1:リストラされました
こんな無駄遣いをしている場合ではないんだろうけど。
でも、いつものカフェのいつものカウンター席でいつものラテの香りと手に伝わるカップの熱に、ささくれていた心が少しだけ落ち着いた。
何事もいつも通り。仕事が早く終わったからちょっとゆっくりして帰ろうというだけ。
そんな気分さえしてくる。
でも、実際はそうではなくて。
鞄からはみ出していた会社の封筒を取り出して、中を覗く。こんな人目のある場所で取り出す気にはなれない。
封筒の中には、退職に関わる書類一式が、確かに入っていた。
幻ではないんですよねえぇ……。
呻くようにため息を吐いて、テーブルに突っ伏す。
なんでこんなことになったんだろう。これからどうしたらいいんだろう。
とはいえ、ここは飲食店。このまま倒れているわけにもいかない。のろのろと身体を起こすと、不意に声がかけられた。
「お隣、空いていますか?」
「あ、はい!」
慌てて見回すと、広くはない店内はいつの間にか混んでいて、空席は私がいる壁際のカウンターだけだった。
迷惑行為はいけない。
隣にはみ出していた荷物を慌てて寄せた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。……あら?」
隣の席に来た女性は、わずかに驚いたような声を挙げた。
なんでしょうその反応。知り合い? でもこんな話し方する人に覚えは。
「古田さんのところの秘書さんよね。確か……アシダさん」
改めて隣に立つ人を見上げれば、見覚えのある人ではあった。とはいっても、挨拶以上の会話をしたことはない。顔見知り、という程度の相手だ。
古田というのは古田商事という会社の名前でもあり、私のつい数時間前までの勤め先。元上司であったおじいちゃん会長はじめオーナー一族の名前でもある。
そしてこの女性は、時折会長のところに来ていたコンサルタントさんだ。どういうコンサルかはよくわからないけれど、「レイ・コンサルタント」の方なので「レイさん」と呼ばれていた。お歳暮の発送とかで見たフルネームは確か、高嶺怜子さん。
長い黒髪をサイドだけ纏めて背中に流し、紺に若干紫がかかったような不思議な色味のタイトなスーツとハイヒールをいつもぴしっとお召しの、クールビューティーな方だ。
上品で凛とした佇まいで、姿勢も所作も言葉遣いも美しい。年齢も不詳だし、ただ者ではない感じは山ほどするし、一体何者なのか。いらっしゃる度に秘書室も役員室もざわついていたくらい。他の役員もレイさんの仕事内容を把握していないらしく、謎の存在だった。
明らかに人の上に立つ人のオーラがばしばし伝わってくる、いかにも「デキル女!」というお姿に、上司にするならこんな人がいいなぁ、と憧れる存在でもあった。会社の役員たちが残念だっただけに余計と。
だから。
「私の名前まで覚えていただいているとは思いませんでした」
芦田優乃。それが私の名前だけれど、名刺交換をしたことはない。そもそも私には名刺がなかった。
「いつも電話の取り次ぎで聞いていたから名前も覚えるし、訪問した時には受付してお茶をだしてくれていたもの、顔も覚えるわ」
コンサルタント業というのは、そういう人にも気を付けて相手先企業を見ているものなのか。
レイさんは隣に座った。
テーブルの上にででんと置かれたのは、ホイップとシロップのトッピングが盛り盛りで存在感抜群のフラペチーノ(大)。
人の好みはそれぞれだけど、ちょっと意外。いや、ラテとかエスプレッソとかなんか大人っぽい格好いいものの方が似合うのに、なんていうのは偏見ですよね。ええ。
でもそういえば。今時珍しい、出されたお茶菓子をしっかり食べていく人だった。会長にも「レイさん来るからお菓子買ってきて! いいやつ! 芦田君の分も買ってきていいから」ってよくおつかいに行かされたし、お茶もきちんとしたものを用意することになっていた。会長がどんな相談をしていたのかは知らないけれど、むしろお茶しに来ているような風情だったくらい。わたしもよく便乗してお菓子をいただいていました。
甘い物がお好きなのかもしれない。にしてもその増し増しのホイップとシロップは、見るだけでも暴力的なカロリーを感じる。きっと、人の命を救えるレベル。
「数日前に伺った時に、退職されたと聞いたけれど」
リストラされたんです!
不意に近況を訪ねられ、声を上げそうになったのを飲み込んだ。
でも、この人はコンサルタントだ。コンサルタントって実際には何をやるのかよく知らないけど、経営に口出ししてリストラ薦めたりとかする人たちですよね? もしかしてまさかこの人が諸悪の根源!?
「解雇されたんです」
テーブルの下でぐっと拳を握りしめる。
もしもリストラを薦めたのがこの人なら。この際だ、不満くらいは聞いてもらおう。
「まあ。どうして?」
「そういうことは、コンサルタントの方がご存知なのではないでしょうか」
そう尋ねると、レイさんはシロップたっぷりのホイップを口に運びながら首をひねった。
「不祥事、ではないわよね。人員整理であなたを対象するとは思えないけれど」
「それがされたんですっ!」
思わずテーブルを叩いてしまい、一瞬、周りの注目が集まった。ああ、やってしまった。
しかし、目の前の女性は動揺の欠片もなく落ち着いたものだ。
「あら。人事になら多少関与するから、知っていれば止めたのに」
もう遅いです。退職の書類に全部署名捺印してしまいました……。
「貴女がいなくなったら、困るのはあの会社の役員さんたちでしょうにね」
そうですよ。
元職場の役員たちは時代に取り残されたような人たちで、とにかく事務作業が何もできない。機械やIT関係は壊滅的だ。どのくらいかというと、コビー機のトナーどころか用紙さえ補充できないし、ファイルの保存場所を確認しないで「書類が消えた!!これだから機械は信用ならん!」と騒ぐくらい。
役員たちがその調子なのにあの会社が持っていたの不思議だったけれど、老舗で顔の広いオーナー一族のコネとかツテとかそういうのだった。それを生かせる実務担当がいれば会社は回るものらしい。
とはいえ。
「どうしてそんなことまで」
「会長室にお邪魔していると、いろいろと聞こえてくるわよ?」
そうでした。会長室の仕切りはぺらっぺらで、隣の役員室や社長室で揉めてるのなんて全部聞こえますね。みんな声大きいし。なんて恥ずかしい。
「会長さんも、気遣いが細やかでよく働いてくれると誉めていたのに」
秘書は三人いて、一応、会長、社長、専務を担当しつつ他の業務にもあたることになっていた。私は会長の担当だったけれど、会長は役員の中で最も手がかからない人なので、他の秘書や役員のフォローという名の雑用が回ってくることが多かった。
「会長も引退されるそうで、先日はその御挨拶だったから、色々あるのでしょうけれど」
「そうなんです。辞めるにしても、会長の引退関連の業務まではやってからにしたかったんですけど」
あの会社は色々と問題があって、なんでこんな限りなく黒に近いオーナー中小企業に入社してしまったのかと頭を抱えもしたけれど、会長個人はとても良い人だった。まぁ、ちょっと……いや強めに癖はあったけれど。
退任されるなら、後任に引き継ぐ旨の各方面へのご挨拶回りの調整やご挨拶状の手配も必要だろう。どうせならその辺までは片付けたかった。
コネとかツテとかは、実際には会長個人のものが多い。そして、その関係のメンテナンスは秘書が担う面も小さくはないのだ。引き継ぎはしたけど、どうなってるかなぁ。
「義理堅いのね」
そう言ってストローをくわえるレイさんの手元のフラペチーノはすでに半分近く消えていた。いつの間に。私のラテはまだ温かいですよ?
それはさておき。
私の解雇に彼女は関与していなかったし、それどころか、むしろ残るように動いてくれそうな人だったらしい。
さっき「人事になら関与できる」って言ってたし、人事とか人材活用系のコンサルなのだろうか。それでなくとも人脈は広いはず。
「高嶺さんは、色々な企業の役員クラスの方々に御面識が多いと思いますが」
「私に仕事を依頼してくるのはそういう方たちが多いから、自然とそうなるわね」
それなら。図々しいけど、言うだけなら、タダですし! いまもう、やけくそだし!
「秘書や事務員を募集しているような所はご存知ありませんでしょうか。秘書や庶務なら今までやっておりましたし、雑用全般厭いません」
「?」
レイさんはしばし首を傾げ、そしてややあって内容を理解してくれたらしく「そうね」と考え込んだ。
「『貴女みたいな人』がいてくれたらとても助かるだろうと思う先は幾つかあるけれど、人を増やす予定があるかどうかは、聞いてみないとわからないわね」
まぁ、ここで「そういえば探してるところが……」な展開になるとは思ってませんけどね。
とはいえ、複数思い当たるとは素晴らしい。改めてお願いしてみるきっかけに、名刺くらいは頂戴しておきたい。
そういえば、レイ・コンサルタントは個人事務所のようだし、アシスタント的な人の存在を感じたことがない。
「御社では募集されていませんか?」
もののついでで言ってみる。
詳細不明の事務所とはいえ、レイさんに対する会長の対応を見るに、信用できる人だと思う。男性の個人事務所だとちょっと考えるけれど、相手は女性だし、という気の緩みもあった。
「うち?」
意外そうな反応ではあったけれど。
「……『貴女みたいな人』が来てくれたらとても助かるけれど、でも、うーん」
どうやら、全くの脈なしでもないらしい。
これは、押してみる価値ありなのでは!
「短期のアルバイトなどはどうでしょう」
申し出てみると反応アリ。これはいけるかも。
「もちろん自分でも新しい職を探しますが、仕事振りを見て、ご紹介を考えていただければ幸いです」
畳み掛けると、レイさんは考え込んだ。フラペチーノはもはや残り少ない。
「人を雇うと色々と面倒が増えるのだけれど……」
雇用の手続きが手間なだけで、人手そのものは欲している、というところだろうか。
ぐっとこらえて相手の出方を待つ。
「……パソコン得意?」
最新デジタルツールを使いこなして軽やかにお仕事こなしていそうな風情の方から、なんか元職場の役員たちみたいな台詞がでてきましたが。
「文書や表計算など、基本的なソフトでの作業でしたら概ねできます」
「変わった印刷とか得意?」
「変わった……集約とか冊子とか特殊用紙への印刷ですか?」
「そうそう」
もしかして、予想に反して機械に超弱い人だったんですか。組織ならアシスタントにやらせればいいけれど、個人事務所だとそれは大変なのでは。
「メーカーや機種で多少の癖はありますが、一般的な複合機なら使えると思います」
「癖のある文字の書き起こしとかはできるかしら?」
「文書のテーマやその人の癖を読み取るのに慣れが必要なことはあると思いますが、今までもやっていました」
前の勤め先の皆さん、キーボードは一本指打法でしたからね。手書きメモの解読は日常作業ですよ。
「難しい漢字とか得意?」
「大学は国文学科でした。一応程度ですが」
レイさんはほぼ空になったカップをもてあそびながらしばし考え込んでいるようなので、私も冷めてしまったラテを飲んで待つ。
手応えは悪くない、はず。
「……正式に雇うのは難しいのだけれど、ちょっとお手伝いに来てもらって、お礼を渡す感じでいいかしら」
「はい」
おっしゃあああああ!
テーブルの下で小さくガッツポーズ。これで無収入だけは回避できる!
運が良ければ次の仕事の紹介ももらえるかもしれない。
こんな縁で、私はとりあえずレイさんのお手伝いをすることになりました。
まさか、あんなとんでもない仕事をしている人だとは思わずに。