21話
「どうしても、思ってしまうんです。樹里が見えない今の僕がおかしいんじゃなくて、樹里が見えたあの時の僕がおかしかったんじゃないか、って」
長居さんは何も言わない。
樹里の言いたいことは、分からない。
「あれは幻覚だったんじゃないか。あの女の子は、何かにすがりたくて僕が生み出した妄想だったんじゃないか。樹里は、僕が生きていたい理由が欲しくって生み出してしまった、何か、なんじゃないか。ずっとそんなことを考えています」
「……うん」
「そして、我に返ったあとも、樹里を探し求める僕を、居もしない人を好きになった僕を、哀れんだ先生や長居さんが、他のみんなと口裏を合わせて、そんな子が存在してるかのように見せかけてるって」
そこでいったん言葉が切れてしまった。浅くなっている呼吸を整える。
もう全て言ってしまうしかない。
「どうしてもそう考えてしまうんです。毎日、毎晩。そんなこと、考えたくないのに!僕は樹里と一緒にいたいだけなのに!」
感情が暴発した。叫び声なんかあげたくない。周りのみんなに迷惑かけたくない。だけど、もう堰がきれてしまった。自分の意思で止めることが出来なくなってしまった。
「うん」
長居さんは、僕をぎゅっと抱きしめた。それだけだった。
「何で答えてくれないんですか!? やっぱりそうなんですか!?」
「落ち着いたら、話す」
「今言って、ください」
「樹里ちゃんはいるよ」
「じゃあ、何で僕は、もう樹里に会えないんですか!? そのまま僕は死んじゃうんですか!?」
「信じてよ」
「じゃあ、信じさせてよ!」
「うん」
僕を抱きしめる手の力が強くなった。
僕は、苦しかった。
本当の気持ちを人に伝えることって、こんなにも苦しいものなのだろうか。
抱きしめられた体は、痛かった。
だけど、この痛みが、心の苦しさをいくらか、和らげてくれた。
僕がずっと嗚咽を鳴らしている間、長居さんはずっと強い力で抱きしめていてくれた。
僕の嗚咽は、時間とともに緩やかになった。
そして今となっては、僕は、小さな声で、えぐっ、えぐっ、という声を発しているだけだった。
「このあと樹里ちゃんの言葉を全部伝えるから。私、長居さんは、ここからいなくなったと思って。有希くんは、私を疑うのか、樹里ちゃんを信じるのか。人を疑えば、何も失わないかもしれない。人を信じたら、何かを失うかもしれない。でもね。人を信じなければ、人は何も手に入れられないの。樹里ちゃんを信じて欲しいから、樹里ちゃんと話して、決めて」
長居さんは、僕を、抱きしめるその腕の中から解放した。
そして目を閉じて、また開けた。
しばらく僕は待った。長居さんの口が開くのを。
だけど、黙ったままだ。長居さんも、僕も。
今の長居さんは、樹里だ。
まっすぐ僕の目を見て、僕が話しかけるのを待っている。
ゆっくり、言うべきことを整理しようとしても、心の中はぐちゃぐちゃのままだ。
いくら待っても、いうべき言葉が浮かばない。
それでも樹里は待っていた。僕が先に話しかけなければいけない。それは、樹里の心の声だ。
「僕を、騙して、ないよね?」
ひどい第一声だ。
「騙したことも、騙したいと思ったことも、ないよ」
樹里は、言った。
「私はね、明日がすごく楽しみなんだ。物心ついて、初めて祝ったクリスマスは、5歳のときかな。そのとき有希くんは、もうおうちにいなかったね」
「うん、そのころにはずっと病院で過ごしてた」
「そのとき私、うきうきしてたんだ。ごめんね。町中が何だか浮かれてたし、テレビも特番ばっかりになって、みんな待ち遠しそうで、幼稚園で前日にやったクリスマス会が、楽しかったから」
「そうなんだ」
「でもね、おうちでやったクリスマス会は、楽しくなかった」
「……なんで?」
「お父さんと、お母さんが、お祝いをすることに負い目を感じていたから。有希くんが1人でいるのに、私たちが楽しんでいいのだろうかって。言葉で聞いたわけじゃないから、何考えたかなんて、わからないけどね」
一呼吸後、樹里は言った。
「そのとき、私は決意したの。いつか、必ず、家族4人で楽しいクリスマス会をしてやるって」
今僕は、さっきとは違う、嫌な心の苦しさを覚えている。
「有希くんは私がわからないから、一緒に喜びを分かち合うことは出来ないけど、楽しんでる私たち2人を見れば、お父さんとお母さんも喜んでくれるって思った。そして、ようやく明日、その夢が叶うんだ」
「……うん」
「しかも、有希くんは、私という妹がいることをわかってくれた。なんと、私が見えないのに会話もできるようになっている。明日はお母さんとお父さんに通訳してもらおう。そうすれば、兄も、私を本当に認めてくれるかな?」
僕は、何も口を挟むことが、出来なかった。
「ねぇ、私のこの夢は、幻かな? 本当にそんなことを思っている人は、実はどこにもいないのかな。わたしにも、わからなくなっちゃった」
樹里は、語り続けた。
「私はあなたのために、生まれてきた。だけど、この世界に生まれたことで、私を思ってくれる、大切な両親が出来た。2人が海外で仕事をするようになってからは、おじいちゃんの家に預けられたけど、おじいちゃんも、おばあちゃんも、叔父さん夫妻も、従姉妹も、みんな私に良くしてくれた。学校に行けば、体調を壊しやすい私を、友達が、クラスメートが、先生たちが、気づかってくれた」
「だから、私はこの世界が好きになった」
「だけど、この世界は暖かさで満ちていたわけじゃなかった。この世界を壊れるほど憎んだ、有希くんがいた。君を毎日見ていて、とても、とても、悲しかった。目の前に誰にも心を開けず、誰にも心を許せない双子の兄がいるのに、何で私はなにもしてあげられないんだろう、って。私は何をやってるんだろうって。やるせなくなった」
樹里はいったん、言葉を止めた。だけど僕は、続きを待っているだけだった。
「この世界で、大切なものが沢山出来た私だけど、だけど、私はあなたのために生まれてきたんです。あなたがいなければ、私がここにいる意味は何もないんです。何も価値がなくなっちゃうんです。この世界も、私自身も」
「それでも君が、私がここにいることを疑うのだとしたら」
「私のこの気持ちは、一体どうしたらいいんだろう」
樹里は、笑った。長居さんの顔を借りて。
わかりやすい、悲しさを覆い隠す笑顔だった。
「有希くんが素直に自分の気持ちを伝えてくれたから、私も思いの丈を話すことが出来たよ」
「信じる」
僕は、言った。
「樹里を信じる」
他の言葉は、何も言えなかった。
何もいらなかった。