表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼岸の彼方  作者: 八智
捨子花
7/7

(1.6)

 遠くから声が聞こえる。

あやふやな言葉の中で、ただ私の名前だけが聞き取れる。

繰り返されるごとに大きくなっていく。

「起きろ、おい、起きろ、玲華」

……起きろ?たしかにそう聞こえた。いや、それよりも聞き覚えのある声だ。

やけに威圧的な、苦手なーー。

「はっ」

飛び起きた目の前には赤みを帯びた空と、渋い顔をした冬姫の姿があった。

「やっと起きたか。一体どうしてこんな場所で昼寝をしていたんだ」

苛立ちと呆れた感情が露骨に入った声。

どうしてそんなに怒っているのだろうか。

「約束の時間を過ぎても来なかったから、どうしたものかと街中を探し回ったんだぞ。

それがこんな場所で……。何をしていたんだ、お前」

「えっと、その、あれーー思い出せないんだけど」

寝ぼけているからか、と自分でも疑ったがそれにしては綺麗さっぱり抜け落ちている。

この公園に立ち寄ったことは覚えているが、その後からはぼんやりとしていて何もわからない。

だが今の冬姫にとっては心底どうでもいいことらしい。

「はぁ、まったく。分かったから、さっさと立て。いくぞ」

急かされるままに立ち上がる。

堅いベンチの上で寝ていたからだろうか、腰と頭が痛い。

本当にどうしてここで寝ていたのか、さっぱり分からない。

ここに来るまでと、彼女とあるマンションの前で待ち合わせをしていた事は覚えている。

が、それだけだ。

釈然としないまま、そそくさとあるきだす冬姫についていった。


 二分ほどでそのマンションに着いた。

オートロックは無く、中には誰でも入れるようになっている。

エレベーターに乗って上へと上がる。

ちょうど西側にある通路には、眩しい夕日が差し込んで、視界を朱く染めている。

工藤の部屋はその階の一番端にあった。

表札の『工藤』という文字を確認して、冬姫はインターホンを押す。

ピンポン、ピンポンと数回押すが、返事は一つもなかった。

無論『工藤さん』という呼び掛けにも答えはない。

冬姫が呼び出すことを諦め、ドアノブに手をかけようとしたその時、

後ろから私達に向けられたと思わしき声が聴こえる。

「あの、工藤さんのお知り合いの方、ですか?」

後ろにいたのはごく普通の女性だった。

「ええ、そうですが」

「やっぱり。工藤さん、最近外出してることが多くて。私もここ最近会ってないんです」

「そうなんですか。しかし、今日は予め会う約束をしていたんですがね。

まあ、こちらが遅れてしまった事もあるし、仕方がないが、また後日ーー」

「その、良かったら私の部屋で少し待ってみませんか。

工藤さん、約束をすっぽかすような人じゃないですし、隣だから、前を通れば分かるだろうし」

考えているのだろう、冬姫は間を置いて返事をした。

「貴女が良ければ、それでお願いします。失礼ですが、貴女のお名前は」

(マユズミ)です。どうぞ、上がってください」

黛は手提げかばんから鍵を取り出し、扉を開けた。

促されるままに私たちは黛の部屋に入り、

リビングに置かれたテーブルから椅子を引いて座る。

「大したものは無いんですけど、お茶でもどうですか」

殺風景な部屋、まるで空き部屋のようだ。

家電は殆ど無い。あるとしたら電子レンジぐらいだろうか。

生活感がまったく感じられない、という認識は冬姫も同じだったようだ。

「それにしても、質素な部屋ですね。

いや、変な意味ではなくて、私はあまり取捨選択の苦手な人間で、

ついつい部屋が物で溢れかえってしまって。こういった部屋には憧れますね」

少しわざとらしい、そんな言葉に黛は一瞬訝しむが、これといった反応はなかった。

「ここは仕事で使ってるんです。どうしても、細かい手作業をする時は、一人で集中したくて。

あんまり大したものじゃないけれど、編み物のお仕事をしてるんです」

「ああ、そういうことですか。すいません。失礼なことを言って」

「いえいえ。確かにこんな部屋に人が住んでるなんて思えませんよね」

彼女はお盆に載せた、お茶が入ったコップを私達の目の前に置きながら、申し訳なさそうにそう言った。

配り終えた黛は、私達の正面に座る。

コップを覗くとそこには緑色の液体が湯気を立てて循環していた。

あ、緑茶だ。苦いものが大の苦手な私にとって、緑茶なんて飲めたものじゃない。

だが、もてなされている手前、苦いからなんて子供っぽい理由だけで、

飲まないままでいるのもどうだろうか。

そんなことを考えあぐねていると、冬姫は突然黛に工藤のことについて尋ね始めていた。

「工藤さんと最後に会ったのはいつごろですか」

意外な質問に黛は驚いている。

「え、えっと、一ヶ月ぐらい前だった気がします。挨拶する程度なら、昨日も。

ーーどうしてそんなこと」

「確かに不躾な質問でした。

あまり詳細な理由は話せませんが、工藤さんの事について調べているんです」

「じゃあ、警察の方?」

「いえ、個人業です。カウセリングと言ったところですかね」

「……どうして。工藤さんに何かあったんですか」

「まだ分かりません。だから貴女に聞いているんです。

どうですか、些細な事で構いません、工藤さんに何か変わったことは」

「そんなことーー」

俯く黛。後ろめたいことがあるのだろうか。

「その、……彼女、お付き合いしていた人と、別れちゃって。

……捨てられたんです、妊娠してたのに。それで、精神的に不安定なって。

しかも、お腹の赤ちゃん、流産、しちゃって。

赤ちゃんは産むって、頑張って育てるって言ってた矢先のことだったから、

相当ショックだったんだと……。

でもここ最近は落ち着きを取り戻し始めて、外に出るようにもなったんです。

それでもまだ、赤ちゃんのことは気になってるみたいなんですけど。

……これで、いいですか」

「ええ、ありがとうございます。まさかそんなことがあったとは知りませんでした。

彼女とは何度か話し合いをしたんですが、確かにこれは自分の口からは言いづらい」


 気まずい雰囲気が場を支配する。

そしてそのまま、特に会話もなく時間は過ぎ、お茶は冷え切ってしまった。

時刻は七時を過ぎ、流石に外も暗くなりつつある。

これ以上は諦めよう、と言って冬姫は立ち上がる。

私はお茶を一気に流し込み、ごうちそうさまです、と言って立ち上がる。

先程から気に病んだような表情をしている黛は、心労からか立ち上がる事も辛そうだった。

そんな彼女を気にしてか、見送ろうとしていた黛を冬姫は制止した。

「今日はお世話になりました。もしかしたらまた後日、お話を伺いに来るかもしれません」

「工藤さんの事、お願いします。彼女に何かあったら……」

「安心してください。そうならないようにするのが私達の役目ですから」

でわ、とドアを開け外に出る冬姫に続いて、お邪魔しましたと私は彼女の部屋を出た。

そのまま通路を歩いて、エレベーターに乗り込む。

マンションを出た時にはもう、月が夜空に昇っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ