第172話 悪霊
部屋の“除霊”を終えた私は、血の跡など綺麗さっぱり消えてしまった部屋を出る。あの血痕や鏡の破壊がまるで最初からなかったかのようで、私が探索した部分すらも来る前と同じく整えられている。
やはり現実の出来事ではなかったのだろうか。幻覚に近いのか?
部屋を後にすると、私は相変わらず外が見えない窓を脇目にエレベーターホールまで戻る。特に集合場所などは決めていなかったが、そもそもここには部屋と廊下とホールしかないので、自然とここに集まる事になっていた。
そこで私が見たのは、二人分の人影だった。
私を待っていたのはアリスとディーンの二人だ。もう二人はまだ出てきていないらしい。
彼女らの内、ディーンは何やら不安げに部屋の扉を眺め、アリスは心底ほっとした様な表情で残りの二人を待っていた。
一瞬アリスの顔色が良くないと感じてしまったが、改めてよく見て見るとそもそも顔色どころか色味がないのでよく分からない。表情からそう勝手に読み取ってしまったのだろう。
「他の二人はまだですか?」
「ああ、出てこないな」
私は扉を観察しているディーンにそう問いかけると、彼は素っ気なく言葉を返す。
制限時間が過ぎたばかりではあるが、彼女らは一体何に手間取っているのだろうか。寝ているとか? 時間が終われば後は出て来るだけだと思うのだが……。
とにかくしばらく待ってみるしかない。
そう考えた私は壁に背中を預け、ディーンと同じく扉を睨む。
ここから正面に見えているのはレンカが入って行った部屋だ。具体的には、私とアリスの部屋の間の場所で、エレベーターから直進した中央の部屋。
出てこないもう一人、コーディリアの部屋はそこから二つ左。つまり一番左側の部屋である。一応中央三つが高難易度、左右の端が低難易度になっている。
やる事もないのだからすぐに出てきてくれるだろう。少なくとも私はそう考えていた。
しかし、結局彼女達が部屋から出てくることはなかった。
「……」
三人の間に流れる嫌な沈黙をそのままにして、私は壁から背を放す。
そして目の前にある扉を開け、中を覗き込んだ。
レンカが居るはずの部屋は、まったくの蛻の殻である。
私達が来る前と同じく綺麗に整えられたベッド、探索されているとは思えない様子のカーペット、そして、薄く埃の積もった床には足跡すら残されていない。
まるで最初から誰も居なかったような部屋を見て、私は首を傾げる。
これは、レンカがしくじったのか? 難易度的には十分解ける内容だったと思っていたのだが。
しばらく部屋の中の隠れられそうな場所を探すが、結局彼女が見つかる事はなかった。
出てこないもう一つの部屋、コーディリアの宿泊していた部屋も同じような有様だ。まるで最初から誰も入っていない様な謎の失踪。
魔法の書でパーティメンバーの様子を確認して見ると、なぜかパーティメンバーには二人の名前が消えていた。
フレンドリストからメッセージも送ったが、現在制限されていると通知が返って来るばかりだ。試しにティファニーにも連絡を取ろうとしたが、こちらも通じる事はなかった。
どうやら部屋の通信阻害がこのホールにも適用されているらしい。つまり私達側の問題だ。
「……いないな」
「考えられるのは二つですね。彼女たちが失敗したか、もしくは実は私達が失敗しているのか」
一応一通り部屋の中を調べた私達は、そんな事を話し合う。
何せ何度も書き直したからな。私があの魔法陣を間違えている可能性は低くない。実際には私達が“失踪”している可能性も考えられなくはないだろう。
まぁ、それでもやる事は変わらない。この階から脱出して、更に下に行くのが最終目的。そのためには、この階の除霊を行うしか思いつく方法がないのである。
綺麗になっている部屋を後にしてエレベーターホールへと戻って来た私達は、もう一度本の内容を確認する。
パラパラとディーンがページをめくっては古代言語の……いや、これ現代語だな。本に書かれているのは所謂通常言語と呼ばれる、私達が普通に読み書きする文字列に見える。魔法言語ですらなく、私達生徒が補助によって最初から全員読むことが出来る文章だ。
実は大多数の生徒にとってこの言語が“書ける”というのは普通ではないのだが、それでも古代言語よりは一般的に使われている文字ではあるだろう。
ちなみに通常言語は、古代言語と比較すれば比較的近代の文章だが、実際には古代言語が学者の使う言語として限定されていた時代が長いため、庶民の間ではかなり古くから使われていた記録が残っている。流石に神話まで遡ると話は別だが、こういう記録が通常言語で残っている事自体は珍しくない。
尤も、庶民の言葉なので大した事が書かれている確率は低い。そのため古代言語学の重要性は高いままだ。
「……特に内容は変わってないな。もう一度記帳して、残った部屋を除霊してみるか?」
「それしかないでしょうね。残りは二部屋ですが……部屋割りどうしますか?」
……まぁこれは半ば決まっている様な物だが。
結論の決まっている話し合いをした後、私はアリスを連れてレンカが泊まっていた部屋へと足を踏み入れる。もちろん入り口の本には三人とも記帳済みだ。所謂連泊というやつである。
男と外泊なんて、書類上でも便宜上でもできれば避けたいからな。5つ中2つを3人で分けるにはこうするしかない。そして、二人いるのだから、私達は難易度が高い方の部屋だ。
部屋の中央まで歩みを進めると、私達が開けていたはずの扉はばたんと大きな音を立てて閉じられる。
私は試してもみなかったのだが、実は除霊中は部屋の扉が開かないらしい。この部屋の内部に閉じ込められているわけだ。……いくら怖くともギブアップが出来ない仕様なのは、優しいのか厳しいのか何なのか……。
「とにかく、手分けして陣を探しましょうか。そう広くはない部屋ですし、すぐに見つかるでしょう」
「……ぃ」
アリスは私の提案を聞いて不安げに頷く。あまりにか細いその返事は、「はい」とすら聞こえないが、おそらく「いいえ」とは言っていないのは確かだろう。
私は部屋の奥へと足を踏み入れると、手当たり次第に収納をひっくり返す。
私達が見つけなければならない物は三つ。
魔法陣の書かれた布と、魔力が籠った筆、そして製図用の器具である。これらは除霊が完了した部屋からは消えるし、記帳していない段階ではいくら探しても出てこなかった。これから探すしかないのだ。
最悪製図用具だけは後でもいいが、筆と陣は早めに見付けたい。特に陣だ。放っておくと消えてしまうので、あまりに見つけられないと陣の内容すら確認できずに失敗となってしまう。
しかし、私が三つ目の棚に手を掛けた瞬間に事件は起こった。
「やっ……」
「……? アリスさん?」
僅かに聞こえた小さな悲鳴。
それを不審に思って振り返れば、一緒の部屋に居るはずの彼女の姿が見えない。返事の代わりに聞こえるのはドタバタと何かが暴れるような物音だけだ。
音の発生源は、おそらくクローゼットの方。
入り口付近に置かれているので、私の位置からでは開け放たれている扉が邪魔で何が起きているのかは覗き込めない。
私は仕方なく立ち上がり、足早に中を確認する。
「……っ!」
そこに居たのは、恐ろしい形相をした男だった。
彼は血で濡れた手でアリスの細い体を掴み、どこかへと引きずり込もうとしている。明らかに異常と思える虚ろな目を見て、私は反射的にその顔面を蹴り抜いていた。
彼女への拘束が緩んだ瞬間を狙って、何とかその小さな体をクローゼットから引っ張り出す。
声も上げずに暴れていた彼女は、最後に男の顎を横から蹴り抜いていたが、男は首をぐきりと曲げたままこちらに手を伸ばすばかりだ。うめき声すら上げる事はない。
……ビックリした。何なんだこいつ。
アリスは自身が安全な場所へ逃れた事を確認すると、しばらく茫然とクローゼットの中を見詰めていた。彼女もこれが何なのか答えは持っていそうにない。
その後も私達に向かって手を伸ばしていた男だったが、しばらくするとずるりと何かに引きずられる様に、置きっ放しになっている服の間へと消えて行った。帰って行ったと言うよりは、何かに引きずり込まれたような動きだった。
とにかく、これ以上ここに居ても仕方がない。
「……立てますか?」
「……はい。ごめんなさい……」
「いえ、無事でよかったです」
彼女は掴まれていた部分を軽く手で押さえ、少し俯きながらも立ち上がった。私は手を差し伸べていたのだが、彼女は数秒逡巡した後に、手を借りずに一人で立ち上がる。
どうやら人と触れ合うのも苦手らしい。
それにしても、引きずり込まれていたらどうなっていたのだろう。もしやコーディリア達の所まで行けるのだろうか。
それに、前の部屋ではこんな直接的な攻撃はしてこなかったはずだ。段階を進めた事で難易度でも上がったのだろうか。他の部屋から追い出されたから、戦力を集中しているとか?
それに、魔法の書を開いて見てもさっきの戦歴が確認できない。
確かに私達は悪霊を攻撃したとは思うのだが、あの攻防が戦闘として認識されていないのだ。驚いていて見えていなかったが、魔法視でも映らなかったのではないだろうか。
文字通り、この世の者ではなさそうだな。魔物ですらないという事だ。
「……今後は助け合えるように、近くで行動しましょうか」
私は誰の物なのか分からない服が大量に掛けられたクローゼットを覗き込み、中に穴などない事を確認する。
どこから襲ってくるか分からない以上、二人で一緒に行動した方が賢そうだな。




