14話
夕方、先生が病室に入ってきた。今日は二人きりで話したいということで、看護師さんも連れてきていない。
樹里がそばにいるかは、僕にはわからない。
「先ほど有希君のご両親と話し合ってね、手術をしたいという僕の意思を伝えたよ。最初は渋い顔をされたけれど、説得して、結果ご両親からは了承を得られた。あとは、君から同意を得るだけなんだ」
「まず、どんな手術なのか、お話を聞かせてください」
先生は、一度目を閉じたあと、また開いて喋り始めた。
「まず最初にね、正直に言わせてもらうとね、僕は、君が怖いんだ」
先生は続けた。
「ここのところ、毎日君が夢の中に出てくるんだ。だんだん衰弱して死んでいく君と、それを、ただ見ているだけの僕だけがいる。この夢をほぼ毎日見ている。……現実にも、容態が悪化していく君を前に、僕は特に何もすることができない。こんなのが、先生と呼ばれてえらそうにしてるんだから、笑っちゃうよね。……僕の存在は、君にとってなんの意味があるんだろう」
「いえ、先生はとても僕によくしてくれています」
「ははっ!」
先生は、憎々しげに、その言葉を笑い飛ばした。
「僕は、君から逃げ出したいんだ。……なんで君の主治医になってしまったのかと、毎日運命を恨んでいたよ」
そう吐き捨てた。
「これが僕の本心だ」
僕は、何も言えなかった。
その後、先生はしばらくの間黙っていたが、やがてまた口を開き始めた。
「この前の手術だって、別段意味のあるものじゃなかった。本が大好きな君が、残された時間その楽しみを奪われるなんてかわいそうだと、みんなの温情で行ったものでしかなかった。根本的な治療につながるわけじゃない、ただの気休めだった」
「あの手術は、僕にとって、とても意味のあるものでした」
「うん。だけど、その手術後、一時的に君の容態は回復に向かった。視神経を移植しただけなのに、一時的に運動機能まで回復しかけたんだ。やがては元に戻ってしまったけれど」
先生は言葉を続ける。
「僕は、こう考えたんだ。新しく移植した、正常な活動をしようとする神経が、異常な活動をする神経を正調させようとしたんじゃないかと。そして、正常な活動をする神経と、異常な活動をする神経とのあいだでせめぎ合いが起き、最終的には正常な神経が負けてしまった」
僕は、黙っていた。
「これはたんなる仮定にすぎない。あてずっぽうだ」
話していることは難しいけど、言っている意味はわかる。
「具体的に言うと、いままで、君の神経に損傷や異常はみられなかった。ただ、この前の手術で摘出した神経を調べたら、神経伝達物質が伝わりにくい箇所が見つかった。君の場合は、この異常が先天的なものだったから、今まで問題がわからなかったんだ。僕は考えた。それなら、他に流れが滞っている場所を徹底的に調べ上げて、その神経を全て交換、移植したらどうか」
そして先生は続けた。
「僕は、この前視神経を移植した手術を、今度は全身に施すことを君に提案する」
しばらくの間、沈黙が病室を支配する。
僕は言えなかった。受けるとも、受けないとも。結果がどうなるのか、判断がつかないから。
だから、先生から次の言葉が続くのを待った。
「医者としての正解は、おそらく、このまま何もしないで君を見守ることなんだろう。単なる勘を頼りに大手術をして、失敗したら患者の命を奪うんだ。どうなったとしても、四方八方から責められるのは目に見えてる。ご両親の活動で、医療界隈では君のことはそれなりに知られているからね。この業界から追い出されることも覚悟しなくちゃいけないし、罪に問われる覚悟も必要だ。……それでも、だ。僕は、君を、手術したいと思ってる」
そう言う先生の手は、若干ではあるが震えている。
「ずっと君は僕の患者で、僕は君の主治医なんだ」
少し間をおいた後、先生は続けた。
「君はとても頭のいい子だけど、そんな悟ったような顔でさ、これも運命なんだ、なんて受け入れてさ。見てられないんだよ。もっと周りのみんなを頼っていいんだし、助けをもとめてくれよ。僕だって義務で君を診ているわけなんかじゃないんだ」
僕は口を挟まず、先生の話を聞いていた。
「僕は、君を助けたいんだよ。本当に自分自身わがままで言ってると思うんだけどさ……、それでも言うよ。もっと生きようとあがいてくれよ。この病気を治してくれって、そう叫んで、僕に助けを求めてくれ。君は、年端も行かない少年なんだぜ? それが、誰もが救いをもとめるような辛い病気を背負って、平気な顔をして、死を受け入れてるんだ。泣き喚いてる姿よりも、今の君を見ているほうが、周りの人間はずっと辛いんだよ……」
ひと呼吸置いた後、先生はさらに続けた。
「治るかなんて、まったく確証なんかない。意味なんてないかもしれないし、死期を早めるだけかもしれない。それでも……僕は、君にこの手術を受けてほしい」
その言葉を受け取る前に、すでに僕の心は決まっていた。
「もう、決めました。手術を受けます。この病気を、先生の手で治してください」
「……ありがとう」
「よろしくお願いします」
先生は、うなずいた。
先生は、その後はしばらく何もしゃべらず僕を見ていたれど、しばらくしたら「また来るから」と言って、背中を見せた。
僕は提案を全面的に受け入れたけど、病室を後にする先生の後姿は、少し寂しそうだった。
人は自分の心をいつわることが出来る。さっきの先生だって、僕の同意を引き出すために、演技をしてだけなのかもしれない。
僕は人の心の奥底を見通すことが出来ない。
でも、それでもいいと思った。
いつだって大人の態度でやさしく接してくれていた先生が、今日僕に、その「弱さ」を見せてくれたから。だから、信じようと思った。
信じるとか、そういうものじゃないかもしれない。ただ、先生のことが、前より好きになったんだ。
だから、僕のことを先生に任せてもいいかな、と思った。
信念や格好のよさや優しさを見て、人は人を好きになる。でも、人は、その人の持つ「弱さ」をこそ愛することが出来るんだな。
そんなことを考えていた。