遺書を書く男
「それじゃあ、ちょっと行ってくるよ」
少年は、手にしたバケツをひっくり返す。たっぷりと溜まった水が全身を冷たく濡らすが、少年は意に介せず、続ける。
「心配はいらないさ、ヤモリ君。遺書は書いてあるから」
赤々と燃える炎が、空から降ってくるはずの雪を水滴にすら変えず、蒸発させる。
「ナナホシ!」
『ヤモリ』と呼ばれた少年は、押し寄せる熱波に戦き、立ち尽くしたまま叫んだ。足の震えが収まらず、膝から崩れ落ちそうになる。
必死になって踏ん張りを利かせているヤモリをよそに、水に濡れた友人は穏やかな笑みを浮かべたまま、火災に包まれた民家へ向き直る。
ヤモリは心の内で悪態をまき散らしていた。自身の命すら危ぶまれる状況でヘラヘラと笑える友人に。そして、そんな友人の後を追えない自分に。
『ナナホシ』と呼ばれた少年は、陸上部員がアップするかのような軽やかな足取りで火の海に飛び込んでいった。ヤモリはそんな友人を見ていられず、目を背ける。その瞬間、年端も行かぬ少女と目が合ってしまう。少女は、燃え盛る民家のベランダで、声も出せずに震えていた。
その瞬間、ヤモリは自身の記憶が走馬灯のように巡る感覚に陥った。
高校一年生の春、守屋博継は灰色の青春を送らないよう、スタートダッシュに人一倍気を付けていた。
自己紹介で奇を衒う事もせず、女子のグループに突撃する事もせず、やんわりと、中学からの付き合いだという仲良しグループの輪に入った。
新参者なだけあって、初めは緊張もしたが、ゲームや音楽の好みが多く共通している事に気が付くと、彼らとの距離がグッと縮まった。
春は瞬く間に過ぎ、守屋が青春を肌で感じている内に、初夏が訪れた。
体育の時間、二人組を作るよう教師から指示された守屋は、友人達が各々でペアを作っている事に焦り、それ程交友のないクラスメイトに慌てて声を掛けてしまった。
それが、辰巳天道との出会いだった。
グループの友人達と辰巳は同じ中学だったようで、守屋は以前、彼が少々変わり者であると友人達から聞き及んでいた。
初めは、クラスメイトを変わり者呼ばわりする友人らを好ましく思わなかったが、その理由を聞くと、少なからず納得した。
「辰巳君ってさあ」
二人組でストレッチを行っている際に、守屋は口を開いた。変わり者、と言われる理由について、本人に確認するつもりだった。
「うん?」
守屋の意図を知らない辰巳は、雲の流れを眺めるようなのんびりとした声で応えた。
「趣味が遺書作りって、マジ?」
ただの他愛もない雑談。興味本位の延長のつもりだった。他人の趣味を詰る気など毛頭なかった。それなのに、守屋は自分が酷く矮小な人間だと、感じてしまった。弱い者いじめをする人間を冷めた目で見る様に、自分自身を見下していた。
「そうだよ」
辰巳は、自身の趣味を恥じる様子を微塵も見せずに、頷いた。一人気落ちする守屋に向かって、諭すような笑顔すら向けて。
「なんで……」遺書を書いてるんだ? そう続けようとして、守屋は口をつぐんだ。これ以上質問を重ねては、彼の尊厳を傷つけてしまうと思ったからだ。
しかし、辰巳は守屋が口をつむぐより前の言葉だけで、質問の意味を察し、それに答えた。
「僕、中学の時に海で溺れて、死に掛けた事があるんだ。その時に、三途の川、と言っていいのかわからないけど、それに近いものを見て、ああ、僕死ぬんだ。って思ったんだ。そう思った瞬間、両親に別れを言えない事が悲しくて悲しくて仕方なかったんだ。だから、一命は取り留めてからは、遺書を書くようになった」
その話を聞いた時、守屋は今が授業中である事も忘れ、昔を思い出していた。
守屋はかつて、肺の病気で三度の入院、手術を繰り返した。病気自体は重篤なものではなかったが、二度目の手術の際は、病状の悪化が予想以上に早く、医者から、「もう少し遅かったら危なかった」と言われた。
その時は、三途の川を見たわけでもなく、ましてや自分が死んでしまうかもしれないとは、思いもしなかった。
自分と似た体験した彼が、自分よりも死を身近に捉えている事に、守屋は打ちのめされていた。そして、彼が変わり者ではない事を深く感じ取った。むしろ、誰よりも人間らしい生き方をしているのではないか。
その日を境に、守屋は辰巳と行動を共にする事が増えた。交友関係に貪欲な性格な為、仲良しグループと行ったり来たりではあったが、辰巳も、グループの友人達も、その事で嫌な顔はしなかった。
「なあ、ナナホシ」
数カ月が経ち、紅葉の色付きすら見飽きる季節になったある日、守屋は辰巳の自宅に遊びに来ていた。本棚に収納された哲学本を適当に引っ張り出し、我が物顔で友人のベッドに寝転がる。
予告なしに、友人に対して、「ナナホシ」と言うあだ名をぶつけると、辰巳は机の引き出しを探る手を止め、案の定、虚を突かれたような顔をした。
「それ、僕の事?」
普段、飄々(ひょうひょう)としている友人が驚く姿を見るのが、守屋は愉快で仕方なかった。徐に頷いてから、あだ名についての説明を始める。
「ああ、下の名前の『天道』と言えば、天道虫だろ? そこから一番有名なナナホシテントウさんの『ナナホシ』を拝借するってわけだ」
ナナホシ、そう呼ばれた彼は、人差し指をピンと立て、唇だけでそのあだ名を何度も唱えた。守屋は、その指を見つめながら、螺旋状に駆け上がるテントウムシの姿を想像した。小さな身体を奮い立たせ、爪先まで到達したテントウムシは、そこから見える景色を一望する。やがて、羽を広げて飛び立っていく。天井の向こう側にある、太陽を目指して。
「それじゃあ、守屋君は、『ヤモリ』だ」
「残念。そのあだ名は中学の時から使い古されてるよ」
友人の閃きを小馬鹿にしつつも、ヤモリは内心で喜んでいた。
「それで?」
「何が?」
ヤモリが聞き返すと、ナナホシは呆れた様子一つ見せずに、「僕に聞きたいことがあったんじゃないの?」と言った。
「ああ、それか」
あだ名を呼ぼうと思い、意味もなく話しかけただけだったが、ヤモリはそんな事はおくびにも出さずに、「忘れたな」と言う。
ナナホシは引き出しの中を探る作業に意識を戻し、ヤモリは読むつもりのない哲学本を眺めていた。
数時間前、二人は遺書について話し合っていた。何を想い、何を書き残すのか。自分が別れを告げたい人は誰なのか。自分の死を客観視する方法。
そんな中でナナホシは、半年に一度、遺書を書き直している事、過去に書いた遺書を大事に保管している事を伝えた。それを聞いたヤモリは、意を決し、過去の遺書を見せて欲しいと申し出た。さすがのナナホシも、その提案には深く思案する様子を見せたが、次第に相好を崩し、了承した。
ヤモリは緊張していた。恐らくナナホシも緊張しているだろう、と思い、この男に緊張と言う言葉は似合わないな、と考えを改める。
「はい、どうぞ」
遺言書、と書かれた封筒が差し出される。
寝転がっていたヤモリは上体を起こし、ベッドの上で胡坐をかいた。
「サンキュ」
小さな声で礼を告げ、一度深呼吸をする。
封筒から手紙を取り出す。ナナホシらしい達筆な字で、遺言が綴られている。
『この手紙を読んでいる貴方へ。この手紙を読んでいると言う事は、僕はもうこの世にいない事になります。事故か事件かはわかりませんが、恐らくは、自殺ではないと思います。なので、この手紙を読んでも、悲しまないで下さい。僕は、毎日を精一杯に、とは言えませんが、それなりに充実して生きてきました。かけがえのない親友も出来ました。運が悪く死んでしまったとしても、後悔はありません。ただ、こんな息子に先立たれてしまった家族には謝罪の言葉もありません。お父さん、お母さん、今日まで僕を育ててくれて、ありがとうございます。天国に行っても、きっと僕は元気に過ごしています。そして』
一枚目が終わり、二枚目に移ろうとした時、ナナホシが口を開いた。
「ヤモリ君は、今日死んでもいい?」
遺書を読む事に集中していたヤモリは、突然の問いかけに慌てて、「なんだって?」と聞き返し、その後でようやくその問いの意味を考えた。
「例えば、この後の帰り道で、トラックに撥ねられて死んでしまうとしたら、ヤモリ君はどう思う? 納得できる? それとも遣り切れない思いに駆られる?」
「そりゃあ、まあ、悔いは残るだろ。彼女が欲しかったなあ、とか、まだ発売してないゲームがやりたかったなあ、とか」
「そうだね」ナナホシは微笑んだ。「でも、人って案外、死ぬ時は死ぬんだよ」
ヤモリは、ナナホシと出会ってから数週間経った日の事を思い出していた。一学年先輩の女子生徒が、廊下のすれ違い様に、突然倒れたのだ。顔面を蒼白とさせ、過呼吸の様な息遣いをしていた為、ただ事ではない感じたヤモリは、介抱に入ろうとしたが、女子生徒が、「触らないで……」と呟いた為、彼は何もできなかった。
彼女は元気にしているのだろうか……。
後に聞いたサイレンの音が、今でも時折、幻聴の様に響く事があった。
「お前は一片の悔いも残らずに逝けるのか?」
「僕も悔いは残ると思う。でも、諦めは付くんじゃないかな」
遺書を書いているからね。そう言って笑う姿に、ヤモリの胸は微かに痛んだ。そんなの虚しいだろ、と言いかけて、止める。
遺書を残すナナホシの姿に、敬意を感じる一方で、一人の友人として、もっと人生を楽しんで欲しい、とも思っていた。
ヤモリは視線を友人から遺書に戻す。一枚目をめくり、二枚目の冒頭に目をやる。
『一人孤独だった僕に声を掛け、あまつさえ友人になってくれた守屋博継君に、感謝します。君が話してくれる事全てが僕にとっては新鮮で、君と一緒に遊んだ事全てが、僕にとってかけがえのない宝物です。僕はもうこの世にはいません、君に語り掛ける事も出来ません。もしかしたら、君はもう僕の事なんて忘れて、仲の良い友達と遊んでいるかもしれません。それでもいいんです。むしろ、そうあってほしいと、心から願います。それでも、君と過ごした半年間を、僕は忘れません』
遺言は、最後に大きく、そしてよれた字で『ありがとう』と書かれ、そこで終わっていた。
「お前……、これいつ書いた?」
ヤモリはベッドに横になると、タオルケットを自身の顔を覆いつくす様に被せた。
「先週くらいかな」
ナナホシはあっけらかんに言う。ヤモリは、そんな友人の肩でも叩いてやろうかと思ったが、今顔を見られるわけにはいかない為、わざとらしく舌打ちを鳴らした。
「前に書いた遺書を見せてくれ。って言わなかったか?」
「うん。でも、やっぱり親友には一番大切な遺書を見せたくて」
親友。そんな背中の痒くなる言葉を恥ずかしげもなく口にするナナホシに、ヤモリは文句を言う気すらも削がれてしまった。
「ねえ、ヤモリ君も遺書、書いてみない?」
「書かねえよ」
このまま寝てしまえ、そう思ったヤモリは、自身の耳を塞ぎ、瞼も閉じたが、中々睡魔に襲われず、一人悶々としていた。
少女の懇願する様な瞳がヤモリを貫く。目を逸らす口実にスマートフォンを取り出し、「119」のボタンを押そうとするが、手が震え、それすらままならない。
しんしんと降る雪を眺めながら、「今年は雪、積もるかな」であるとか、「雪だるまの綺麗な作り方、教えてやるよ」等と他愛もない会話をしていたのが、遥か昔のようだった。
「畜生!」
火の海に消える親友。縋るような視線をこちらに向けてくる少女。ヤモリは羞恥と怒りのあまり、過呼吸を起こしそうになっていた。
俺はどうすればいい!
答えはどこからも返ってこない。答えは自分で見つけなければならない。ヤモリも、それはわかっていた。
「助けて!」
声が聞こえた。ヤモリは顔を上げると、少女が大粒の涙を零しながら、自分に訴えている事に気付いた。
勇気を。
ヤモリは願った。先を行く親友の横に並びたいとか、情けない自分を正したいとか、そんな事ではなく、あの子を救う勇気を下さい、と。
ヤモリは近くにいた野次馬からペットボトルを奪い、一歩、前に進む。
それだけで、熱波と共に、死の恐怖に全身を包む。
それでも!
キャップを開け、緑色の炭酸水を頭から被った。目に染みるが、気にしない。
「俺は死なねえぞ!」
ヤモリは叫びながら駆けた。火も、煙も、熱も無視して、ベランダへと続く道を探した。
「遺書も書いてねえのに、死ねるかよ!」
「なあ、ナナホシ」
窓の外に浮かぶ太陽を眺めていた少女は、両親が見舞いに来た事を知るや否や、飛び跳ねる様に喜んだ。
そこから少し離れた場所では、身体中に包帯を巻いた男が二人、談話用のテーブルの前で、肩を並べていた。
その手にはペンが、テーブルには便箋が置かれている。
「遺書って、どうやって書くんだ?」