第173話 告白
壁に掲げられた白い布には、赤い文字で魔法陣が描かれている。
半分以上は私達が描き込んだものだが、陣を見付けてからしばらく経った今でも古くなっている部分もまだまだ残っていた。
ちなみにレンカが書き込んだと思しき単語もまだ残っている。文字が消えるのが時間経過だとすれば、もうとっくの昔に消えてしまっていてもおかしくはない。恐らくは、悪霊側が私達の妨害に専念している分、魔法陣を消すのが疎かになっているのだろう。
私は“レンカ”の無表情な面を硬い革靴で踏み付け、消えかかっている文字を上から筆でなぞる。アリスはそんな私の足元を多少気にしている様だったが、不思議と手を止めている様には見えなかった。少し気が散った程度では手は止まらないらしい。
ベッドの下から不審者の様に現れた、“レンカの顔をした何か”はまだ私の足を掴んでいるが、もう一度強く足蹴にするとズルズルと引き下がって行った。
この部屋で何度も襲い掛かって来るこいつら、どうもこの部屋の犠牲者らしい。二人目の段階でそうではないかと睨んでいたが、レンカが出て来てはっきりと理解できた。
今の所コーディリアが出て来ていないので、おそらく彼女はディーンの方に行っているのだろう。
こうして一度犠牲者の霊(かどうかも判然としない何か)が出てくれば、しばらくは“凪”の時間だ。
ここから一分ほどは前の部屋と同じく音で驚かしてくる様になるので、騒音に慣れてしまえばただの待ち時間になっていた。魔法陣も消えるのがかなり遅いため、本格的にやる事がない。
私はさっきまでレンカが潜んでいたベッドに腰を下ろし、完全な状態になっている陣をぼうっと眺める。
見た限り前の部屋とは魔法陣の性質が、がらりと変わっている。
今回は霊を直接的に追い出す(移動させる)事と、外側に出て行った霊を入れさせない事が主題になっているようだ。効き目の違いはよく分からない。多分こちらの方が弱いとは思う。基本的に行動を制限する魔法というのは、特殊な条件付けでもない限り弱くなってしまうのである。
私が待っている間もクローゼットが暴れたり、鏡が割れたりと忙しい部屋の中。すっかり慣れてしまった私達は、完全に暇を持て余していた。
しかし、だからと言って私から話しかけるようなことはしない。
気の利いた話題も無ければ、話し合う必要性も特にないからだ。これがロザリーならば黙っていてくれないだろうけれど、この場に一緒に居るアリスは話すのが大層苦手なのである。
幸い、沈黙というにはあまりに騒々しい環境なのもある。会話がない事はあまり気にもならない。
「……あの」
そう思っていたから、彼女から声を掛けられた時は大いに驚いた。
正直今までの短い付き合いの中で、彼女から話しかけられるという事を一切想定していなかった。これが初めての経験だっただろう。
そのため驚きの余り反応が遅れて、私は彼女の顔をじっと見詰める。
返事がない事を気にしてか、彼女はすぐに顔を俯かせ、小さく謝罪の言葉を口にした。それに対して私は慌てて首を振る。
「ごめんなさい……」
「何か話があるんですか? 暇な内にお願いします」
今は多少の余裕があるが、それでもすぐに魔法陣は消え始めるだろう。次のこの部屋の犠牲者が現れるのも時間の問題だ。
滅多にない事であるし、彼女が勇気を持って私に話しかけたという事はそれなりに必要性がある話だったのだろう。
私は口癖の様な謝罪を聞き流し、話を続けるように促す。それを少々気まずげにしていたアリスだったが、私の急かすような言葉を受けて口をもごもごと動かした。
一体何を言っているのかと私は耳を傾ける。私に聞こえていない事が彼女にも分かったのか、少しだけ声が大きくなるが、周囲が騒々しいのもあってそれでも聞き取るには不十分だ。
私は仕方なく問い返す。何かを繰り返しているらしく、いつ始まっていつ終わっている言葉なのかも判然としない。一度開始地点だけでも認識しなければ全く聞き取れないままだろう。
「すみません。何と?」
「……あ、の……あく、しゅ……」
「……握手?」
そうして何とか聞き取れた単語は、この場にあまりに似つかわしくない物だった。
まさか違うだろうと聞き返すが、彼女は俯くばかりでよく分からない。……と思っていたら、彼女は何と小さく頷いていた。
……握手? 今ここで? なぜ?
そう問いかけて何か返事が得られるとは思わない。私は自分の聞き間違いではない事を信じて、おずおずと手を差し出す。
俯いていた彼女の視界に私の手が映ると、少女が小さく息を飲むのが聞こえた。驚いているのはこちらも同じなのだが……。
私の手に人形の様な白い手が重ねられる。僅かだが私よりも手が大きい。アリスは俯いているので表情が見えないが、緊張して強張っているのは手の感触で伝わって来た。
……一体何なんだこれは。
彼女が手を放す様子は一向にないので、何となくしばらくそのままの時間が流れる。
「……あの、どうして握手なんて……?」
「……えっ」
私の当然の疑問が耳に入ったのか、彼女はようやく慌てて手を放す。
そうしている内に魔法陣が消え始めてしまい、お互いに何となく自分の作業に戻って行った。私達を驚かせるように突然犠牲者が姿を見せたが、正直今は相手をしている場合ではない。強めに蹴りを入れ、さっさと退散してもらう。
それからしばらく無言で宿泊客の撃退と魔法陣の描き直しをしていた私達だったが、作業中にポツリとアリスが言葉を漏らした。
「その、ずっと、ファンです……」
「……は?」
「ご、ごめんなさい……」
突然の言葉に私は思わず彼女を見詰め返す。
この部屋は音で溢れてはいるが、声らしい声はお互いのものだけだ。小さいからといって、言葉を聞き間違える事は滅多にない。それに幾度かの発声練習のおかげか、彼女の声も徐々に大きくなってきている。
そして、私の聞き間違いで無ければ、彼女は今“ファン”と言ったのだろうか。……誰の?
話の流れもなく唐突に聞かされたので一瞬意味が分からなかったが、すぐに握手を求めて来た理由と頭の中で結び付く。
ファンだから握手がしたかった……つまり、彼女自身が握手をした相手のファンという意味で間違いないだろう。
彼女と握手をしたのは私だ。……という事は私のファン? えっと、どういう意味だ?
私は最早あまり考えずに動き続ける手を止めず、そんな思考を幾度となく、そして意味もなく繰り返す。言葉の繋がりが理解できても、あまりの唐突さに内容の理解が追い付かない。
どうしても理解が追い付かない私は彼女の顔を窺うようにして、小さくそのままの言葉を問い返す。
「……えっと、ずっとファンってどういう……?」
「あのっ、中級試験の時から、さ、サクラちゃんの事知ってて……その、時から、好きっていうかファンっていうか、そういう……」
「……もしかして若干格好が似ているのも?」
「あ、ご、ごめんなさい! そっくりそのままだと迷惑だと思って、ちょっと変えたけど何度も転んだから、歩かずに……えっと、にて、似てるっていうかリスペクト的なあれで……」
突然の告白を前に私の理解も遅い。そして何より彼女も動揺しているのか、口にする言葉が微妙に繋がっていない。
思えば、非公式の掲示板でも話題になっていたが、彼女の容姿は結構私に近い。
まぁ白黒だし物理的に浮いているしで見分けがつかない事はないし、実際にこうして会ってから、言われてみればそう見えるかななんて考えていたのだが……話を聞く限り元々本当に私に似せて作った容姿であるらしい。
えっと、私の中級試験から知っているという事は、キャラクターを態々作り直したという訳で……。
……そもそもそこまでする程、私のどこに惹かれたんだ?
正直に言って、彼女と関りがあった記憶は一切ない。私が最初にアリスの存在を認識したのは学生掲示板で表彰されていたためだ。それ以前は一切知らなかったし、こうして偶然出会うまで言葉を交わしたこともないのは確かだろう。
それに、この目立つ容姿だ。学院ですれ違ったり授業を受けに来たりしていれば、まず間違いなく記憶に残っているはず。
そのはずなのだが、私にそんな記憶は一切なかった。
以上の事から、彼女の持っている私に対する知識は噂程度の物であるのは間違いない。断片的な目撃情報だけが私を知る手段だろう。
しかし、私が大きな話題になったのなんて、それこそ最初の進級試験で筆記首席を取った事と、この前のイベントの騒動くらいな気がする。この容姿を見てティファニーの様な劣情を抱く稀有な人間は、おそらくファンとは名乗らないだろうし……。
反応に困った私は、小さく頷いた。
「……えっと、それはどうも」
それが突然の愛の告白に対して、私にできた精一杯の反応となったのだった。
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