17話
その夜、僕は樹里と話しをした。
「テレビで、生まれてすぐに死んでしまった赤ちゃんと、その両親のお話をやってたんだ。一瞬だけこの世に生を受け、苦しみのうちにあっけなく死んでいった赤ん坊がいた。親に残されたものは、つかのまの幸せと、その後の人生、ずっとずっと続いていく悲しみだけ。その子の人生に、はたして意味なんてあったんだろうか、考えたんだ。僕の人生もそんな子と大して変わりはしない。その子よりちょっとだけ長く生きているだけ。もしかしたら、世界のすべての人々さえ、同じかもしれない。ただ生まれて、そしてただ死ぬだけじゃないかって」
ゆっくりと、息継ぎをしたあと、僕は続けた。
「すべての事には意味がある。だから、きっと同じように、すべての事に、意味なんてない。そう思っていたんだ」
間をとって、再び僕は喋りはじめた。
「でも、今はそんな考えは、どっかいっちゃんたんだ。僕は生きる意味を見つけた。僕が生きる理由は、樹里にある。樹里がいるから、僕は生きたい。樹里が僕に触れても、僕は何も感じることができない。樹里が何か紙に文字を書いても、僕には読み取ることはできない。でも、それでいいんだ。君が、僕と同じ世界で、同じように息を吸って、笑顔で僕に話しかけてくれている。それを知れただけで、僕の人生は、意味のあるものだったんだ。もっと生きたい。もっと君の隣にいたい。もし、このまま姿が見えないままでもかまわない。見えなくても君がそばにいてくれるとわかってるなら、僕はそれだけで幸せなんだ」
そして僕に対する樹里からの返事の言葉を、長居さんは伝えてくれた。
「わたしには、この世界で、有希くんしかいなかった。この部屋で君といるだけで、わたしはひとりじゃないって思えた。君はわたしに気づいてくれない。わたしのことを見てくれない。でもわたしはずっと君を見ていた。いつか君と話してみたかった。今日読んだ本で、君はどんな世界を旅していたの?とか、今日のカレー、おいしかったね、今日は全部ご飯食べちゃったね、とか、そんなたわいのないお話をずっとしたかった。そんな夢はかなうことなく、君は最期を迎えるのだと、そう思ってた」
樹里は一度目を閉じて、また開いた。そして言葉を続けた。
「でも、夢が、かなったの。偶然だと思う。奇跡だと思う。諦めしかなかったのに、絶対にずっとこのままだと思ったのに、願いがかなったの。君はわたしの話を聞いて、笑ってくれた。そして君もわたしを笑わせることさえしてくれた。有希君を好きだって伝えることが出来て、有希君も、わたしを好きだって言ってくれたんだ。望んでいたことが、この数ヶ月で全部かなったんだ」
間を置かず、樹里は続けた。
「またわたしが見えなくなったときは、ああ、前みたいに戻ってしまうんだって、絶望と諦めしかなかった。でも、違ったの。それでも有希くんはわたしに向かって、話しかけてくれた。ほんとうにうれしかった。これからずっと、ずっと有希くんはわたしに気づいてくれて、話してかけてくれて、長居さんやほかの人を通じて、わたしは思いを伝えることが出来るんだって」
その言葉の後に、少しの間沈黙が生まれる。
「……でも、このままじゃそれも終わっちゃう」
そして、少し震える声で長居さんは言った。目からは、一筋の涙が流れ、袖でそれを乱雑にぬぐった。
「お兄ちゃん、これからも、ずっとわたしのそばにいてよ、病気を治してよ」
「……うん、こんなので、終わりたくない。幸せだってことが何だか、はじめて知ることが出来たんだ。それなのに、また一人にはなりたくない。ずっと樹里と一緒がいい」
樹里の前ではもう泣くまいと決めていたのに、我慢しているのに涙が流れてしまった。かっこ悪い。
「有希くん。……もし君が遠くに行っても、そのときは、わたしもすぐにそばに行くから、心配しないで」
その言葉を発した長居さんは、とても険しい顔をした。
「ありがとう。この先、なにがあっても樹里がそばにいてくれるのなら、僕は何も心配することがない。でも、僕は生きるよ。生きて、この世界で、ずっと樹里と一緒に生きていくんだ」
「うん、お願い。お願いだから、その苦しみに打ち勝って、もう一度わたしを見つけてよ」
そして、僕は言った。
「キス、して」
少し間をおいて、
「うん」
長居さんは言い、後ろを向いた。
僕は、目を閉じ、ゆっくりと樹里を待った。
何の、味もしなかった。
何の、感触もなかった。
樹里の暖かさも、冷たさも、わからなかった。