雨宮 緋色
やや華奢な身体だが端整な顔立ちの男が歩を進めている。
黒いシングルのライダースに黒いジーンズ、黒いブーツ。全身黒尽くめにシルバーアクセサリー。更にその上から白い薄手のコートを羽織りその男はモールに入って来た。
「早いとこ撤収しないとなぁ」男性にしてはやや長めの髪を揺らして雨宮緋色は言った。
「急がないと……」
湘南最大のショッピングモールであるここは様々な店がある。しかし映画で観るような何でも揃っているわけではない。基本的にはレストランや服ばかりと言っていいだろう。いわゆるデートスポット的な場所だ。
まずは食料の確保を最優先とばかりに、雨宮は敷地内南西のスーパーに行くはずであった。だが慌てるあまりエスカレーター乗り場を間違えてしまう。
「あら。逆かよ」
ならば仕方ない。このフロアで買えるものを先に買ってしまったほうが最善であろうと頭を切り替える。
「いざという時、武器になりそうな物は……四階だろうなぁ、やっぱ」
武器の様な物を調達するにはこのモールではなく、数キロ先のホームセンターのほうが都合がいい。雨宮はここに来てしまった事を少し後悔した。
――恐らく襲ってきている人々、あの凶暴化している人々は死んでいるわけではないと雨宮は思っていた。生きている人間が病気か何かで理性を失い暴徒となっているんだろう。
だが黒焦げになっても動いていた動画も観た。あれはどういう事だろう。死んだ者が動くのか、致命傷を負っても痛みを感じないだけなのか。
身体を動かすのは脳だ。脳が活動していれば動ける。しかし心臓が止まれば脳に血液が行かなくなり脳は死んでしまう。やはり生きているとしか思えない。もしそうだとするならば武器として刃物は使いたくなかった。
生きている人間を刺す切る即ち殺すという選択肢は、余程の事がない限り自分にはない。感染の恐れがあるので血や体液が飛び散って自分に掛かってしまう事も避けたい。そんな理由で刃物という選択肢は消えた。
長さがあって硬いもの……何かないか。暫し考えこれしかないという物が雨宮の脳裏に浮かぶ。
「そうだ!あれだ!」
どう考えて現状であれが最良の武器だ。あれしかない。さて売り場を探そうかと店舗案内表示板を探す。
――その時だった。
入口の自動ドアから、ふらふらと異様な歩き方の女性が入って来るのが見えた。
「あ…まずい」
20代と思しきその女性。以前は美人だったと思わせる顔立ち。
首を傾げ、手を前に伸ばしフラフラとおぼつかない足取りをしている。その理由は足首が有らぬ方向に曲がっているからだと見て取れた。
頬に怪我してようで血が出てている。その表情は虚ろそのものだった。
しかし標的、獲物が定まった途端、表情は獣のそれに変わる。唸るような声を出し、近くにいた女性客に飛びついた。
「きゃ、きゃあ!やめ!きゃ、痛い」その女はひとりの少女の腕に噛み付く。
「お、おい!」隣にいた少女の父と思われる男性は女を引き剥がしその娘をかばった。
「なにするんだ!きさま!」父親は激怒し女を倒し、更に馬乗りになって殴りかかっていた。
その後ろでは、もう一人。血にまみれた異様な男が父親の背後に迫る。興奮した父は娘を守るべく果敢に奮闘している。だがそれが仇となり背後に迫る危機に気づく事が出来なかった。
「……ったくもう」一部始終を見ていた雨宮は呟く。
ここから全力で走って間に合うかどうかの距離だった。しかし今は行くしかない。目の前で起きる不幸な出来事は可能な限り食い止めたい。
言葉を発する前に全力で走っていた。間に合え!と心の中で強く念じた。
背後から父親の首筋に歯を剥き出した口が触れる瞬間、雨宮のブーツの靴底が血まみれ男の顔に当たる。もんどり打って男は転がり棚にぶつかった。自分の後ろで何が起こったのか分からない父親は驚いた表情で雨宮を見ていた。
入り口からは尚も数人の異様な暴徒が次々と入って来ている。
「早く逃げたほうがいい」雨宮は少女の父親に促した。
「ああ、分かった」男性は手を挙げて返事をする。その手首には女との乱闘で負ったような噛み傷が既に付いている。
雨宮はやり切れない思いのまま、少女と父親が逃げて行くのをただ見つめることしか出来なかった。
「くそ……」自分の推測が間違っていればいいと雨宮は思う。
暴徒数人が入って来ている入り口に背を向け、大きな商品棚の角を曲がる。
ここで雨宮は痛恨の失敗を犯した。こちらからも暴徒が歩み寄って来ている。通路で前後に挟まれてしまった事に気付く。
前に三人、後ろに二人。
走り抜けるなら後ろだろう。それともいっそ彼らを押し倒して転ばせたほうがいいかと思いながら商品棚に手を掛けた。その時、雨宮は閃いた。
「いいのあるじゃん」微笑みながら言う。
雨宮は大きな商品棚をおもむろに登る。2メートル以上ある為に彼らには届かないはずだ。幸いこの者達は登ろうとはしてこない。登って来たら蹴り落とすつもりだったが必要なかったようだ。
「ふぅ……危なかったなぁ、今」手でパンパンと埃を払いながら一息ついた。
「がぁあ……ぐぅごぅ……」棚の下では腕を伸ばした暴徒が呻き声をあげている。
だがこれで彼らは登るという行動はしない事がわかった。登れないのか。いや個体差があるかもしれない……。
「ひっどい綿ぼこり、…ごほっ」雨宮は袖で口元を押さえる。少し丈の長い白いコートの裾は見事に埃まみれだ。
――その時。男の悲鳴が聞こえた。
商品棚の最上部からは見通しが良く、すぐに声の主が分かる。白いワイシャツ姿の男が血で真っ赤になりながら二人の暴徒に押さえ込まれている。
その近くに他の男女二人の姿も見えた。その男女は後ろから近づく暴徒に気付いてはいない。
またか、と思いつつも今度こそ助けたいと強く思った。
「きゃあぁぁぁ!」
猟奇的な惨事を目の当たりにした女性からの悲鳴が聞こえ、その声に暴徒が釣られて歩み寄るのがわかった。
綿ぼこりを大量に裾につけたまま雨宮は棚の上を駆けだした。前かがみになり棚上の商品を蹴散らす様に器用に走っている。
大丈夫、間に合う。雨宮は自分に言い聞かせながら懸命に駆ける。腰に付けている銀細工のウォレットチェーンがシャンシャンと鳴っている。
雨宮がその男女まであと数メートルまで来た時には、女性の目の前まで暴徒が近づいていた。一緒にいる太った男はその女性をかばう事すらしていない。
「ちっ!」
舌打ちしながらタンッ!と勢い良く飛び降りそのまま女性の前の暴漢を蹴った。まさに飛び蹴りだった。
相手は吹き飛ぶ様に商品棚に叩きつけられ、陳列されていた商品が飛び辺り一面に散乱する。
雨宮が着地に成功し白いコートがひらりとなびく。
「大丈夫だったか?」
近くで見るその女性は儚げでとても美しい顔をしていた。雨宮がその女性に見惚れそうになりながらも声を掛けた時、棚の上からは舞い上げた綿ぼこりがフワフワと降ってきていた。
凛子は雨宮の問いかけに目を潤ませて嬉しそうに答える。
「は、はいっ!」




