黒波の騒めき
「おい、降りろ。これ玩具じゃねえから」
拳銃を突き付けながら若い男がそう言い放つ。
「わかった、銃を向けないでくれ」
銃口は家族連れの乗る白いセダン、その後部座席に向けられた。
「や、やめてくれっ!頼む!娘には手を出さないでくれ!」
運転席の男性が少女を慌てて庇おうとする。
「動くな、おっさん。いいから早く降りろ、何回も言わせるなよ」
「ぐぐっ……妻と子供を連れて……こんな状況の中、外で生きられないのはわかるだろう、頼むやめてくれないか」
「だからだよ。こんな状況下だから俺も欲しいんだよ。マイカー」
若い男は撃鉄を起こす。
「俺マジで撃つぞ?」
「あなた、降りましょう……」
助手席の女性が意を決したようにそう言うとドアを開けて車外へ出る。
「ママ!」
少女が声を上げると同時に後部座席のドアが開けられ、優しい母の声が外から聞こえた。
「大丈夫よ、おいで」
母親は手を差し出し少女は母の胸に飛び込んだ。外は感染者で溢れている。大丈夫なはずはない。
「ぐ……」
父親はハンドルを強く握り、悔しさと憤りを抑えていた。
「おっさん、早くどけ。出ろよ、ほら早く」
男が銃口を運転席の父親に移して急かす。
納得も理解も出来ないがここは従うしかない。思い切りドアを開け放って父親は反対側の妻子の元へ走った。
「撃たれなかっただけ感謝するんだな」
水村はそう言うと奪い取った白いセダンのアクセルを吹かした。
――大きな長谷川を懸命に支えながら車へ向かう雪乃。先ほど自分の黒いワンピースの袖を破り肩の止血はした。だが少しでも出血を抑える為には彼の脈拍を上げたくない。ここはゆっくりと慎重に急ぐ。
「ぐっ……」
「痛む?頑張って長谷川ちゃん」
「いえ、申し訳が……雪乃さん、前!」
移動する事に制御が掛かってしまっている雪乃と長谷川の前方に、感染者が篭った唸り声をあげて歩み寄って来る。
「僕がっ!」
神田が鉄パイプを構え走り込んで振るう。しかしその振りは空を切りブンと鳴った後、アスファルトに当たりカツンと金属音が聞こえた。
「……っ!」
雪乃は口を閉じるのを忘れてしまっていた。長谷川も同様だった。
「肩をパイプで突きなさい。背中が見えたら思い切り突き飛ばして……ぐっ……」
長谷川がアドバイスをするが傷が痛むのか話が途切れる。
「長谷川ちゃん、少しだけ手を離すわよ……いい?」
「もちろん。でも気を付けて」
「うん。ごめん、ちょっと待ってて」
雪乃は神田の手から鉄パイプを取ると素早く感染者の背後に回り、渾身の力を込めて後頭部辺りを目掛けてパイプを振るった。
倒れ込む感染者を見て神田が何か言おうとするが、すぐさま雪乃が鉄パイプを返しに来たので受け取るだけで何も言わなかった。
「大丈夫?長谷川ちゃん」
雪乃は長谷川に駆け寄って声を掛ける。
「私は大丈夫。しかしお見事ですな」
「まぐれよ、今のは」
「いや、本当にお見事!」
神田がやや大げさに言った。
「まったく……でも、まあ」
雪乃が優しい表情で神田に言う。
「あんた色々ダメだけど、今、私たちの為に自ら動いてくれた。ありがとうね」
神田は照れたように頭を掻きながら言った。
「僕こそありがとう。助かったよ」
「さあ、急ぎましょ。こっちよね?長谷川ちゃん」
「そう、あの奥に見えるキャンピングカー」
長谷川が指を差す先に大きな装甲車の様な車が停まっていた。
「うっわ。すっごいわね……ここから見てもわかる」
「僕のはそこだよ、あのNSX」
神田が誰にでもなく言った。
「その斜め前があたしの」
雪乃が青いWRXを見ながら言う。
「そうだ……タッチアップしないとな」
「こんな状況でよくその思考に辿り着くね、早乙女さん」
「なによ、悪い?」
負傷している長谷川が二人のやり取りを聞いて少し微笑む。
この危機的状況を払拭しようという雪乃の優しい気持ちが伝わってくる。
「ぐっ……」
長谷川の笑顔が痛みで曇った。
「長谷川ちゃん、大丈夫?無理に笑うからよ」
「無理にではないですよ、雪乃さん。あ、そうそうさっき言っていた犬に噛まれたとか何とか……」
――その時だった。
危機的状況は絶望的状況に変わる。
大勢の者が集まり歩いている独特の騒めく気配を三人は感じた。
地面を不規則に擦る足音、微かな呻き声。ひとつひとつは小さいそれが無数に集まり大きな黒い波になっていた。
「あれ見てっ!」
神田が興奮して叫ぶ。
感染者の大群が夜明け直前の薄明るい駐車場に続々と押し寄せて来るのがハッキリと見て取れた。
「やっばい」
「何であんなにいるのよ」
「急ごう、緋色さん達が危ない」
「服装を見るに……近くの病院の患者っぽいね、奴ら」
「ねえ、ちょとあんた。先に車で緋色ちゃん達、助けに行って!」
「えぇっ!?僕が!?」
「お願い。ここはもう大丈夫、私ひとりで事が足りるわ。向こうの方があの大群に近い。緋色ちゃん怪我してるしお爺さんとあの子がいる。」
「雪乃さん、私を置いて助けに行って下さい。大丈夫、一人で車まで行ける」
自分がお荷物になっているのはわかっている。このままでは申し訳が立たない。
「長谷川ちゃんはだめ。まだ止血してないわ。無理に動いて太い血管でも破れたら助からない」
雪乃はピシャリと長谷川の申し出を却下した。誰も犠牲者を出す事無くこの場を乗り切るにはこれが最善だと思う。これしかない。
神田が眼鏡を指で押し上げて言った。
「うん。僕が行ってくる」
「これ使って」
雪乃はWRXのスマートキーを投げた。神田は右手でそれを掴もうとするが、受け取れずキーはカチャリと地面に落ちる。
「あっ……」
「せめてそこは格好良く取らないと。まったく」
「だって急に投げるんだもの、早乙女さん」
雪乃が続ける。
「あんたのNSXじゃいざという時、二人しか乗れないでしょう」
「うん。確かにそうだね、わかった。使わせてもらうよ」
「お願い。凛ちゃんを助けてあげて」
神田は再度、眼鏡を指で押し上げるとすぐさま駆け出した。




