明した。これ以上、彼女の相談に付き合う義理はない。
私はやりたい事をやっただけであって、そもそも彼女の人生に口を出せるなんて思っていない。彼女が自分の幸せのために大学に進学するという道を選んだのは間違いないのだから、その道から外れた人間がこちら側に引きずり込むなんて最初から大した期待もしていない。
いや、正確に言えば、どちらでもいいのだ。言いたい事を言った後の結果なんて、興味がないのだから。
「ズルい……桜子ちゃん、ずっとそう……自分の好き勝手に言って、自分一人で納得して……あなたが私と一緒に居てくれたら、こんな事にはならなかったのに……」
ただ、その言葉を聞いて、ふと、高校の修学旅行を思い出す。
私にとって、本岡 笑顔という生徒は友達の一人でしかなかった。いや、友達と思っていたかも怪しい。上辺だけの優しさを振り撒く彼女を見て、小さく失望していたのは事実なのだから。
あの頃の友達と今付き合いのある絵筆や萌と比べると、何と浅い関係であったかと思う。だからこそ、卒業してから連絡を取り合おうとも考えなかったわけだし。
しかし、彼女はどうだったのだろうか。
私をどんな関係だと思って居のだろう。どんな関係になりたいと考えていたのだろう。
私達の高校の修学旅行は、変な組み分けがされる。
自由行動で一緒に行動したい生徒のアンケートを取り、数人のグループが自動で割り振られるというものだ。何でも過去に組み分けがいじめに発展したからとかでこんなことになっているらしいが、極めて悪趣味で論理学的な手法のグループ分けだったと断言できる。
誰が誰を書いたのかは公開しないと言いつつ、組み分けの結果から何となく想像が付いてしまうのだから。
私はここに、一応同い年で同じ高校に居た絵筆の名前を書くことはなく、何となく付き合いのあった優等生達の名前を書いた。自由行動の組み分けなんて全員初対面でも構わないと思っていたが、それでも私は思い付く限りの名前を書いた。クラス分けで別のクラスに行ってしまった子も書いたし、おそらく私は生徒の中でも特に多い名前を書いたのではないだろうか。“本命”と組が一緒になる確率が下がるので、数を書いても仕方ないと考えるのが主流だったから。
私はそこに、確かに本岡 笑顔の名を書き込んだ。
しかしその結果は、修学旅行と呼ぶにはあまりに寂しい、笑顔と二人きりの班だった。
私が名前を書いた笑顔以外の誰もが、私と組になろうとは考えていなかった。
私の名前を書いたのは笑顔一人で、笑顔の名前を書いたのは私一人だった。
……特にそれが何だったとは思わない。
修学旅行は三年目だったし、その頃には私は就職先が決まっていて、大学受験をみんなで乗り切ろうという雰囲気からは外れていた。早めに進学先が決まっていた生徒とも、少し違う感覚で居たのは間違いない。
多分、そんな事もあって一緒に居づらかっただけなのだろう。
ただし、それは私から見た事実だ。
彼女がどんな思いで私の名を書いたのか、それを知る事は出来なかったし、興味もなかったので聞きもしなかった。
それがここに来て、卒業して久し振りに再会してようやく想像が付くなんて、もちろん思いもしていなかった。
「一緒に、大学行けると思ったのに……突然就職するなんて言い出して、私、あなたと同じ所に行きたいって、ずっと勉強も頑張って来たのに……っ」
「……そう」
私が意味もない相槌を打つと、彼女ははっとして黙り込む。
私はすっかり冷めてしまった紅茶を口に含み、視線を落とした。
「……私、好きな人がいるの。あなたに似て、格好良くて可愛くて、自分の好き勝手に生きてる人」
「それはまた、奇特な趣味ね」
「……きっと、あなたに似てるから好きなの。あの子は振り向かないし、実際には手が届かないけど、……けど、今いるあなたには手が届く」
彼女はふらりと立ち上がり、私を見下ろす。
私は冷めた紅茶を飲み干して、それをそっと見上げた。
「押し倒していいって言ったよね」
「泣き顔で言われても怖くない。それに、抵抗はしないけど終わったら通報するわよ。キッチンに丁度ここが映るカメラがある。言い逃れは出来ない」
「通報しないでって言ったら?」
「もちろん、あなたが帰ってから通報するわ」
私の視線をじっと受け止めていた彼女は、それを聞いてふっと表情を崩した。
そこにはいつか見た面影が、ようやく重なって見えた。私の知っている笑顔は、確かに“私の前では”こういう顔をする子だった。
「……冗談だよ。私、大学やめるね。“あなたがそう言ったから”」
「……あなた嘘吐きね」
「何が?」
「私があの店で働いてるの、知ってたんでしょ。相談役の店長に話さなかったのは、最初から私に話すつもりだったから」
私の指摘を受けて彼女は目を丸くする。まさか今更そんな事を指摘されるとは思っていなかったのだろう。
高校の時、私が自分の就職先を友達の誰にも教えなかったのは事実だが、それでも調べられないという事はない。
きっと彼女はどこかであの店を知っていた。店長が客の相談を受けている噂を聞いたなんていうのは、偶然を装うためのただの言い訳でしかなかったわけだ。この悩み事も、もしかすると私の興味を引くために利用しただけなのもかもしれない。
笑顔は私の指摘に返事もせず、私の隣にそっと座ると、お互いの肩の距離を数㎝まで近づける。
「……もう一度言うけど、変な事したら本当に通報するからね」
「うん。いいよ。今はそれで。……ずっと憧れてた。人に怯えて暮らしてたから。邪魔だったら育ての親に捨てられるんじゃないかって愛想振り撒いて、誰よりも“下”に居ないと不安だったから。冷めた目で平然と人を見下してるあなたに会ってから、ずっと……」
「そんなに顔に出てた?」
「ううん。私がきっと特別なの。見下されてると落ち着くから。あなたといると、癖になりそうなくらい気持ちがいい。自分がどうでもいい存在なんだって、ちゃんとそう思える。“本当はそう”なんだから」
その言葉を聞いてふと考え込む。本当のことを言うと、押し倒されたらどうしようと考えていたのだが、ようやく別の事に思考が逸れた。
彼女が口にした“本当はそう”というのは彼女の生い立ちを言っているのだろうとは思う。自分は間違いなく父親に愛されてはいないのだろうと。
私は店から持ち帰って来たプリンサンドを箱から取り出しながら、それについての違和感を口にする。それはあまりに勝手な想像でしかない。的外れな話だと笑われるかもしれない。
しかし、高校の時から友達と呼ぶにも適さない関係が続いている彼女に、私は今更遠慮する気は完全に失せていた。
「鬱屈している所悪いけど、多分違うわよ」
「そうかな」
「だってあなた、成績悪いでしょ? 高校卒業後すぐに働ける社会的な環境があるのに、特別頭がいいわけでもない、クソ真面目なだけのあなたをそれなりの大学に送るんだから、きっと父親はあなたに多少の“愛情”はあるんじゃない?」
「私はそれって、“責任感”だと思うけどね」
「“優しさ”も“愛”も、“責任感”の内でしょ」
「……」
私との問答の後、しばらく目を瞬かせていた彼女だったが、再び笑い始める。今度はくつくつと声を上げて。
「分かってないなぁ、桜子ちゃんは」
そしてそう呟いたのだった。
更新が少々遅くなりまして、申し訳ありません。
後、いつもよりかなり長いです。この二話合計で3話分は間違いなくあります。そこもすみません。




