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夢観の八葉

水葬

作者: 穹向 水透

16作目となります。2018年の春頃に書いたもののリメイクという形になります。

       1


 仮に今、私が生きているとしよう。否、死んでいたって構わない。あの日、一緒に生きたあの子はもういない。呼吸も心拍も同調させたというのに、あの子は私を置いていった。

 仮に私が、醜い仮面で真を隠しているとしたら、誰がそれを指摘してくれるだろう。遠いあの日から続く戒めのような、軽々しい嘘のような、灼けるような灯りの下をどう歩けばあなたのもとへ行けるだろう。ガラスのフィルムみたいにフェイタルな証明など、ナンセンスで、傘立ての間から覗いた無様な火星のようだ。

 あなたが私を置いていったから、私は冷たい水底から出られない。あなたが水底を覗いたから、私は光に眼を細めたのに。あなたが手を伸ばしたから、私は温もりを知れたのに。あなたが生きていることが、私を生かす最大のファクターであったのに。



 冷たい水底。今は朝を迎えて、多少の温度を得ている気分に浸っている。私はぎこちない足の運びで砂を蹴る。静かに白い砂が舞って、乏しい光に跳ね返ったように見えた。私は靴なんかを片手で持って、忌々しいほど懐かしく愛しい服を着て、何処へともなく歩いている。

 少し歩いた。もしかしたら、たくさん歩いたかもしれない。歩いている時、私は何も考えない、幸せによく似た感情を味わっている。それがずっと続けばいいのに、と願うけれども、私の足はそれに呼応してくれない。いつも、嫌だ嫌だと首を振る。足の癖して生意気だと、私は舌を打つ。

 今日も、この冷たい水底で休もう。いつか辿り着く水面を夢見て。

 私は靴を傍に置いて、バスケットから果物を出す。私はそれの名前に興味なんてなかったけれど、あの子はものの名前に異様に拘っていた。確か、このバスケットにも名前があった筈だ。記憶を辿れば思い出せるかもしれない。でも無意味だから砂に絵を描くだけにする。果物を齧った。あまり美味しくない。思えば、私は味にも拘らない。あの子と正反対なのだ。惰性と原因不明の使命感で果物を胃へ落とした。生きる為ならば仕方のないことだ。もう少しだけ歩きたかったけど、不精者の足が懸命に首を振るので止めておく。きっとそれが本心なんだろうな、と諦める。


       3


 もう直に夕暮れだ。明日という乾いたサイクルの中を生きなければいけない。だけど、水底にはそんなルールはない。一瞬、遥か遥か上の空を鳥が飛んだように見えた。あの頃は、煩くて黙らせたかった鳥の啼き声も、今は懐かしくて、余りに遠い。彼らと同じように翼があったらな、と溜め息を吐いた。けれど、水の中じゃ翼なんて重りになるだけなんだろうな、と眼を閉じた。

 そして、赤が過ぎ、黒い夜がやって来た。今日は晴れているようで、月の光が幽かに水底で揺れている。私はその光の落ちる場所に手を伸ばしたけど、私の手の下には暗い暗い影が落ちるだけで、悲しくなって、直ぐに手を引っ込めた。近くを泳ぐ銀色の魚の視線と動作が、私を馬鹿にしたみたいに見えた。いいさ、そうしてればいいさ、と笑ってみた。そんな眠るまでの記憶。

 眠った後の記憶、即ち夢は、いつものように鮮明で、水で揺れる現実の方が夢のようである。褪せない世界、死なない世界、私だけの世界。けれど何処にもない世界。それが夢だ。私の夢は常に光を求めている。今日は魚になって、悠々と水面の付近を泳いでいる。やがて、岸に近付いて、小さな猫の姿になって陸へ上がった。ぶるぶると身体を振る動作が、なんとも愛らしい。猫の私は、後ろに広がる藍色を振り返って唾を吐いた。二度と戻らない。そんな意志を象徴するかのような行為だった。そして、石を積んだだけの稚拙な家の門を叩く。いつの間にか、猫の私は二本の足で立っている。夢の中なら、足も従順だった。誰も呼応しなかったけれど、私は扉を開ける。奥の方に藁が積んである。手前のテーブルには、少し欠けているけど綺麗な白い皿と少しだけ曇ったスプーン。棚の本たち。これまた稚拙な暖炉のようなもの。気持ち程度の毛布。果物の入ったバスケット。すべてが懐かしい、懐かしい、懐かしい世界。少し涙が出そうになった。家に足を踏み入れる。でも、その瞬間に空間が歪んで、現実へ戻されてしまう。私は必死に手を伸ばして、扉のノブを掴むけど、いつも負けて戻されてしまう。眼を醒ますと、頬の涙が乾いた痕と、申し訳程度の温度を与えてくれる朝日だけが生きているという証拠だった。


       4


 いつものようにバスケットから果物をひとつだけ取り出す。果物に齧りつく。美味しくない、と思う。そして、回想に浸る。毎朝、このサイクルで私は回っている。足元の水草の周りを小魚が泳いでいる。水草の上で小さな海老が、まだ柔らかいハサミで威嚇している。微笑ましくなって、私は少しちょっかいを出す。魚は慌てて水草の間に隠れ、小海老は脚をカタカタさせながら後方へ退いた。私は果物を胃に落下させて、歩くことにした。珍しく、足は拒否しないようで、寧ろ、歩きたがっているようにも見えた。

 いつもの二倍程度の距離を歩いた。流石に、私も疲れた。眼の前には、巨大な建物が聳えている。水底で建物など、初めて見たので、私は言い様のない感動を覚えた。どんな建物かは、私にはわからない。自分の無知に呆れてしまう。建物から少し離れた水草のない砂地に腰を下ろす。まだ僅かな温度を蓄えた水が心地好い。どれくらい経ったか、私は眠っていたようで、何処かの扉が開く音で眼を醒ました。建物の方を見ると、男がひとり、こちらへ歩いてくるのが見えた。手には籠を持っている。男は私の傍で止まって声を掛けた。

「どうしました、こんなところで」

 意外にも丁寧な口調だった。水底にまともな人間などいる筈ないという偏見を反省した。

「どうもしません。ただ生きているだけです」

 私は素直に答える。飾る必要などない。

「あなたは誰?」

「ただの灯台守です」

「トウダイモリ?」

 私は灯台という言葉を知らなかった。

「灯台守は灯台からの光を見守るための門番みたいなものです」

「えっと……、灯台が何かわからなくて……」

 少し、恥ずかしかった。

「灯台というのは、海岸で夜の船の航行を支える塔のことです。船からすれば、命綱のようなものでしょうかね」

「命綱……ですか」

 少し首を傾げて尋ねる。お淑やかな演出を無意識にしてしまうのかもしれない。

「灯台のてっぺんから光を放つんです。光があれば、船は迷わないでしょう?」

「そういうことですか。わかりました」

 私はひとつ呼吸をして言う。

「でもここは海ではない。ましてや、陸でもない。ただ冷たい水底です。船なんて通りませんよ」

 灯台守は、当然の疑問だ、というような頷きをしてみせたあとで微笑んだ。悪意のない、真っ白な笑みだった。

「船は、通りますよ」

「え?」

 私は驚いた。無知な私でも、船くらいは知っている。水の上を行く乗り物だ。

「今日は通らないかな。まぁ、通る時刻はまちまちなんですけどね」

「だから、あなたはずっとこの灯台にいなければならないんですね」

「そうですね。でも、私だってこんな水底に居たい訳ではないのです。ただの戒めです」

 灯台守は砂地に腰を下ろした。

 少し遠くで、否、遥か遠くで、船の汽笛のような音がした。


       5


 視界の果てで銀色の見慣れない魚が左右に揺れながら泳いでいる。自分から光を拒絶するその銀色の鱗は、私から見れば、剥がしたいほど贅沢な持ち物だった。そんな殺意にも似た視線と思惑を感じ取ったのか、奴は視界の果ての先へ逃げていった。

「あなたは……、戒めと仰いました」

「はい」

「どんな戒めなんですか」

 灯台守の方をじっと見た。灯台守も私の顔を見返してきた。

「あ、失礼だったのなら、大丈夫ですよ」

「いえいえ」

 灯台守は笑いながら手を振った。なんだか久しい動作で、私も自然と微笑んでいた。

「こんな他人と眼を合わせて、こんな近くで話をするなんて、いつ振りだろう、って思いまして。なんだかとても懐かしいです」

「私もです」

 私は少し嬉しくなった。

「船は通っても、私と直接、話なんてしない。精々、汽笛を吹かして挨拶するくらいです。ああ、懐かしいなぁ」

 灯台守は遠くを見て言った。

「あ、戒めのことですね。……昔、私は陸で灯台守をしていました。船や海が好きで、子供の頃から灯台守になりたいと願っていたんです。始めてから、灯台守の仕事が辛いとか、面倒だとかと思ったことはなかったです。それだけ、やり甲斐のある仕事でしたし、誰かを支えている、導いている、という自己満足で成り立っていたんです。ですが、始めて数年後のある時化の夜に、私はミスを犯したのです。居眠りです。些細なミスでした。ですが、船からしてみれば、灯台は希望で支えです。間違っている筈がないという前提でこちらを頼りにしているのです。そこから先はわかりますよね?」

「ええ」

「私が起きた時には、既に船は転覆して、波に遊ばれていました。私は眼の前が真っ暗になりました」

 私は黙って聴いていた。頷くこともしなかった。

「その少し後、夜が明ける数時間前、灯台を高波が襲い、私もろとも海底へ沈みました」

「……なら、あなたは死んでいるんですか?」

 灯台守は頷く。

「でも、そうは見えない……」

 少し微笑んで、彼はこちらを向いた。

「もうやめましょう。こんな暗く冷たい話は」


       6


 水面を見上げる。まるで凪いでいるかのように静かで、本当にそこに境界線が敷かれているのか疑わしいほど透明で、もしかしたら、手を伸ばせば届いて、これが夢だったって醒めて、またあの懐かしいサイクルへ組み込まれるのではないか、と空想を展開した。

 私は灯台守の話を聞いて、懐かしく、また忌々しい過去のことを思い出した。実際のところ、夢で見たような光景とは、若干、違うということを思い出した。

 扉を思い出す。確か木製で、かなり傷んでいたような記憶がある。私は破壊なら出来るが、修復は技術の範疇外なので放置していた。扉としての機能は果たすので、特に問題ないという判断だった。あとは、ドアノブがやたらと大きいというか、特徴的な形をしていた。掴みやすいし、触ってわかりやすい。私には関係ない話だったのだが。

 テーブルは固定だったような記憶。一回、あの子がテーブルにぶつかってスープをぶちまけたことがあったため、私が釘を打って固定した。

 部屋の奥にあったのは、簡素なベッド。ぼろ布のような毛布が一枚。これも私には関係ない。

 壁に掛けてあったバスケット。森へ出掛けては、この籠に果物を詰めて帰って来たものだ。果物を取る係は私だったので、あの子よりこのバスケットに愛着がある筈だ。

「今日は、リンゴを取ってきてね」

「リンゴ?」

 私は聞き返す。私はものの名前に興味がない。

「そう、リンゴ。赤い果物だよ。この前、あなたが切ってくれたよね」

「そうだったっけ」

 私は料理にも興味がない。いや、どちらかというと生きることに頓着していなかっただけかもしれない。

 私が森へ出掛けると、彼女は眠りにつく。私がリンゴを取って帰ってくると、彼女は愛らしい寝息を立てて幸せそうに夢を見ている。その間に、私は明日の料理や洗濯をする。静かに掃除もする。そして、テーブルの上に作った料理とリンゴのバスケットを置いて、あの子の肩を揺する。あの子が起きるのと入れ違いに、私は眠りにつく。

「おやすみなさい」

「……おやすみ」

「いい夢を見てね」

「夢なんて見ないよ」

「今日はアップルパイ?」

「何それ?」

「変わらないよね」

「そんな目まぐるしく変わらないよ」

「そうかもしれない」

「もう瞼が開かない」

「おやすみ」

「おやすみ」


       7


 気が付けば、夜になっていた。今夜は少し曇っているようだ。雨が降るかもしれない。けれども、雨なんてこんな水底には響きもしない。

 灯台の灯りが眩しい。生きている。生きているから光る。

 灯台守は既に死んでいると言った。

 もし、そうならば、私も死んでいるのだろうか。

「冷えますよ」

 灯台守が言った。ずっと傍に居てくれたのだろうか。

「大丈夫です。どうせこんな水底。冷たいことなんてずっと前から知っています」

「でも、少しでも暖かい方がいいでしょう?」

 灯台守が手を差し伸べた。男の手だ。筋骨隆々とは言えないが、頼もしく感じる手。

「そうかもしれない」

「では、中へ」

 私と灯台守は砂地を歩いた。手を繋いで、僅かな温もりを感じ取って、歩いた。これが永遠なら、不滅なら、いいのに。

 そんな余りに拙い、そして儚い望みを仄かながらに胸に発芽させて、その不安定さに痛みを覚えてしまう。そんな短絡的な杞憂と希望の複合した感情で、私は作られている。きっと、灯台守だってそうだろう。

 灯台守は灯台の扉を押す。頑丈そうな鉄製の扉で、ノブの類は付いていない。

「中から押しても開くんです」

 そう彼は説明した。

 灯台の中は明るかった。人工的な光ではあるけれど、外より遥かに暖かく感じた。天井から星のように輝く球体が下がっている。太陽みたいで直視は出来なかった。

 螺旋階段がひたすら上まで続いていた。私たちは、螺旋階段を一段一段、意味もないのに、確認するように、踏み締めて登っていく。きっと、不安定さを恐れているのだろう。急に落ちてしまうかもしれない。何処かへ。何処か遠くの遠くへ。


       8


 灯台のてっぺんはもっと明るかった。導きの灯が生きているように回る。でも、本当は生きてはいない。何故なら意思がない。意思のないものは死んでいるのだ。

「とても……高いんですね」

「ええ」

「遠くまで見えるんですね」

「そうですね。あの南の、底が盛り上がっている部分が見えますか?」

「ええ」

「あれは、墓場です」

「墓場?」

「ええ。墓場です」

 私は墓場が何か、よくわからなかった。

「あそこには、生き物の魂も眠っていますし、船や灯台も眠っています。すべてのものは、役目を持って生まれます。例えば……船なら、人に乗ってもらう。灯台なら、船を導く。人なら……」

「誰かを幸せにする?」

 灯台守は一瞬、黙った。

「そうかもしれませんね」

「私は、誰かを幸せに出来たんですか?」

「さあ、私には解りかねますね」

「……」

「ただ、ここにいるということ、いや、ここで生きているということは、役目を全う出来なかったということ。若しくは、役目を全う出来なかったと自責の念に駆られていること」

「じゃあ、私は」

「後者かもしれませんね」

「……」

「……この灯台も、ここにあるということは、まだ役目を全う出来なかったことを悔やんでいるんだと思うんです」

「だから、この灯台は生きている?」

「はい」

 私は光源を見上げた。灯台の光が私に微笑んでいるように見えた。


       9


 朝になった。雨は降ったのか、降らなかったのかなんて知らないが、清々しく、けれども冷たい。言ってしまえば、いつも通りの何の変哲もない水底の風景である。

 あの後、私は灯台のてっぺんで、遠くを見ていた。

 墓場や、街のようなエリア、水中なのに森のように樹が生い茂っているエリア。導きの灯の動きと一緒に見えたそれらの風景は、何もない場所を淡々と歩いてきた私には、とても新鮮なものだった。徹夜をしたのも初めてのことだ。

 朝食は、灯台守がセットしてくれた。私がバスケットから果物を出そうとすると、彼は手で制して、待つように促した。灯台守はベーコンと卵を焼いたものを私に出してくれた。どんな名前か知らないが、とても温かくて美味しかった。

 私はお礼の代わりに、果物を差し出した。彼はそれを受け取ると、手で半分に分けた。そして、片方を私にくれた。いつもは美味しいと感じない果物が、とても美味しく感じた。

 今日は身体も頭も調子がいい。足も歩きたがっているようだ。

「もう出るのですか?」

「ええ、そのつもりです」

「……」

 少しだけ、灯台守の顔が悲しそうに見えた。

「また……、戻ってきてもいいですか?」

「もちろん」

 そう言った彼の顔は、とても嬉しそうに見えた。


       10


 今日は晴れているのだろう。透明な光が水底を照らしている。光の密集地では、銀色の魚がその鱗で光を弾くという、贅沢な遊びを繰り返している様子が見られる。

 灯台のてっぺんから見えた森へ向かうことにした。森なんて懐かしい。あの子と暮らしていた時に、果物を取りに何度も向かった記憶。鮮明なようで曖昧な記憶。きっと、上から糊で塞がれて窒息しているんだろう。

 森までの道は平坦で、人為的な道もなく、ただ広くて、背丈の低い水草の茂る平原を、静かに、泡の音を聞きながら歩いた。途中に落ちていた壺を覗いたら、蛸がいたので驚いた。私は蛸というものは、赤いものだと思い込んでいたので、地味な体色に驚いたのだ。

 森の入り口というのは、常に曖昧で、何とも言えない誘惑を備えている。近くの樹を見れば、オレンジ色の実がなっている。食べても大丈夫なのか、私には判別できない。

 ゆっくりと森の奥へ進む。足も少し疲れてきたので、ひとつひとつ観察しながら進む。小さな虫の姿が酷く懐かしく感じる。嘗て窓を煩く叩いた小さな羽虫も愛しく感じてしまう。

 奥へ進むと、少し開けた場所に出た。そこには切り株がぽつんと存在した。私は疲れていたので、その切り株に腰を下ろして、足を伸ばした。周りの樹との距離が近く、もしかしたら会話も出来るのではないか、と思うほどだ。バイオリンのような奇妙な形状の虫が私の座っている切り株の前を横切った。本当はこのバイオリン虫の居場所だったのかもしれない。

 自然と溜め息が出た。疲れているけど、それが理由ではない。

「どうかしたのかい?」

「誰?」

 私は正面の樹の枝を見た。そこには、真っ白で大柄な猫が一匹。気怠そうな眼でこちらを見ていた。眼は表現し難い青で、軽く揺れる尻尾に気品を感じる。

「あなたが喋ったの?」

 私は猫に問う。

「そうとも。他に誰がいる。そこのバイオリン虫が喋ったとでも?」

 カラカラと猫は笑う。馬鹿にしているのだろう。

「私の知ってる猫は喋らない」

「いや、それは空想だね」

「空想?」

「お前たち人間が持つ言葉を、猫が使えないと思い込むのは、大きな間違いなんだよ」

 猫はひとつ呼吸をした。

「猫と人間は同じ系列に位置する生物。そりゃ、アメーバやマラリアに言葉が話せるか、と言うのは全く違う話だ。彼らは系列が大きく違うからね。逆に言えば、人間が、猫の言葉を理解して、意思疏通を図ることも可能なんだよ」

 私は驚いたが、敢えて顔に出さない努力をした。

 この猫に見覚えがある。それはたった今、幽かに思い出したいつかの記憶の欠片だった。


       11


「どうかしたのかい?」

 猫は私に尋ねる。私が猫の顔をじっと見ていたからだろう。

「あなたは……、私を知っているの?」

「知らない」

「……」

「知っていたら、何か変わるかい?」

「何も」

 風が吹いた。

 風?

「あなたの名前は?」

「ない。何とでも呼んでくれて構わない」

 また風が吹いた。

 風なんて吹く筈もない。

 ここは水底。冷たい水底。

「お前の名前は?」

「……」

「まさか、忘れた訳ではないだろう?」

 私は黙ったまま。

「あの灯台守は名前をすっかり忘れちまっていた」

 猫は私の顔を覗き込む。近くで見ると、白い毛が異様にさらさらしている。さらさら、というより、ふわふわに近く。白も、どちらかといえば、透明に近い。

「私は……」

「……」

「……アリス」

「ほら、覚えてるじゃないか」

「待って」

「待たない」

「きっと違うわ」

「違わないね」

「私は……」

「アリス、だろう?」

「……」

 私は泣きそうだった。悔しい訳ではない筈だと自己解釈する。

「眼が……見えない?」

「見えるわ」

「それはお前のこと」

「……」

「猫はアリスの話をしている」

「……見えない」

「やはり、そうだろうね」

「あなたが、何を知っているの?」

「すべてだ」

「さっきと違う」

「変わらないね」

 私は眼を閉じる。

 何だか変な臭いがする。腐ったような、濁ったような。

 猫の笑う声が、遠くに聞こえる。

 爪が伸びる音。

 髪が傷む音。

 眼が乾く音。

 汗が滲む音。

 骨が軋む音。

 すべての微少な音という音が、いつも享受しているような、嫌な親近感を得たまま、私の身体に固張(こび)りついている。

 何かが剥がれる音。

 誰かが笑う声。

 私の声?

 さっきの風の音。

 段々と戻っていく。

 そして、聞こえなくなる。

 眼を開ける。瞼がとても軽い感覚。

 何も見えない。夜かもしれない。

 私はただ突っ立ったまま。

 声が聞こえた。

「おはよう、アリス」


       12


 鳥の声が聞こえる。何羽いるのだろうか。彼らの羽ばたく音が朝を告げてくれる。

 私は簡素なベッドで起床した。いい匂いがする。近付くと、美味しそうに焼かれた目玉焼きと、アップルパイがテーブルにセットされているのがわかった。

 のろのろと足を動かして、少し軋む椅子に腰を掛けた。そして、少し曇ったフォークを左手に持って、目玉焼きの真ん中に突き立てた。黄色い液体がとろりと流れ出した。目玉焼きの下に敷かれているベーコンと一緒に、目玉焼きを頬張った。とても美味しい。調度よい焼き具合で、それは私には出来ないので感心した。

 私は猫舌だったので、アップルパイはまだ食べられなかった。少し外を散歩してから食べることにした。彼女は私のことを知っているので問題ないと思う。そもそも、彼女は生きることに無頓着なので、どうとも思わないだろう。

 私の家は湖畔にある。屋根の低い、石を積んだ家だ。扉は木製で、少し軋む。昔、廃屋に間違えられたことがあり、その時はかなりショックだった。私にとっては、唯一の帰る場所で、彼女との思い出そのものだったので、余計にショックだった。

 私の家の付近には誰もいない。いや、湖自体が人里離れた場所にあるのだ。訪れることは簡単だが、来る理由がないので、誰も来ない。そのため、湖のことを知らない人も多い。

 散歩コースはいつもと同じ、湖に沿って歩いて、森へ向かう。杖をこつこつ鳴らしながら、ゆっくり歩く。私しかいないので、誰も私に迷惑をかけないし、誰にも迷惑もかけない。

 そういえば、そろそろ春だったような気がする。風が暖かく感じる。

「おっとっと」

 危なかった。危うく湖に落ちるところだった。杖で湖の底を突いて支えたので大丈夫だった。

 そろそろ帰ることにしよう。

 猫の声が聞こえた。

「あれ、ニア、何処にいるの?」

 私は猫を「ニア」と呼んでいた。その猫は、人懐っこく、私を見つけると、すぐやって来て撫でさせてくれる。

 私は屈んで、ニアの姿を探した。

 すぐにふわふわした毛の感触が手に伝わった。

「今日は暖かいね」

 私はニアに話し掛ける。

 ニアは「にゃあ」としか言わない。

「あなたも話せたらいいのにね」

「にゃあ」

 私には、ニアに触ることは出来ても、その顔も色もわからない。大きさだって、曖昧にしかわからない。

 いつか、見えるようになったら、見えるようになったら、なんて、何処にもない希望を掴もうとしてるだけだった。

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