Vol.2:神田神保町チェイス
シドの前に突然現れた双子の兄妹ムムムとメメメ。ふたりは彼の所有していた禁書を持って逃げ回る。あれは、絶対に人の目に晒す訳にはいかない!
ええ、エロ本です、ただの。
ムムムとメメメはすずらん通りを東に逃げていた。その少し後ろをシドが追いかけていく。ふたりは彼が店じまいをするのを律儀に立ち止まって待っていた。ただ純粋に追いかけっこをしたいだけなのである。エロ本を抱えてはいるが。
「待ちやがれええええっ!」
閑静な通りに大声が響く。双子は一緒に並んで走っていたが、途中でふたり揃ってくるりと180度向きを変え、後ろに手を隠した体勢になった。何事かを企むお互いそっくりな笑みが浮かべられている。
直後に彼らはそのまま二手に分かれた。どちらが本を持っているかわからない。
「えええええいちょこざいな真似を……! あの笑い方姉貴にそっくりでほんと腹立つわ!」
彼は直感でムムムを追う事にした。ムムムはくねくねと古書店街を適当に走り回っていたが、所詮は幼稚園児。足の速さで高校生のシドに勝てるはずも無く、あっさりと捕まった。
「はあ……はあ……ほら、捕まえたぞ!」
「ざんね~ん! ぼくは持ってないよ~~~~!」
両手を上げて何も無い事を示す。シドは大人気無くいらっとしてしまった。
そんなふたりのすぐそばを挑発するかのごとくメメメが本をひらひらと見せびらかしながら駆けていく。
「正解はボクでした~~~~!」
「……………………!」
シドはぷるぷると体を震わせ始めた。
「メメメエエエエエエッ! お前女の子なんだから『ボク』なんて言い方やめようなあ! お姉ちゃんのそういうとこ真似しちゃ駄目だぞ! 腹立ってくるからなああああああっ!」
幼児相手に本気で怒る男。全力疾走ですぐに彼女に追い付く。
「さあっ! 今度こそ兄ちゃんに返そうかああああっ!」
だがまたしても。
「ほいムムム!」
ぐるぐると逃げてムムムのいた場所に戻って来ていたのである。本は彼女が捕まる寸前でムムムの手元に渡った。
「今度はこっちだよ! シド兄ちゃん!」
「なっ!」
彼がブレーキをかけ振り返っている間にメメメは兄の元へ行き、再びふたり揃って逃げ始めた。
「お前ら……いい加減にしろおおおおおっ!」
「メメメ、パ~ス!」
「はいキャッチ! ムムム~!」
「ナイスキャ~ッチ!」
走りながらふたりは本をパスし合っていた。
「おい! 何やってんだよ! もっと丁寧に扱え! 破れるだろ!」
「うふふふ!」
「わ~い!」
シドの話など聞いていない。本はぺらぺらとページを風になびかせながら宙を何度も行き来していた。ていうか中身もろ見えてるからやめて! 通行人そこそこいるからさ! あはは!
兄妹は大型書店へと入っていった。彼も続けてすぐに入るが周りの目があり店内で走る訳にはいかず、あっという間にふたりを見失ってしまった。この書店は地階含め九階建てであり、早足で一階から見回っていく事にする。
「あいつら……どこに行きやがった……!」
三階を捜し終えエスカレーターに乗った所で反対側に下っていく双子を見付ける。何とも悪いタイミングだ。
「あっ!」
「うわ! 見付かった!」
「逃げろ~!」
双子はエスカレーターを駆け下りていった。
「あっおい待て! ……ちくしょお!」
何だか、凄く疲れてきた。
「やばいやばい捕まっちゃう!」
「観念しろおっ!」
書店から靖国通りへと抜けて少し西へ走った所でシドはやっとふたりに追い付き、ようやく手を伸ばせば捕まえられる距離にまで達した。今度こそ捕まえてやる。
「鬼ごっこはお終いだ!」
「ひえええっ……あっ!」
すると突然メメメが躓き、本が彼女の手から離れた。ムムムが速度を上げようとするがその前にシドに襟の後ろを掴まれ阻止されてしまう。メメメは勢いよくこけた。これでゲームセットである。
「いったあ!」
「捕まっちゃったあ!」
「はあ……はあ……ったく、疲れさせやがって……! いいか? あれは僕の大切な本なんだ。もう二度とこんな事するんじゃねーぞ」
「はあい」
「わかった」
シドがふたりにしっかりと言い付け歩道に落ちた本を回収しようとすると、彼らの方に歩いてきていた二十代ほどの女性がそれに気付き先に拾い上げた。彼は礼を言う。
「ああ、すいません、それ僕のなんですよ」
「……あ……そうですか……」
女性は白い目で彼を見ていた。本は飛んだ拍子にばっちり開かれていたのである。
「…………………………」
…………………………。
「……………………………………………………ありがとうございます」
シドの頭から血の気がさーっと引いていった。大切な物を取り戻したが代わりに大切なものを失った気がした。プラスマイナスゼロ? むしろマイナスかもしれない。
「あのなあ、僕が猥褻でリアルに捕まるかもしれなかったぞ……」
三人はコンビニの前でアイスクリームを食べていた。もちろんふたりにはシドが買ってあげた。体を動かした後という事もあり、冷たいアイスは格別に美味しかった。
「じゃあ今度はまたブックハンターごっこしよーよー! シド兄ちゃんのその本をハントする!」
「何にも反省してねえな!」
食べ終えたごみを捨てるとシドは少しだけ駆け足で家へと向かい始めた。
「しょうがないな。じゃあウチに帰るまでな。にーげろー」
「待て~~~~! ブックハンターキーック!」
「あいたあっ!」
逃げる彼の背にメメメが全力の飛び蹴りをくらわせる。シドは古書店街のど真ん中に頭から滑り込んだ。
「いってえ! やはり血筋か……ん?」
ふと上を見る。そこには何とも澄んだ空が広がっていた。
「……空が……青いなあ」
「いや引くわ」
ミミミの水色のパンツだった。
「見損なったよシド……まさかパンツを見たいがためにヘッドスライディングかましてくるとか……お前がそこまで落ちぶれた人間だとは思ってなかったよ」
ぐりぐりと彼女は彼の顔面を靴底で躙る。普通に痛い。
「あいーたたたたたたやめろ」
彼女の名は美海実。依頼人が欲しがっている本を探し出すブックハンターの少女である。日本人らしい黒い髪を蝶の飾りが付いたヘアゴムで左側頭部に器用に結んでまとめており、頭頂部にはふたつの髪の束が触覚の様にぴんと跳ねているのが特徴的だ(彼女曰く寝癖らしい)。百円ショップで買ったプラスチック製のバットを常に身に付けている、少し、いやかなり変わった高校生。シドの同級生であり、ムムムとメメメの姉でもある。
「あ! お姉ちゃん!」
「お姉ちゃん!」
双子は姉と出会えて喜びの声を上げた。
「うっす」
「何だ、帰ってきたのか」
シドも立ち上がりながら彼女に尋ねる。ミミミはキャリーバッグをそばに立たせており、見た所ちょうど戻ってきたという感じであった。
「今さっきね。淡路町から歩いてきたとこ」
「で? 目的のブツは手に入ったのか?」
「ん」
彼女は構える様に肩に乗せていたバットの先端を顎で示す。手提げがかかっていた。中には本が数冊入っている様である。
「おお、よかったな」
「この中のどれかが当たりだったらいいんだけどね……ん?」
何かに気付いたミミミは素早い動きで手提げを滑らせ落とし左手で掴むと、そのままバットをシドの頭に振り落とした。ぱかあんっ! と軽い音が鳴り渡った。
「いっつ! 何すんだよ! ……あれ」
この隙に彼は持っていた本を彼女に奪われていた。ミミミはぺらぺらとページを捲り無言で内容を確認している。慌てて取り返す。
「わあああああ何だよお前ら! 姉弟妹揃って人の本を!」
「お前、ボクの弟妹の前で何つーもん持ってんだ」
「そういうてめえも変な言葉教えてんじゃねーよ!」
「うるせえ」
ぱかあんっ! 理不尽である。
「おお、ここにいらっしゃいましたか!」
その時年老いたひとりの男が四人の元へと駆け寄ってきた。
「あ! 重じい!」
「捜しましたよ、おふたり共! ……おや? ミミミお嬢様とシド坊っちゃまもご一緒でしたか」
「あ、どうも、重さん」
黒のスーツを上品に着こなしたこの老齢の男は坂上重治。ミミミの生家に仕えている者である。彼女の一族は代々ブックハンターとして活動しており、業界では少しばかり名が知られているらしい事をシドは以前彼女から聞いていた。ちょっとした名門なのである。
「突然いらっしゃらなくなったので心配しましたよ! やはりシド坊っちゃまのお店に行かれてましたか」
「そうそう。シドはイカれてるよね」
「んなこた誰も言ってねえよ!」
「さあさあ、そろそろ帰りましょう、ムムム坊っちゃま、メメメお嬢様。あまり帰りが遅いと旦那様が心配されます」
「ええ~~~?」
「もっと遊びた~い」
「わがままはいけませんぞ」
「……はあい」
坂上に優しく諭され双子は渋々首を縦に振った。
「じじいは元気?」
ミミミが彼に聞く。この場合の「じじい」とは彼女の祖父の事である。
「ええ、相変わらずでございます」
「そっか。重じいも体気を付けてね」
「はい、ありがとうございます……お嬢様も相変わらずといった所ですな」
「まあね。ひとりで楽しくやってるよ」
「はは、それはよかったです……さあ、帰りましょう」
短い会話を終え坂上は双子の手をとった。
「うん。またねー、お姉ちゃん、シド兄ちゃん」
「またねー」
「おう、またな」
「重じいの言う事聞くんだぞー」
「それでは失礼します。シド坊っちゃま、どうぞこれからもミミミお嬢様をよろしくお願いします」
嫌です、とはさすがに言えなかった。
こうしてムムムとメメメは坂上に連れられ帰っていった。ようやく嵐が去ってくれた、とシドは思わず息を漏らす。だがまだ終わりではなかった。
「ふー……にしても、どっか破れてたりとかしてねーよな……」
公道であるにも関わらず彼は堂々と本の中身を見始めた。そこに突如大きな手がぬっと現れ本を彼の両手から奪っていく。
「!? おいミミミ! いい加減に……!」
「……いや、ボクじゃないから」
「あ?」
彼女はシドの後ろを見つめていた。
「ムフー。何を見てるんだシド」
「!? げ!」
彼の後ろにはいつの間にか大きな男が立っていた。ふたりはこの男を知っている。彼らが通う道礼高校の体育教師、榊ウスシ(55)である。真面目で堅物なのだが、ずば抜けて変態である事を隠しきれていないのを生徒の誰もが知っていた。なぜならば保健の授業で事あるごとに興奮して鼻息を荒くするのである。中学生かお前は。
さ、榊……!
「ムフー……お前、これは高校生が読んではいけない本だな? ムフー!」
例のごとく鼻息を荒げながら榊は言った。
「ムフムフー。これは私が没収する、ムフー」
「んな!? ちょっ、ちょっと待って下さいよ先生! それは僕の私物ですよ!?」
「それでも17歳のお前が持ってる事が問題なんだ、ムフー。18歳になったら返してやる、ムフー! ムフフフフ……!」
「そっ、そんなあっ!」
「じゃあまた、もうすぐ学校でな、ムフー……いい収穫だ」
「おいっ! おもっきし自分で楽しむ気満々じゃねーか!」
偶然通りかかった榊教員はシドのエロ本を強奪しそのままいずこかへと去っていくのだった。
「あ……僕の……プレミアもんが……!」
「あーあー残念だったね。まあさ、お前どうせあと少しで18じゃん。すぐに返してもらえるじゃん」
「いやあいつの事だからあれはただの口実でどうせ返してくれねーよ! 何つー教師だ!」
「……ドンマイ。生きてりゃその内良い事あるって。何ていうかさ……飯ウマだよ」
「お前っ……! 元はといえばお前の弟妹が持ち出したからこんな目に!」
シドはミミミの襟元を掴んだ。
「あーめんごめんご」
結局、大切な物まで失ってしまったのであった。
坂上が運転する車は交差点の先頭で赤信号で止まっていた。横断歩道を渡っている人々を見ながら彼は「あ」と声を出す。
「どうしたの? 重じい」
後部座席にいたムムムが話しかけた。メメメは疲れて彼の隣で眠っている。
「ああ、いえ、何でもありません」
信号が青になったので坂上は再び発進させた。
そういえば、奥様が近々ミミミお嬢様に会いに行くと仰っていたな……先ほど伝え損ねてしまった。
ま、いいか。
結構前から頭の中に出来ていたミミミの家柄の設定をようやくここで出せました。