24話
「次も冷たいスープなんだけど、みんなお腹冷えてたら言ってね」
お母さんは、そう言いながら4杯目のスープを注いでいった。
「大丈夫だよ」
「うん、食べられるよ」
それは真っ白だった。透明なグラスに、濁りのない純白のスープが注がれていた。
「さっきのスープも、こっちのグラスのほうがキレイだったかもねぇ」
「うん、そう思うわ」
「はは、ごめんごめん」
驚く僕を傍目に、両親はそんなやりとりをしていた。
「これは?」
「フランス語で、ビシソワーズっていうんだけど、うん、説明すれば冷やしたジャガイモのスープね」
「これ、ジャガイモなんだ」
ジャガイモのスープがこんなにキレイな色になるんだって、びっくりした。
「カボチャも、トマトも、ジャガイモもアメリカ大陸の野菜なのよね。長い間あっち行ってたからこんな料理ばっかり作っててね」
「全部、日本でも普通に手に入る材料だけどね」
お父さんはそう言って茶化した。
このスープを作るのには、きっとすごい手間がかかっている。これだけじゃない、さっきのコンソメも、トマトもカボチャも。いろんな材料が使われていて、それを感じさせないくらいなめらかで、おいしくて。僕は料理なんかしたこと無い。だから、美味しいものを作ることがどれくらい大変なのかなんて、わからない。病院の料理だって、ちゃんと美味しいし、贅沢なんか言えないんだけど。今日、お母さんが作ってくれたスープは、今まで食べてきたものとはぜんぜん違う。比べ物にならない。
そして、きっとこのスープも、おいしい。こんな手のこんだキレイなスープが美味しくないわけがない。僕は、ちゃんと舌で確かめようと思った。
一口、含む。それは、期待以上の味で、かつ初めての舌触りだった。最初のカボチャのスープにも似ている。そして飲み込んでみた。絹のような喉越しとは、このことだと思う。絹なんか飲んだことないけれど。カボチャのスープは、他にも色んな野菜の味がしたけれど、こっちはもう少し単純だ。ジャガイモって、強い主張がある。クリーミーな味わいもする。ジャガイモにしても白すぎるから乳製品の何かだと思う。おいしい。
「ふぅ……」
「どう?」
「すごいね」
「それは褒め言葉かな? だよね。ありがとう」
「こっちこそ、ありがとう」
僕たちは、静かに、純白のスープを味わっていた。
4杯目のスープを飲んだ後は、僕たちは、しばらく休憩し、談笑をしていた。
主に喋っていたのはお父さん。ためになる話やら、過去の失敗話やら何やら。この人は想像していた人物像と違って、屈託が無い。優しくもあるけど、どこかお調子者だった、どこを見て硬い人だと僕は感じていたんだろうか。お母さんは、のんびりした人だった。あまり出しゃばらないけど、卑屈でもなく、おおらかな感じがする。
彼らは、好感の持てる人物だった。
「樹里、楽しい?」
「もちろんだよ」
「よかった」
「お兄ちゃんはどう?」
僕は、何故か一瞬言葉に詰まってしまったけれど、言った。
「楽しいよ」
「うん、楽しいよね」
そんな、他愛のない会話だった。内容は無いけれど、これはたぶん、自然な兄妹の会話だと思う。
そんなことが、幸せというものなんだろう、きっと。
しばらく談笑が続いていたけど、いい加減に気になってることを聞いてみることにした。
「それで、最後の瓶は何が入ってるの?」
僕は、それを見せるよう促した。
「これは、ねぇ」
お母さんは最後のスープだけ、出すのをためらっていた。
「用意したものが4つじゃ、縁起悪いでしょ。だから急ごしらえで作ってみたんだけど。あんまり自信ないから、お腹いっぱいだったら、飲まなくていいよ」
「えー。だって、4杯じゃ縁起悪いでしょ。だから、飲ませてよ」
「うん。それも、そうね。じゃあ、飲んでみて」
そう言って、お母さんは魔法瓶の蓋を開け始めた。
最後の瓶からは、よく知っている匂いがした。
「お、最後は味噌汁か!」
お父さんは言った。
「帰ってきてから、飲んでなかったからなぁ。懐かしいなぁ」
「一応、お料理の本どおりには作ってみたんだけど、ね」
さっきの言葉通り、お母さんは自信無さそうだった。
「多分、まずくないとは思うんだけど」
そう言って、お母さんはカップに味噌汁を注いでいった。
具材は細かく切られた豆腐と、ネギのみじん切りだ。僕に食べやすく配慮してくれたことがわかる。
「いただきます」
みんなで律儀に、また食前の挨拶をした。
僕はズズ、という音を立てて、味噌汁をすすった。味は、味噌汁だ。でも、いつも食べている味ともまた違う。
これは、知らない味のする味噌汁だった。その味を僕は、おいしい思った。
「ああ、これこれ。懐かしいなぁ。やっと日本に帰ってきった感じがするよ」
「こっちにいた頃、和食の研究とかしたことなかったから不安だったけど、おいしい?」
「うん」
「大丈夫、これはおいしい」
僕と、お父さんは答えた。きっと、樹里もおいしいと言った。
「ああ、良かった。鰹だしをとったのなんて、それが初めてなの」
「ということは、もっと美味しくなるのかな?」
「おそらく、ね」
そう両親は笑いあった。この二人は、ほんと仲がいい。微笑ましいけれど、なんとなく羨ましかった。
食べ終えた後、みんなは食器を片付けていて、僕はそれを眺めていた。
5杯のスープで、一番はどれだったかな。そう思うと、出来としては一番拙かった最後の味噌汁が、一番心の中に残ってた。
「僕たち、今日は、少しくらいは親に、なれているかな」
食後、ぽつり、お父さんがつぶやいた。
「え?」
僕は、つぶやきの真意がわからず、そう言うしか無かった。
「日本に帰ってきて、最初に病院に来たとき、有希が、僕たちの顔を覚えてなかったことくらい、すぐわかったよ」
「うん、そう、だったんだ」
あの時は気を遣わせないようにふるまったつもりだけど、両親も僕のことを見ていた。隠しても、考えていることは伝わってしまっていた、ということか。
「僕は、後悔してた。僕たちがいない間、有希たちがどんな思いをしていたのか。僕に、想像力が無かったんだ」
「でも、お父さんは、僕と樹里のために頑張ってたんでしょ」
「そのつもり、だったんだよ。でも、本当にそうだったんだろうかね」
「どういうこと?」
お父さんは、少し俯きながら語り始めた。
「僕は、浮かれていたんだよ。二人を、いや有希を助けるためにしていた活動が実を結び、やがて、曲がりなりにも教授なんて呼ばれる立場になってしまった。だんだん忙しくなり、日本へ帰れなくなった。入院費と研究に必要な費用も得ることが出来たけど、子供を助けようと思ってやってたことが、本末転倒になっていた。その間、二人も生きていたんだ。幼い子どもたちが、親の助けもなく生きていたんだ。それがどんなに厳しいことか、考えられていなかったんだ」
間をおいて、続けた。
「いや、考えてなかったわけじゃない。だけど、全く想像力が足りていなかった」
そして、お父さんは、頭を抱えて、下を向いた。
「大事なことを、見失っていたんだよ、ほんと、何やっているんだろうな」
「私もね」
続いてお母さんが語り始めた。
「最初、お父さんについて行こうかどうか、散々迷ったの。そして、私は決心した。お金を集めるため、お父さんは外国で一人で戦わなければならない。だけど、有希は病院にいれば、周りの人が守ってくれる。樹里は、おじいちゃんとおばあちゃんが見てくれるって言ってくれた。だから、お父さんについていった」
一息入れたあと、続けた。
「そう、周りに甘えてしまった。だけど、5歳の子供を母親が置いていって、いいわけないじゃない……。他に、やりようはあったはずなのに。母親にとっても、小さな子供の成長をそばで見守るって、すごく大事な時間だったの。かけがえのない時間だったはずなのに。それを私は自分から捨ててしまった」
そして、お母さんは言った。
「結果、自分の子供に、そんな目で見られてる。まったく、自業自得よね」
僕に、なぐさめる言葉は、浮かんでこなかった。
「ごめんなさい」
お母さんは、頭を下げて、そう言った。
「いいよ」
僕は一言、言った。ただ、僕の両親は、僕と同じ人間で、同じく弱いものなんだ。それが、今わかった。
「周りの人が僕を助けてくれたから、そして、お父さんとお母さんがいるから、今僕は生きてるから」
「そう、か」
「親がなくても、ほら、子は育つんだよ」
「ははは……、これじゃ、どっちが子供かわからないな」
「僕たちは、少し考え方が子供らしくないかもしれないけど。だけど、これから、お父さんとお母さんがそばにいれば、きっと子供らしく生きられると思うんだ」
僕は、お父さんと、お母さんに向かって、言った。
「有希は、そう、言ってくれるんだね」
お母さんは、そう言った
お父さんはしばらく下をうつむいた後、
「それじゃあ、これから、よろしく、頼むよ。……どうか」
と、顔をあげ、僕の手を握って言った。
「ごちそうさま、ご飯、おいしかったよ」
僕はお母さんに、そういった。