表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パンデミックは秋風に  作者: 千弘
9/50

「あ…う…んん…」

 腰が痛く頭が重い。かなり寝てしまったようだ。

 途中で二度トイレに起きたのは覚えている。その時、何時だったか見たはずだが覚えていなかった。なにか夢を見ていた気がするが記憶は薄い。いい夢ではなかった感じが残っている。

 途中、喉が渇き水飲んだ。それは覚えていた。いや、飲みかけの水が空になっていたのでそうだと思った。

 凛子は暖かい烏龍茶を入れ、少し冷まそうと待つ。案の定、睡魔が襲ってきた。ソファーに座りカーディガンを羽織って頭を倒し目だけ瞑った。そのつもりだった。

「あ、いけない…」30分するとお茶は温く冷めていた。

 冷めたお茶を飲み、煙草を吹かし覚醒した後、バスタブにお湯を張る。入院中、入浴出来なかった事もあり凛子は入浴に飢えている。

 お湯が張るまでの間、軽くストレッチをしてみた。入院中のサボりが如実に表れている。これはお風呂上りにしっかりやらねばなと思う。これでは来週からの仕事に差し支えてしまう。

 点けっぱなしのテレビ画面には緊急特番と帯が掛かっている。後で観ればいいとテレビを消してパジャマを脱いでベッドに置いた。

 キャミソールと下着を籠に放り込んだ時そろそろお気に入りが無くなるなと思った。

 凛子は入浴中に鼻歌を歌う癖がある。


「やさしい人達の然りげない誘いを」


 窓の外では幾つものサイレンが響いている事を凛子は知らない。


「心に穴が空くってことわかった気がした」


 ましてや玄関前の廊下で今起きている惨劇など知るはずもない。

 髪を洗い湯船に浸かる頃には2周目を歌っている。


「帰り道の事は何も覚えていなかった」


 凛子の綺麗な歌声がバスルームに響く。


「抱いた膝に次々にこぼれるしずく」


 綺麗な歌声はまだ続いているようだ。


 凛子は風呂からあがり、頭にタオルを巻きつけタンクトップにハーフパンツという姿で冷蔵庫を物色している。

「さすがにお腹が減ったな」

 豆乳を取り出しシリアルの箱を開ける。凛子は少しふやかしてから食べるのが好きだった。シリアルがふやけるまでに髪を乾かそう。そうだ、それがいい。ふやけ過ぎても美味しさは半減してしまう。タイミングはとてもシビアだ。

 ここは急がなければならない。しかし、すぐに生乾きで戻って来た。

「やっぱり今食べようっと」

 凛子はいつでも何でも美味しそうに物を食べる。これは特技だと思う時がある。皿の底の豆乳を飲もうか、折角退院したのだからいっそアルコールを取って来ようか迷っている時に何か聞こえた。

「ん?」

はて、今のはどこからだろう。外からか、玄関先だろうか。

 ドン!ダン!ドン!

 今度は三回続けて聞こえてきた。

 壁とドアを叩く音。

 音の大きさから隣の部屋のドアのようだ。叩く音の合間に床を擦るような足音も聞こえる。

「喧嘩かな……」怖いなと思いながら鍵を目視で確認した。二つのレバーは横向きになっており、しっかり施錠してある。

 好奇心からなのかもしれない。外で何があったのか、どうしても知りたくなってしまった。

 いや。ここは自分の部屋の前だ、私には知る権利がある。物音を立てないように細心の注意を払いドアに近寄る。何故か見てはいけないと直感が警告しているのがわかった。

 覗き窓に顔をそっと持って行こうとした時。

 バン!ガン!

 また叩く音が鳴り響く。凛子はもう少しで声を出すところだった。思わず手で押さえ口を塞ぐ。鼓動が早く大きくなっていくのが分かった。今にも口から心臓が飛び出してしまいそうだ。

 スコープ覗くとドアのすぐ前で女性が倒れているのが見えた。服の擦れる音と微かな声が聞こえるのは隣のドアを叩いている人なのだろう。

 確実に、少なくとも二人はいる事がこれでわかった。倒れている人とドアを叩く人。

 これは喧嘩なのだろうか。危険ドラッグというやつなのかもしれないなと思った。尚も叩く音は止まない。

 その女性は気を失っているのか、顔を反対に向けてぐったりした感じに見える。

 あまり近所とは交流がないので、はっきりとはわからないがこの階で見たことのある人の気がした。

 床には点々と血も見えている。それを見た途端、無性に怖くなった。とてつもなく怖くなった。廊下に血痕という非現実的な事にどうしたらいいか考えた。

 警察に通報しようと思っていると叩く音が止み足音が遠ざかっていくような気配がした。それは非常にゆっくりと、足を引きずるような音をさせながら。

 凛子は音を立てないようスマートフォンを取りに寝室へ戻った。すぐにその場で110と押し通話ボタンを押した。何も音が出ない。繋がりもしない。

 続けて119を押してみる。ツーツー…掛からない。繋がらない。どうしたらいいのか分からなかった。頭が上手く回転しない。どうしよう。そればかりが巡る。

 そうだ、倒れている女性はどうしているのだろう。すぐに助けたほうがいいに決まっている。

 慎重にドアに歩み寄り、スコープに顔を近づけ覗く。気のせいか、少し動いた気がした。いや、気のせいではない。意識を取り戻したのか、その女性は苦しそうに震えていた。

 すぐにでも手当てをしてあげるべきなのは分かっている。早く応急処置をしなければならない。

 鍵に手を掛けたがハッとして手を止める。叩いていた人はどこだ。ドアを開けて目の前にいたら堪らない。

 きっとあの叩いていた人物がこの女性に暴力を振るったに違いないと思う。暫く耳をすませたが足音は聞こえなかった。気配は感じない、今なら大丈夫そうだ。

 慎重に音を立てず回してもロックが外れる瞬間はガコンと音がしてしまう。最小限の音で二つの鍵をやっと開錠し、安全フックも外す。

 少しずつゆっくりとドアを開いて数センチの隙間から『叩く人』を探した。

 ―――いた。

 廊下の奥、エレベータの手前で男が立ち止まっている。距離は数十mはありそうだ。

 凛子はゆっくりとドアを開けて倒れる女性に声を掛ける。恐怖と緊張で声はかすれてしまっていた。

「あ……あの、大丈夫ですか……」

 ふと隣の部屋のドアを見る。先ほど激しく叩かれていたのは隣のはずだ。

 良く見えないので少しだけ顔を出す。見えた。叩いた後が血で判を押したようになっていた。

「なに……これ……」

 視線を戻したときその女性が大きく動いた。

「だ、大丈夫で……!!」突然足首を掴まれる。心臓が止まるかと思った。

「ちょっと止めてください」

「痛いです、痛い」凛子は堪らず玄関の中に尻もちをついて倒れこむ。

「きゃ!」

 倒れていた女が顔を上げると凛子はすくみ上がった。顔に大怪我を負った女がこちら睨み、口を開け歯を剥き出している。

 ――足を噛みつかれる!スローモーションの中で彼女は思った。

 凛子は足を引く。しかし女は手を離さない。咄嗟に夢中で蹴る。サンダルが脱げて飛んだ。どこをどう蹴ったのか分からない。まさに夢中だった。

 その時、くるぶしに何かが当たった感触があったがお構いなしに夢中で蹴り続けた。どれくらい蹴ったかもわからない。数発だったのか数十発だったか……やっとその手が離れる。

 その隙にドアを閉め、凛子は震えながら鍵を掛ける。いつの間にか涙が流れていた。玄関で座り込んで泣いた。その涙もドアを叩く音ですぐに止む事になる。

 這うようにドアから離れ、壁に手を掛けて立ち上がった。足の裏が血で汚れてしまっている。蹴った時のものだろう。

 浴室で足を洗い流しながらまた泣いてしまった。

「いったいなんなのよ!もう!」凛子は泣きながら叫んでいた。

 くるぶしに歯が当たったのか、傷は浅いが切れて血が滲んでいる。すぐに消毒しなければ。早くしなければ。なぜかわからないが強くそう思った。

 床を拭くのは後にして、消毒液をこれでもかというぐらいに足に掛け絆創膏を貼った。

 上手く貼れない。手が震えてしまう。

 もう一度、震えながらスマホで110と119を回したが結果は先ほどとまったく同じだ。

 依然としてドアは断続的に叩かれていた。外に逃げようにもドアの向こうにはあの彼女がいる。奥にいた最初の叩く男も戻ってきているだろう。どうしよう。どうしたらいいんだろう。ドアと正反対の位置にある窓を見た。

 ――そうだ、ベランダだ。あそこから逃げればいい。

 急いでベランダに出ようと窓を開けた。その瞬間、凛子は驚愕する。絶望感と言う言葉がピタリと合う状況だった。

 窓を閉めていたので気付かなかったが救急車、消防車、パトカーのサイレンが無数に鳴り響いている。遠くで男女の悲鳴と乾いた『パン、パン』と言う音も聞こえる。風に乗ってキナ臭い匂いも感じる。

 気が狂いそうになりながらベランダに出て下を覗き込んでみる。とてもではないが高くて降りられそうにはない。ましてや飛び降りるなんて絶対に無理だと思った。

 凛子は下を眺めながら、そうかこれはきっと夢だなと思った。そうかそうだったのか、悪夢を見ているんだ。早く覚めてくれないかな。そう思っていた。それしかない。

 上から縄ばしごが降りてくる。さすが夢だ。ありえない。

「だ、大丈夫でした?」頭上から男の声がする。

 人の声を聞くと安心して嬉し涙がこみ上げてくるのがわかった。

 しかし、声の主の姿を見たとき凛子は嬉し涙に後悔した。

「なっ!なんでアンタなの!?」泣きじゃくりながら凛子は言った。

「え?はい?」エレベーター前で会った男は困った顔でこちらを見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ