漆黒の絶望
放送を観ていた人々は動揺し困惑し始めていた。今の話では感染者に噛まれたら伝染ると言っていた。下の階には大勢の噛まれた負傷者がいる事は周知の事実であり、言わずもがなその先は見えている。
「下の階、絶対ヤバいだろ」
「もうおしまいだ、皆死ぬんだ」
「噛まれた奴も狂っちまうんだろ」
「どうするんだ。下の奴らが襲いにくるかもしれないぞ」
「喰い殺されるなんて御免よ」
皆、口々に不安感や恐怖感を露にしてざわめき始めている。
「俺、下にいる皆にも教えてくるよ!無傷の人も付き添いでいたはずだ」正義感や使命感からなのだろう。階段へ向かって銀縁の眼鏡を掛けた男性が走り出した。
普段から学校という集団を見てきている雪乃は、このまま彼が騒ぎ立てれば下のフロアはパニックになると直感する。彼女にはそれがわかる。
「ちょっとちょっと!待ちなさいよ」階段へ走っていく男性を追って雪乃は駆け出した。
吊り下げ式のモニター内では緊急特別番組が流れ、司会者と各分野のコメンテーターとのやり取りが続いている。
『佐伯さん、お伺いします。まず感染したどうなるのですか』
『えぇ、そうですね。まず、潜伏期間については様々な情報が飛び交っていて、正確な時間というものはわかっていません。数時間から一日という話を多く聞いてはいますが正式な発表もされてはいないのでこれは未確認な情報です。あとですね、発症前には寒気や発熱があったとも言われていますが正確な情報がなく、この場で言い切る事が出来ないのが実情です』
『この様な事態の時に、国民の混乱を招く様な事は明言し兼ねるのはわかります。生物学的にはどうでしょう、矢萩さん。お伺いします、感染した人というのは巷で噂になっている様な死者が生き返っている状態なのでしょうか』
『これは非常に難しい議論になっています。現在CDCで調査研究していると言われていますが、何を持って死とするかが大きく変わってしまう可能性があります。今までの医学の常識が通用しない状況になり憲法まで影響を与える事になります』
『仮に、もし仮にですが死体が動くという事は常識では考えられないのですが、あり得ることなのでしょうか』
『現時点では、心臓、脳活動、呼吸の停止をもって死亡が診断されています。えー、死亡するとですね、10分以内に血中の二酸化炭素が増加し始めます。すると細胞が破裂して、周りの組織を消化する酵素を出し30分もすると血液は重力に倣って低い部位に集まります。そしてカルシウムイオンが細胞の中に入り事で筋肉が収縮する。これが死後硬直と呼ばれる状態です。この状態で動くという事は現在の医学や生物学では考えにくい。……ですが無いと断定はできません。最新の研究で、多くの遺伝子が生命が失われたあとも最大48時間は機能し、中には死後新たに活性化する遺伝子が存在することが判明しています。この発見は、安全な臓器移植の実現や死亡時刻を数分の誤差で特定できるような技術につながるかもしれないと言われています。まだ生命そのものについて我々人間は未知の部分が多すぎます』
『非常に興味深いお話です、あり得なくはないという見解ですね。はい、ありがとうございました。では久瀬さんにお聞きしますが、喰屍鬼とも言われ感染者差別も問題になっていますが、どうして彼らは人を襲うのでしょう』
『はい。皆さん、プリオンという感染性のたんぱく質を覚えていますでしょうか』
『狂牛病やヤコブ病の原因と言われるものですよね。脳や脊髄に多く……』
『ええ、そうです。その病いうのは共食いの風習がある地域、50年代のえぇ、あえて名は伏せますが某諸国の原住民達に広まったとされています。今回のこの伝染病がプリオンが関係しているとすれば共食い、すなわち食人の欲求が湧きあがってもおかしくありません。もしウィルスだとしてもウィルス自身が拡大を望みます。繁栄するために伝染させ増殖したいのです』
『久瀬さん、ありがとうございます。ここで訂正があります。先ほどのコメントの中で不適切な……』
恐怖と不安に駆られたカフェの一団は尚も話をエスカレートさせてしまう。
危惧するあまり推測が更に恐怖心を高め、自分達を追い込んでいく。それは一方的で利己的な思考を生み、慈悲や尊厳のない方向に動き出していた。
「怪我人は全員縛り上げたほうがいい」
「いや、いっそ殺してしまえばいいんだ」
「外に放り出せよ、そんな危ない怪我人なんか全員出てけ!」
「冗談じゃねえ、そんなのと一緒にいられるか!俺は勝手に逃げるぞ」
「そうよ!喰い殺されるなんて御免よ!私達も逃げるわ」
目を瞑り黙っていた長谷川は大きく息を吸うとモニターの真下で人一倍、声を張り上げた。
「落ち着けぃ!!」
まさに鶴の一声であった。皆ぴたりと静まり返る。
「こういう時だからこそ!皆で団結しなければならないんじゃないのか!」
そして落ち着いた声で静かに言った。
「怖いのは皆一緒だ。協力しよう。皆で協力して生き残ろう。皆がバラバラな事をしていては助かるものも助からない。今は皆で協力しよう」
その場の空気が変わりモノトーンのカフェが落ち着きを取り戻した時、店から出て行くボブカットの女性の後ろ姿が長谷川の視界に入った。青いロングカーディガンの裾がひらりひらりと動いているのが何処か切な気で不思議だった。
一階に下りた男は辺り構わず叫ぶつもりらしい。雪乃は全速力で男を追った。
「皆!噛まれたら……」
男がそこまで叫んだ時、追いついた雪乃は腕を取り眼鏡の男を制した。
「はぁ、はぁ、やめなさいよ!」
「なんだ、お前!?黙ってろ、関係ないだろうがっ!!」
彼女の腕を乱暴に振り払い眼鏡の男は怒鳴り散らす。
「皆がパニックになるのが分からないの!?」
「うるせえ!本当の事言って何が悪い」
「あんたもわかんない男ねーっ!」
「引っ込んでろ!クソ女」
ドン!と肩を思い切り押されて雪乃はよろける。
「何すんのよっ!銀縁っ!」
警備員が二人の騒ぎを聞いて飛んで来た。
「感染す……なにすん……もご」わめき散らす眼鏡の男は口を押さえられ警備員に片羽交い絞めにされる。
口を手で押さえつけられたまま、床に倒され肘で首に力を徐々に加えながら警備員は言った。
「お静かに願えませんか?」
尚も足をバタつかせる男に聞き取れないぐらいの小声で何か言う。
「……」
警備員が何を言ったのかは聞き取れなかったが男の腕は逆関節に捻り上げられ、首に置いてある肘にも力が加わったようだった。騒いだ男が静かになると警備員は手を離した。
「他のお客様の迷惑になることはお止めください」
笑顔でそう言うと男を開放する。逃げるように立ち去る男を鋭く睨むと雪乃を見て嘘のように微笑んだ。
「ご迷惑おかけしました」
警備員は何事もなかったかのように元の配置に戻って行く。
雪乃は呆気に取られてしまった。手際良く強い警備員だとは先の一件で承知していたがここまでだとは思わなかった。まさに赤子の手を捻るというやつだ。最近の警備会社は余程訓練をしているのだろうか。
この場は治まったし上に戻るかなと思ったその時、長谷川が下の階に降りて来た。
「雪乃さん、凛子さんを見ませんでしたか?上での混乱の時にフラフラと出て行ったのは見えたのですが」
「え。困ったわね、それは探さないと。心配だわ、最悪の事態を想定しないと……」
「はて?なにかあったのですか?」
「……。長谷川ちゃん、ちょっと心して聞いて。あの子ね、凛子ちゃん。たぶん感染してるのよ。たぶんよ、確定しているわけではないわ」
「なんと……」思いもよらぬ重い話に長谷川は言葉が詰まる。
「ちなみに緋色ちゃんにこの事を相談しようと思ってた矢先にさっきの騒ぎだったから、彼はこの事を知らないわ」
雪乃は長谷川の横に並び話を続ける。
「だから知っているのは緋色ちゃん以外のあたし達三人。本人を含めてね」
長谷川は言葉が見つからず黙ったまま頷いた。




