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パンデミックは秋風に  作者: 千弘
20/50

憤り

 雪乃が雨宮と丁度入れ替る形で広大な敷地内の西側エリア一階フロアへやって来た。

 フロアに入るなり美しいその顔が歪む。眉間に皺を寄せ目を細めて口元を袖で覆った。噎せ返る血の匂い。床の血痕を見たせいかもしれない。錯覚なのか事実なのかは分からないが、雪乃には血の匂いがする気がした。

「これは気のせいね、きっと」

 雪乃はそう自分に言い聞かせると負傷者が集まる一角へ向かう。ここで救護班が手当をしている。

 少しでも人手があった方がいいと思い彼女は志願するつもりだった。

 ――傷を負った人々は皆苦しんでいた。

 噛み傷でさえ痛みは相当なものであろう。中には肉を食いちぎられてしまっている人までもがいた。

 痛みで呻く者。やり場のない怒りを露わにする者。すすり泣く者とそれを慰めている者。全員その衣服には血がこびり付きそれが余計に皆の恐怖と不安を煽っていた。

「多少、医学の知識あります。手伝いに参りました」

 雪乃は長く美しい髪を後ろ手に束ねながら救護班の一人に声を掛けた。手当を待つ負傷者からすれば正に女神に見えたであろう。

 そんな雪乃に気づいた警備員の一人がすぐに飛んでくる。その胸の札には警備主任と記してあった。

「申し出感謝致します。しかし……」

 男は小声でこう続けた。

「二次感染の可能性があるのでお引取り下さい」

 雪乃は黙ったまま彼を見つめ、そして少し落胆したように口を開いた。

「わかりました……でも、救助とか救援は呼んであるの?このままでは手遅れになってしまう人もいるわ」

「さあ、それは私には判り兼ねます」

 そう言うと男は身体で雪乃を遮り後方に腕を差し出した。

「申し訳ありませんがここはお引取りを」

 雪乃は渋々引き返すしかなかった。悔しいがこれは従うしかない。ここで押し問答をしても意味がないどころか迷惑を掛けて怪我人の手当を阻害しまう事になる。


 ――雨宮は止まったエスカレーターを降り西側一階フロアへ向かっていた。

 雪乃を探しながらこのまま南側フロアまで歩いてみてもいい。

「お…。南側に行くのはまた後でだな」

 雪乃を探そうとした矢先、西側中央の踊り場で呆気なく彼女を見つけてしまう。心なしか肩を落として歩いている様に見える。

「さっきはどうも」雨宮は気さくに声を掛けた。

「あら。色男」雪乃も気さくに返す。

「はは。ありがとう。雪乃さんだよね」

「そうよ、緋色ちゃん。……しっかし近くで見るとあんた本当にハンサムね」

 まじまじと見つめる雪乃に雨宮はたじろいでしまっている。この女性も近くで見ると相当の美人だと雨宮は思う。

「美人に外見を褒められるのは悪い気がしないな」

「うふふ。あ、ねえ。まだ凛ちゃんあっちにいた?」

「いるよ、着替え真っ最中。ホラー映画ならば襲われるパターンだ」

「あるある、お色気シーンとかはフラグよね」

「まぁ、長谷川さんもいるから大丈夫だろうけどさ」

「凛ちゃんも強いわよ、空手」

 雪乃の雨宮に対する印象は話し易い軽い男だった。かと言って決して悪い印象ではない。むしろ気が合う感じで好印象だ。

「ねえ、緋色ちゃん。もし良かったら南側行こうよ」

「それはデートの誘いかな?」

 雨宮は冗談を言い雪乃も冗談で返す。

「ええ。そうよ」

 雨宮がふざけて出した肘を雪乃は小脇に抱え腕を組む。

 少し真顔になり雨宮は言った。

「俺も行くつもりだったんだ」

「なんで?」

「現状を知っておきたいと言うか自分の目で見ておきたい」

「私は煙草と飲み物を。さあ、デートいこう!」

 雪乃は明るく元気にそう言う。先ほどの遣る瀬無い思いを払拭するように。

 彼女が無理をして明るくしている事を雨宮は気づかない振りをした。


 各エスカレーターが停まっているので上りも下りもお構いなしに階段として使える。

 不便ではあるが、ある意味便利だった。これだと目的地まで回り込む必要がない。

 まるで恋人同士の様に腕を組んで南側フロアにやってきた二人。こちらもそれほどの被害はないようだが所々に血痕はあった。

 停まったエスカレーターの横にベンチがあり、そこに女性が座っていた。

「あら、あの子。怪我してる」

 そう言うと雪乃は雨宮の腕を離し歩き出す。デートは残念ながらここで終わりのようだ。雪乃が近寄るとその女性は力なく視線を上げた。

 背中まである栗毛の髪は乱れてはいるがそれは美しい女性だった。破れて血の付いたカーディガンが床に落ちていて、両腕には痛々しく包帯が巻かれている。

「大丈夫?」

 雪乃が声を掛けるとその女性は力なく頷いた。

「随分と寒そうだな……」

 小刻みに震える肩を見て雨宮は言う。

 このフロアでも彼女から数メートル離れた場所で応急処置が行われていた。彼女はここで手当てを受けたのだろう。

「これを着ているといい」

 そう言って雨宮は自分の白いコートを彼女の肩にそっと掛ける。

「ありがとう……ございます……」

 消えそうな声で彼女が言う。

 居ても立っても居られない思いの雨宮は雪乃に言った。

「手伝おうぜ、応急処置」

 しかし小声で雪乃はそれを否定する。

「無駄よ、さっき向こうでも断られたの。やらせてくれないわ」

「ちっ……感染の防止か」

「ええ。そうよ」

 二人は遣り切れない思いとやり場のない憤りを必死に押し殺している。

「行こう」

「ああ、行こう」

 どうする事も出来ない悔しさと怒りを互いに表さないように努めているようだった。


 二人は黙ったまま並んで歩いている。中央エントランス広場に差し掛かろうとした時に何やら声が聞こえた。

「おら、どけよ!何処に座ってんだ邪魔くせえ」

 年老いた女性が冷たい床にダンボールを敷き、その上に座っている。それが邪魔だと若い男が喚き散らしている様だった。そしてあろう事か足で小突いた様に見えた。

「向こう行けよ、ババア」

 そう言った男の襟首を後ろから掴み引き摺りながら雨宮が言う。

「どうかしたか」

 雪乃は気が付いた。紛れもなくこいつだ。あの子供を放り投げて自分が助かろうとした男。

「痛てて……っなんだ離せてめえ!」

 雨宮は彼を後ろに引き倒すと言った。

「ほら、離したぜ」

 尻もちを突いた格好でその男は激怒する。

「なんだよ、てめえはよ!」

「なんだよじゃないわよっ!!あんたこそ何処でもそんな事やってんの!!」

 雪乃はここで会ったが百年目とばかりの勢いで彼以上に怒っている様だった。

「あんたもう許さないわよっ!そういう事ばっかりして何が楽しいのよっ!」

 男は立ち上がると雪乃を睨みつけ近寄りながら言う。

「お前こそ関係ねえだろ!、調子に乗りやがってクソ女!」

 彼の振り上げた手をシャリンと軽い金属音と共に雨宮が掴む。

「小僧。どんな理由があろうと女に手を上げたらダメだぜ。覚えとけ」

 雨宮は腕を捻りながらそう言うとブーツの底で彼の尻を蹴り飛ばした。

「何なんだよ!てめえらはよ!」

 敵わない相手と悟った男の表情は次第に曇っていく。

 その時、警備員が騒ぎを聞いて駆けつけて来た。

「なにがあったんですか!」

 彼はその隙に走り去る。この素早さには雨宮も驚いた。何という処世術だろう。

 雪乃は絡まれ小突かれていた老婆を労わっていた。

「おばあちゃん大丈夫?」

 彼女は何度もお礼をされてその都度とんでもないですと首を横に振っている。

 雨宮は警備員にあの老婆にどこか座れる場所を探してくれと頼んだ。

 年老いた女性が警備員に抱えられ近くのベンチに連れられて行くのを見届けると二人はその場を後にする。

「あいつ……さっきも弱い者を、子供を盾にして逃げようとしたのよ」

 雪乃は静かに怒っている。

「そんでまた弱い者虐めしてる。あたし絶対許さない」

「ああ。許さないでいいな、そんなの」

 西側エリアへ帰り道も女神の怒りは続いていた。

「まあまあ、せっかくのデートなんだろ?ほら」

 そう言うと雨宮は再度肘を出して腕組みを催促する。

「そうね」

 女神は笑顔でその腕を胸に抱きしめる。

「おっぱい当たってる」

「うん。当てたの」

 二人に笑顔が戻っていた。

「あ。ねえ、待って」

 雪乃がサービスカウンターからメンソール煙草を拝借する。

「どうせならカートンで貰おうぜ」

 雨宮はそう言って紙幣一枚をカウンターに置くと黄緑の煙草をカートンで手に取る。

「律儀ねえ、緋色ちゃん」


 元の西側2階フロアに戻ると凛子と長谷川が出迎えてくれた。

「おかえりーっ!」

「おかえりなさい」

 凛子は白いリネンシャツにジーンズ、足元はコンバースという服装に変わっていた。シンプルだが爽やかで見ているほうも心地良い。手には発色の鮮やかな青いカーディガンを持っている。

「見事に着替えたな。似合うよ」

 雨宮に続いて雪乃が声を上げる。

「あーっ!凛ちゃん可愛い!あたしも着替えたーいっ!」

 煙草を凛子に手渡すと一目散に服選びに走って行く雪乃。

「あ、お礼を言う暇もない……」

 凛子は微笑みながら言った。

「ははは。愉快なお人だ」

「ねーっ!凛ちゃーん!!一緒に選んでー!!」

 遠くから雪乃が凛子を呼んでいる。

「はーい!今行くねーっ!!」

 凛子は笑顔で走って行った。


 皆楽しそうに振舞っている。けれど世界はゆっくりと壊れ始めているような気がしていた。



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