第10話 奮起と授業
あれ、この前よりも揺れない……。
真っ暗な視界の中でゆっくりと瞼を開くと、真っ先に目に飛び込んだのは木製の天井だった。
謎の照明器具が吊られたそこは、やや不気味な木目が顔の様に連なっている。1、2、3……全部で5人。当然私の部屋の白い天井ではなく、古臭さすら感じるものだ。
横になっていた体を起こし、周囲を確認する。ちらりと目に入った自分の体は、記憶にあるよりも少し小さい。
深い色合いの木製の机と椅子。私にはやや高い位置の窓の前には小さな花瓶が置かれている。
窓の外は晴れた青空。床には四角形のカーペットが敷かれ、何が入っているのかクローゼットもある。
記憶にないのにどこか懐かしさを覚える光景を前に、私は小さな頭を横に倒した。
「ここ、どこ?」
そう呟くと、膝の上に突然本が開かれる。昨日も散々見た光景ではあるが、予想していなかった突然の事に少し心臓が跳ね上がる。
私を驚かせ、そしてぱらぱらと捲られていく魔法の書が開いたのは、学院のマップのページ。その現在地は寮の自室を指し示していた。
つまり、この小さな部屋は学生寮。学生としての生活空間がここと言うことなのだろう。この学院全寮制だったのか……。
ちなみに昨日は、パープルマーカーで名前を塗られた直後に学院へ帰還。それからその場で即座にログアウトしたはずだが、どうやらこの世界からログアウトした場合、この部屋から再開されることになっているようだ。
それにしても、こうして疑問を口にすると魔法の書が答えてくれる仕様になっているのだなと、少し感心する。少々……いや、かなりチュートリアルが雑だったからか、この辺りのユーザー補助機能はそこそこ充実しているようだ。
……トビスケなんかよりもずっと案内役をしているのではないだろうか。
私は見慣れぬ自分のベッドから起き上がると、机に件の本を広げる。
こうして本を開いて勉強机に向かうなど、小さい頃すらやったことがない。紙の本は電子本に比べるとべらぼうに高いコレクターアイテムだし、授業だって今時電子ペーパーが一つで事足りる。なぜか喫茶店によく来る高校生は紙のノートを使っていることがあるが、私の世代ではそんな風習はなかったのだ。
話がずれたが、何も私はこれから勉強を行うわけではない。やるべきことがあるのだが、それはむしろ事務的な処理の話だ。
私は慣れない言語を前に多少目次の文字列で迷いつつも、所有しているアイテムのリストを開く。
ここに初期アイテムとして転科手続きの書類があるはずだ。転科するには、それにサインをして学部長……少々気が重いが、学部長のサルメラ先生に持っていかなればならないのだ。あいつの親玉という事で、会う前から心配しかない。
しかし、椅子に腰を下ろしながら開いたページは空欄ばかりだ。それらしき物は一つも存在しない。
「ん?」
不思議に思って色々とページを捲ってみるが、やはりない。あるのは昨日の戦闘のドロップアイテムばかりである。魔石とやらはまず間違いなく転科届ではないだろう。
……いや待て。そう言えば昨日手持ちのアイテムを確認した時、回復アイテムどころか何も持っていなくなかったか?
そんな記憶が頭を過り、私はアイテムの使用ログを開く。戦闘ログもそうだが、この作品は結構細かい所まで記録を残してくれているらしい。破棄や消費の場合ここに何かが書かれているはず……らしい。
あまり内容のない文章の先頭に、その文章はあった。
転科届け使用……日付は今日の午前0時12分となっている。
……まだその頃、私はチュートリアルも終わっていないはずだが、どうして使用記録が……あ。
そういえば、私、試験途中でクラスを変えて……いやいや、それは違う。だってあれはチュートリアルであって、私の他にもスキルの使用感等を試した人が居たはずだ。そういう人達が掲示板で文句や注意勧告をしている様子はなかったし……。
そう考えて何とかおかしいと思おうとしたが、事実としてその時間に専攻の転科届けは使用された記録が残っている。
それよりなにより、私は他のプレイヤーとは明らかに違うことをやってしまっていた事を思い出す。
『君は私が見て来た中で唯一のGランク! 初の落第者だよ!』
そう。私は少なくともトビスケが見て来た中で初の落第者なのである。その上説明役のトビスケは笑い転げていて説明などしたくてもできないとでも言いたげな態度だった。
ここから導き出される結論は一つ。
課金アイテムである転科届は、自動消費されているのである。私が落第後に専攻を変えてしまったがために。
このゲーム、そこそこの月額を必要とするのに、転科には課金が必要だ。救済措置なのか初回は無料……というか、初期アイテムに転科届を一枚持ってゲームを開始する。
それを使ってしまったと言うことは、私は呪術師を止めるためにまたお金を支払わなければならないということ。
つまり、あれだけ笑われたトビスケにお金を支払って会いに行かなければならないということ。
……そんな屈辱に耐えられるか。
否だ。断じて否だ。
金を払って再び笑われに行くだと? 絶対に断るに決まっている。
私は怒りに任せて本を閉じると、そのまま椅子を倒して立ち上がる。
……やってやろうじゃないか。呪術師で、この世界を。
***
目下の問題点は、名前についたパープルマーカーである。
これがある限り私はパーティ機能を制限されてしまう。つまり支援職なのに強制一人旅という訳だ。
この作品は最大5人でパーティを組むシステムなので、敵の強さは火力も体力も5倍弱と言っていいだろう。特に私は後方支援職なのでもっと悲惨だ。
つまり、今のままでは戦闘はできないに等しい。ではゲームをプレイできないのかと言えば、そんなことはない。
パープルマーカーは、授業を受ける事が出来る。
授業とは、そのまま文字通りの授業だ。教師の教えを受ける事。
この作品、あまりに現実味を優先しすぎるあまり、レベルアップやスキルポイントでのスキル獲得をオミットしている。その代わりにスキルの獲得方法としてあるのが授業だ。
教師の話を聞いて新しい魔法陣を習う。そうやって魔法を獲得することができる。その魔法を更に自分で改造したりすることもできるのだが、そもそも元となる魔法陣は勉強でしか手に入らないのだそうだ。
ちなみに、授業以外の方法で魔法陣を知っていても扱うことができないらしい。システム的に弾かれ、スキル一覧に載らないそうだ。当然だろう。それが出来たらキャラクター作成直後に上級スキルが使用できてしまう。
スキルは他にも何らかのイベントの攻略などでも獲得できるかもしれないが、その最たるものが授業という訳だ。
そんなこんなで、私は今パープルマーカーが消えるまでの時間を使って授業を受けに来ている。
教室は複数あり、一つの教室では数名の教師が24時間体制で常に何らかの魔法を教えているのだが、現在教室にいる受講生は私ともう一人しかいない。今以上に初心者だらけの時期は今後一切やってこないと言うのにこの有様。
それもそのはず。地下の矢鱈薄気味悪い所に押し込まれているこの教室、現在の講座が呪術科の内容なのである。
かれこれゲーム時間内で1,2時間はぶっ通しで呪術の授業を受けているが、今まで私以外に聞きに来た生徒は今後ろの席で静かにしている彼を含めてたった3人。
呪術師の不人気さ、ここに極まれりと言った印象だ。
私は本日7つ目の魔法陣を真面目に板書しつつ、今まで書いた魔法陣を横目で確認する。
私が知っている魔法陣はこれで合計8つだ。初期の毒の魔法、麻痺の魔法、昏睡の魔法、そして混乱、恐怖、暗闇、封印。今勉強しているのは、毒の魔法の二つ目。
毒は知っての通りダメージを与え、麻痺と昏睡は行動不能、混乱と恐怖は魔物の思考に影響を与え、暗闇と封印はそれぞれ視界とスキルの使用を閉ざす。それらの状態異常を与える魔法をこの一、二時間で教わった。二つの魔法を合計して授業は大体30分程度だ。
これらの魔法は毒と同様かなり簡素な魔法陣で、何かが書かれている二重の円を基本にしてそれらに接する正三角形と直線、そして読めない謎の文字列で構成されている。図形の向きと文字の配置は違うが、基本構造はそれぞれかなり似通っていると言えるだろう。
そして今習っている毒の魔法だが、これは毒の影響力を与えつつ魔法攻撃もするという、私念願の攻撃魔法である。尤も事前に調べた内容を読む限り威力はかなり低いので、そちらは全く信用できないのだが。
今の所重要なのは性能ではない。この魔法陣だけ、少し特殊なのだ。円に囲まれている図形が正方形、つまり四角形なのである。
つまりこれらの魔法陣の形は、魔法の性質をある程度反映していることが分かる。単純に影響力だけ与える魔法と、ダメージと影響力を同時に与える魔法では図形が異なる。逆に言うと、そういった性質が似ている限り似た図形になるのではないだろうか。
更に言えば、文字の方も読めないなりに観察してみると、状態異常系は状態異常系と、そして毒系と毒系は共通する部分も多い。
呪術科の授業の内容は、実際には大した事を言っていない。魔法陣の形と使用法をちょっと教えてくれる程度であり、正直かなり暇だ。とは言え、授業中に関係のない本を読むと言うのも、少し気が引ける。
私は、今日初めて扱った製図用の器具をガチャガチャと動かしながら、次の授業の、つまりは麻痺のダメージ魔法の基本図形を描いてみる事にした。学校では電子機器でしか作図をしたことがなかったので、実はこれだけは少し楽しい。
教壇で詰まらなそうに解説を続けている呪術科専門の教師役の内の一人、シーラ先生。彼女に教わった通りに線を引いて、毒と麻痺の共通している部分、そして毒と毒の攻撃魔法の共通していない部分を抜き出し、それ以外を新しい陣に書き込んでいく。
対応する方角も、多分基本効果の麻痺に沿って設定すればいいんだから……こうだろうか。
それは授業中に関係のない落書きをするような感覚だった。授業と言う特殊な状況がそうさせるのか、真面目にしなければという義務感はどこか薄れていき、良くも悪くも学びの楽しさを思い出す。
まるで本当に小さい頃に戻ったかのようだ。
授業と聞いた時は面を食らった物だが、意外に大人ほど楽しい時間なのかもしれない。全年齢版もあるとのことだったが、この魔法の勉強は普通の学生にも楽しい物なのだろうか。そんな年寄り臭い疑問も頭をよぎったが、今はどうでも良い事だ。
錆び付いた頭がギシギシと動き出すような快感を覚えつつ、止まらぬ手を動かし続ける。
そしてついには魔法陣が完成した。それを見て小さく息を吐く。
その時ふと、周囲が異様に静かな事に気が付いた。何となく顔を上げずに後ろをチラリと伺うと、私以外の受講生は一人もいない。私がこの教室唯一の生徒になっている。
「えっと……」
「……」
授業の声は聞こえない。
私は恐る恐る、呪術科担当シーラ先生の顔を見上げた。




