9話
今日は、明らかに病が悪化していた。
また以前のように、体がうまく動かせなくなっていた。
昨日の疲れが出た、という一時的な症状とは明らかに違う。
今日はベッドの中で上半身を起こそうとする事ですら、うまく出来る気がしない。
僕の体が僕の命令に従わなくなっている。
それだけじゃない。
今日は動悸がとても早い。
息が苦しくて、体の内部が軋むように痛い。
以前とも違う。痛みが伴う分、明らかな悪化だ。
病状が回復に向かっていた、昨日まではわりと楽観的な気分もあった。
リハビリが進めばこのまま退院できるようになるのではと。
昨日の樹里の言葉を聞いたときも、僕がこのまま死んでしまうという部分は、他人事のように聞こえていた。
しかしこれは、今の僕の体は、樹里と出会う前の、病が更に進行した状態だ。
そして冷や汗が流れた。
死ぬとかどうとでもよくなるような、とても、とても嫌な予感がする。
手の震えを抑えられないまま、ナースコールのボタンを押した。
せかすように、2回、3回と。
「ごめん。遅くなっちゃって」
看護師さんはすぐ来てくれた。息が少しきれている。
「ちょっと用事を片付けてたから。で、何かあった? だいぶ顔色が悪いね」
「すいません、ほんと、たいした用事じゃないんです。手が震えてナースコールを連打しちゃっただけなんです」
しばらく間を取り息を整えて、一言だけ僕は続けた。
「あの、今日は樹里は学校があるから、まだ見舞いに来てませんよね」
看護師さんが、心配する様子から真剣な目つきに変わり、そして手で口元をおさえた。
そうか。
前に戻ったんだ。
「そこの椅子に座って、有希君の左手を握ってる……よ」
最悪の答えだ。
僕の左手は、何も感覚がない。
触られている感覚じゃなくて、そこに僕の手が存在しているという感覚が、無い。
樹里が再び見えなくなった。
声も聞こえない。触覚もないし、匂いも味もわからない。
僕は何一つ、樹里を感じることが出来なくなってしまったんだ。
ただ一つ、以前と違うのは、僕には樹里という双子の妹がいることを知っている、というところだ。
「あはは、ごめんごめん、さっきからそこにいるの、ぜんっぜん気づかなかったよ」
間をおいて、続ける。
「あーあ、また見えなくなっちゃったな」
「ううん、わたしに有希くんが話しかけているってことが、前とはぜんぜん違うから。嬉しい」
聞こえるはずのない返事が、帰ってきた。
看護師さんの声の色で。
看護師さんは、僕へ軽く左目をつむった
そして、目線が宙へ移った。どうもなれないことをして照れたのだろう。
「長居さん、ありがとうございます。まさか、また有希くんとしゃべれるなんて思わなかった」
「そこは話さなくていいですから」
「うー……」
「あははははは」
僕は笑った。本気の声で。
頬を膨らましている樹里の顔が見えているような錯覚を起こしながら。
「ありがとう」
僕は言った。
二人に対して、心からの思いを込めて。
それから、僕は、このまま樹里と一日中話したいと、わがままを言った。
この会話は、看護師の長居さんが合間にいないと成り立たない。
伝言は長居さん以外でも出来るけど、樹里の声は長居さんの声じゃないと僕は嫌だった。
僕は頭を下げて無理を言い、長居さんは一度ナースセンターへ申請しにいき、そして許可が降りた。
「今日は忙しいみたいなのにごめんなさい、本当にありがとうございます」
「いーえ、今の有希くんは常に病院の人がついていないといけない状態だから。でもお礼は受け取るよ、どういたしまして」
心の負担を軽くしてくれた。優しい人だなぁ、としみじみ思う。
それならば僕はたくさん話題をつくらないとと、張り切った。
「今日も学校いかなくいて大丈夫?授業ついていける」
「んー、大丈夫じゃないけど、家族のためだからね。毎日家や病院で遅れた分を自習してるよ。私、頭そんなに悪くないし」
「えー、そうなの!? あんまり成績いいようには見えないけど」
「あー有希くんにもそうみえるのかぁ……」
看護師さんは落胆した表情も真似をしている。
でもそれはやっぱり樹里のではなく、看護師さんの作った表情だった。
「有希くんくだもの嫌いでしょ。くだものは体にいいんだから、食べなきゃだめ。食べるべき」
「やだ、食べない」
「リンゴとバナナがこんなに置いてあるんだからもったいないよ、みんな有希君のために買ってるんだよ」
「たまに来るよく知らないような親戚とかが、たいていどっちかお見舞いに持ってくるからね。食べたくない。メロンなら食べる」
「甘いものが嫌いっていうかより好みなんだね。食べ飽きちゃった?」
「常にそこの台に、リンゴかバナナが置いてあるんだよ?もう見ただけで口の中がバナナとリンゴの味がするし、本物を口に入れる気がしなくなったよ。
「まあ私もよくつまんでるからわかるけどね。でも、いつ食べてもおいしいけどなぁ」
そんな他愛のない話を、ずっとしていた。
お互いをもっと、もっと知るために。
僕たちは、それまで以上に深く仲良くなれた気がした。
話しながら、僕はいっぱい笑った。
泣きながら笑った。
嬉しくて。
悲しくて。
このまま、樹里に会えないまますべてが終わる予感をもって。
これから、最期までずっと一緒にいてくれる期待を抱いて。
今まで、こんなに笑ったことは無いし、こんなに悲しかったこともない。
そしていろんな感情がごちゃまぜになっている。
今更になって、本当に、僕はここに生きているんだなという、うまく説明出来ない感覚を覚えた。
初めて実感できた。
僕は、この世界で、ちゃんと生きているんだ。