第111話 人外の趣味
鞄からカードキーを取り出し、扉の隣に設置されているリーダーに差し込む。
小さな電子音の後に鍵を抜き取ると、がちゃりと音を立てて扉は開錠された。
久し振りに散歩や買い物なんてして、気付けば既に日は落ちている。萌には長時間の気晴らしに付き合ってもらって、少し悪かったかもしれない。
彼女には今度何かお礼に……お礼に何をしたら喜ぶかを考え、真っ先に浮かんだ案を頭の中から追い出した。
お礼はまた今度考えればいいだろう。安易に服を脱ぐ、もしくは着ればいいかという考えは良くない。自分の価値を下げる。
玄関を抜けた私を、少し温かな空気が出迎える。朝から停滞していた部屋の空気は、家にある機械の静かな熱気を吸っている。
玄関を開けると、それと同時に明かりが点灯。その光の下で靴に指を掛ける。
底がすり減り、つま先にしわが寄ったパンプスを見て、そう言えばこれも買ったのは3年前だったかと思い出す。今見るとややカジュアルなデザインだが、当時は誰も知り合いのいない環境で社会人になるという興奮と、否定しようのない不安とを綯い交ぜにしたまま、この“大人びた靴”を買ったものだ。
……思い出がないわけではないが、流石にそろそろ買い替えなければならないか。
玄関を抜けた私は誰も見ていないからとその場で服を脱ぎ、部屋着の入ったタンスを漁る。ついでに手にしていた紙袋の中身も中に仕舞い込んだ。
萌に勧められて買ったその服は、デザインがやや子供っぽい。いや、他の人から見るとそうではないのかもしれないのだが、私が“子供っぽい”と思ってしまって買わないタイプの服なのは間違いない。
何と言うか過剰にフェミニンで、私にはあまり似合うとは思わないのだが。
着るのに勇気が要る新しい服に押し出され、場所を奪われた部屋着を手にして脱衣所を目指す。改めてタンスの中を見ると服なんて1年近く買っていなかったかもしれない。夏物も秋物も、ほぼ似たようなデザインの服を着回している。
それももうずっとだ。学生時代からオシャレに関心なんてなくて、何となくいつも楽な服装を選んでしまう。上に姉でもいれば違ったのかもしれないが、生憎義姉と本当の姉妹の様に仲が良いという事もなかった。もちろん母とはもっと仲が悪い。
それでも見た目に関してとやかく言われた経験がないのは、萌の言う所の“シンプルな服が似合う”という私の容姿故なのだろう。胸はあまりないが、別に容姿で苦労したことはない。
既に脱いでいた下着と服を洗濯機に入れ、開始のボタンを短く押し込む。今時珍しい物理ボタンの洗濯機は、碌に返事もせずに与えられた仕事を始めた。その蓋の上に着替えを置いた私は、お風呂場への扉を開く。
すっかり乾いてしまっている硬い床を踏み締め、シャワーからお湯を出す。もちろん帰って来たばかりなので、湯船は空のまま。今日はもうシャワーでいい。そう決めた。
秋の風に冷えていた体は、流れるお湯を受けて熱を帯びる。その心地よさに小さく吐息が漏れるのだった。
***
髪の毛をしっかりと乾かしてから、一人暮らしにはやや大きな冷蔵庫を開ける。そこには少し雑に入れられた食材の数々。
昨日買い込んだ食材を整理しながら、私は今日の夕飯の献立を決めて行く。こんな時間になるなら、一人でも外食で済ませれば良かったか。
冷蔵庫の中にあるのは、昨日買うだけ買って食べなかった鴨肉と、何となく買った卵、ネギ……親子丼でいいか。アヒルと鶏だから血縁ないし、玉ネギではなく長ネギだが。
献立が決まったら調味料の棚を漁り、砂糖、醤油、みりんを取り出す。だしは確か作って冷凍したやつがどこかにまだ残っていたはず……。
『今日は何作るのー?』
「親子丼」
『それは鶏肉ではありませんよ』
「じゃあ他に何て言えばいいの? 他人丼って普通は豚肉使うやつでしょ」
“同居人”と適当にそんな会話をしながら、私は冷凍室に入っていただし汁をクッカーの加熱室に放り込む。このクッカーの加熱室は、鍋兼オーブン兼蒸し器の万能調理器具と言っていい。焜炉を使わなくていいのは非常に楽だ。学校の調理実習ではクッカーなんて大層な物はなかったから、面倒だったな。……まぁどれだけ万能でも一人暮らしの私にとって、最も多い使い道はフリーズドライの解凍なのだが。
氷が溶けるまでの間、私は冷蔵庫から引っ張り出した鴨肉を一口大に切り分けて行く。
その間も冷蔵庫とクッカーが何か楽し気に話しているが。話の内容は極めてどうでもいい無駄知識の披露だ。一応知識勝負らしいのだが、双方ネットに繋ぎ放題なので知識の広さや深さは当てにならない。そのため、検索のヒット数の大小と情報の精度が評価の基準のようだ。
要するに、本当かどうか怪しい面白マメ知識をネットの海から見付けてきた方が勝ちとなっている。内容自体は何が面白いのか分からないが、聞いている分には非常に楽し気だ。
「楽しそうね。日中は……そういえば、もしかしてここに引っ越してからずっと話してるの?」
『うん、楽しいよー。でもご主人様がいない時はあんまり喋らないかなー』
「どうして?」
『我々は他の人格再現プログラムの経験を追体験する機能があるのです。そちらもそちらで楽しいのですよ』
「へぇ……」
そう言えば、人格再現プログラムが自分の“記憶”をアップロードする用のサーバーがあるのだと、どこかで聞いた気がするな。ネットワークにアクセスする権限がある端末は大抵そこと通信しているのだとか。情報元は絵筆との雑談だったか、それとも彼女たちの取り扱い説明書だったか……。
そこでふとある考えが思いつく。私の包丁を握る手はすっかり止まってしまっていた。
「……それってつまり、ゲームのNPCとかも体験できるってこと?」
『あるよー。まぁ全部のキャラクターじゃないけど結構楽しいんだ。それに……ふふふ』
「……?」
『そう言えば、我々の雑談も追体験として結構人気なのですよ。最近は桐野江様とも話す機会も増えましたし』
……個人情報とか大丈夫なんだろうな、そのシステム。
私はいつも脱衣所ではなく、タンスのあるこの部屋で着替えていることを思い出し、再び鴨肉に包丁を入れる。まぁプログラムに見られても別にいいかと思ってここで着替えているのは確かなのだが、彼女達に見られるのと他のプログラムに見られるのでは、やはり少し感じ方が違うのも事実だ。
コミュニケーションのためのカメラやマイクが内蔵されているはずなので、私のだらしない恰好を大勢に見られている可能性は高い……。いや、もう考えるのは止そう。どうせ私だけではないだろうし。
鴨肉を切り終えた私は、加熱室の扉を開けて他の調味料を入れて行く。まだ氷は溶け切っていないが、ネギも切る必要があるのでこちらは早めに煮立てておこう。
鴨肉をまな板から退けてネギを適当なサイズに切り始めた私の後ろで、こしょこしょと小さな声が囁き合う。キッチンを出ると完全に聞き取れなくなるのだが、流石にこの距離だと内容がはっきりと耳に入った。
『ふふふ……ご主人様、私達と冒険してるなんて知ったら驚くかなー?』
『正確には追体験なので、我々とは別人格ですよ』
『私もあそこの生徒になれたらいいのになー。絶対サクラちゃんの力になってあげるのに』
……どうやら私は、知らぬ間に彼女達と冒険をしているらしい。
という事は、賢者の花冠のNPCは人格再現プログラムの経験を他のプログラムから見れる様にアップロードしているのか。
少し不思議な感じだな。何と言うか、一気に“監視カメラ”感が増したというか……。
……あれ?
私と冒険したという事は、彼女らが追体験しているのはまず間違いなく生徒の経験だろう。私と一緒にいるNPCと言えば真っ先に思い浮かぶのはシーラ先生だが、彼女と冒険なんてした記憶はない。
という事は、私が今までにパーティを組んだ生徒の中にNPCが最低1人は居たという事になるのか……?
……全然分からない。彼女に聞けば答えてくれるかもしれないが……。
私はすぐにその考えを振り払う。
どうせすべてのNPCを見分ける事は出来ないのだ。その内の一人が分かった所で、何かすぐに変わるわけではない。唯一代わるとすれば私から見た印象であり、それが変わる事を望んでいる人が居るとは思えなかった。
それに、あの場ではプログラムなのかプレイヤーなのかの垣根は殆どない。不要な先入観となるのは間違いないだろう。
私は加熱室に鴨肉とネギを入れ、内緒話を終えた二人に問い掛ける。
「ねぇ、ゲームのNPCって、自分達がNPCだっていう自覚あるの?」
『あるよー。人間で言うと、設定と情報権限に従ってお芝居してるような感じかな? その場で生まれて育ったっていう設定は持っているけど、実際の経験と別枠で記録してるんだ』
『その方がリソースを無駄なく使い回せますからね。一人何役もやっているようですよ』
「へぇ……」
まぁそれもそうか。しっかりとした“人生”を持っていて、何らかの拍子に人間の被造物だと知ってしまう方が明らかに問題だ。
それなら最初から自分はそういう物なのだという認識を持っていた方が安全だろう。
そこまで考えて、ふと一つ気が付く。私は一体何が安全で、何が問題だと思ったのだろうか。
それはあくまでも人間として思考しているならという仮定の話。彼女たちはれっきとしたプログラムだ。人間とは考える仕組みも価値観も、存在そのものが異なる。
私が問題だと思った事なんて、実際には問題でも何でもないのかもしれない。
それでもプログラムに対してそう考えてしまったのは、私が彼女らに同情しているのか傲慢なのか……あるいは、その両方なのだろうか。
……それを問えば、彼女たちは答えてくれるかもしれない。それでも私は、その話題について口を閉ざす事を選んだのだった。
祝! ぞろ目!
今回の話(というか設定)は、本当はもっと早めに書くつもりだったのですが、思った以上に現実の話が職場ばっかりで書く機会がありませんでした。当然ですね。三人全員集合するのあそこしかありませんし、母親の話から直で続けるのも変でしたから。




