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パンデミックは秋風に  作者: 千弘
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如月 凛子

 栗色の髪を無造作に束ねた女性が立ち止まる。

「うんしょ」

 ぴょんと軽く跳ね、ずり落ちそうになった肩のバッグを直し手に持っていた白いニット帽をしまう。

 右手に紙袋持ち、左手に買い物袋。肩にはトートバッグを掛けている。

「あぁ……おっもい……」


 鎌倉市雪ノ下。如月凛子はここに住んで3年になる。

 5階建てでレンガ風造りの落ち着いた感じのマンション。

 広めのベランダにはガーデニングがぽつぽつと並び、その造りから世帯向けだとわかる。

「1472……っと」

凛子は入り口でセキュリティー番号を入れた。両手が塞がっているので一苦労だ。

「重いよ……」


 エントランスではエレベーターのボタンを肘で押した。

 喫茶店での柚を思い出して少し強く押したかもしれない。

「四日ぶりの我が家か」


 一台待機していたらしく『キンコン』と音を立てすぐに開く。『4』と『閉』のボタンを押した。

 扉が閉まるのを見つめながら呟いた。

「……嫌になるな」

 パネルは順に1…2…3と灯っていく。四階で停まり『ポ-ン』と音がして扉が開いた。


 重い足取りを一歩進め、視界を前に向けたその時。


 べったりと張り付いた髪、油ぎった黒縁メガネの男が目に飛び込んで来た。

 突如現れたリュックを背負った小太りな男性に驚いて思わず声が出てしまう。


 目をぱちくりしている凛子を見て、男はククっと笑ったように見えた。見覚えはないが、同じフロアの人かもしれないと思うと邪険には出来ない。

 一応会釈して小走りにエレベーターを出た。正直、今すぐこの場を離れたくて仕方なかった。


「あ、あの……」

 男からと思われる声が後ろから聞こえたが足は止まらない。こういう時は立ち止まってはいけない。

 エレベーターのドアが閉まった音がした。

 凛子は振り返ってみたが既に男の姿はそこにはなかった。ほっとした瞬間に今まで息を止めていた事に気付く。なんだか少し自分に笑えた。


 廊下突き当たりの部屋の前で苦労しながら何とか鍵を挿しドアを開ける。

「ただいまー」

 玄関で荷物を置き、やっと重労働から開放された。


「空気入れ替えなきゃ」

 誰もいない部屋に凛子の声だけが響く。


 カーテンと窓を開けてベランダに出る。湘南新宿ラインの警笛が聞こえた。

 深呼吸しながら空を見上げてみる。今のはタメ息だったかもしれない。

 空は雲が多く夕日は見えない。踵を返し室内を見渡しながら、今見た空と同じような表情で呟く。


「……ひとりは嫌いだな」

 それはとても悲しそうな声だった。


 部屋の空気を入れ換えながら凛子はバスタブにお湯を張る。給湯パネルの時計を見ると16時45分。ちょうど17時にはお湯が溜まるだろう。この15分で片付けたい事があった。職場に連絡を入れておきたいのだ。

 スマホをバッグから取り出して通話履歴を探す。 


 『〇〇スポーツジム』


 凛子はここでヨガのインストラクターをしている。

 入院するときに携帯、スマホは病室内持ち込み禁止と言われ取り上げられ預かられてしまった。

 その為、入院初日以降あまり職場に連絡が出来ていない。退院した報告と職場復帰の日にちを相談したい。

 電話を掛けようと画面を見た時、丁度メールを受信した。職場の後輩からだった。

 SNS等を一切やらない凛子には電話かメールしかない。


 如月さん、今日退院でしたよね。

 おめでとうございまーす。

 この前は新型インフルをうつされて

 今回は合併症?になってしまわれるなんて(泣)

 早く元気に復活してくださいね。

 男性会員さんが如月さんが最近いないって苦情言ってきましたよ。

 私でわ嫌だそうです(号泣)

 でわお帰りを皆で待ってますね。


 P,S, きちんと薬は飲んでくださいね!


  

 凛子は感謝の気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。お詫びとお礼を返信し、そのまま職場に電話した。

 勤怠を管理するチーフとマネージャーに謝り来週の火曜日に一度顔を出しますと言った後、皆さんによろしくお伝えくださいと電話を切った。


 白い棚の上の時計を見た。17時12分。

 自動でお湯が止まって良かったとつくづく思った。


 栗色の髪を下ろし衣服を脱ぎ、籠に放り込むと明日は絶対洗濯しなければと誓う。

 凛子は一糸纏わぬ姿で、脱衣所の鏡にその姿を映し込んだ。左脇腹と内腿に疱疹の痕があり触ると少し痛む。

 さらに覗き込んでみた。

「うわ……滲みそうだなぁ」

 この予感は絶対に的中すると思う。ハズレる事はないと思う。

 案の定、シャワーを当てた瞬間、彼女の眉間には深いシワが刻まれていた。


 胸元まである長い髪をドライヤーで乾かしながら夕飯を食べるかこのまま休むか悩んだ。薬を飲まなければならない事を考えると軽めに食事しておくのがいい。


 洗面所で疱疹部に軟膏を塗り、手を洗ってキッチンに向った。

 その時、スマートフォンにメールが来た。画面に名前が出た。


「柚か…」


 冷蔵庫を開けて中を覗くと迷うことなく缶入りのアルコールを手に取る。


「お酒に逃げてもいいよね…」

 プシュとプルタブを開けて一口飲んだ。


 ソファーに座り、止めたはずの煙草に火をつける。煙を深く吸い込みゆっくりと大きく吐き出した。

 柚からメールは今夜最終で北海道に行ってきますとある。

 彼氏のご両親と会うらしい。


「よくもこんなメールを送れる……」


 人の男を奪っておいて……


 凛子はベッドの脇にミネラルウォーターと薬を置きスマホを充電器に差し込んでノートPCを開いた。

 寝る前に少しネットサーフィンを楽しむのが日課だ。PCが立ち上がるまでテレビをつける。これも凛子の日課だった。


 凛子はここ最近、寂しさを紛らわすためにTVをつけたまま眠ることが多い。そのためボリュームはかなり小さい音がデフォルトになっている。画面ではアメリカ大統領が映っているがつまらないので回す。

 どのチャンネルも似たような画面なのでケーブルTVに変えた。いくつか変えるとバラエティー番組のようなものを見つけたのでリモコンを置いた。


 ネットで秋冬物の服を見ながらトリアゾラムとバラシクロビルを飲んだ。トリアゾラムは睡眠薬。バラシクロビルは効ウィルス剤。

 自分が飲む薬を調べるのが好きで毎回処方された薬は調べている。これもなんとなくの凛子の日課だった。


 親友と思っていた人間に自分の交際相手を盗られてしまったら睡眠薬や精神安定剤、改善薬を処方されても仕方ない。

 彼がよく淹れていくれたカフェオレはミルクが多くそして甘かった。それが大好きで珈琲があまり得意ではない凛子の唯一の珈琲だった。


 私と別れてから柚と付き合った。

 三人の間ではそういう事になっている。いや二人か。


 目を開いていられなくなってきたのでPCを閉じ、電気を消す。時計の針は上のほうで重なっている気がする。

 凛子はテレビを消すかこのままにするか迷っているうちに眠りについてしまった。



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