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月明かりだけがその世界の灯だった。のっぺりと張り付く壁紙のような風景は、一目でココがどれだけ異質な場所なのかを教えてくれる。しかし、そこは決しておどろおどろしい魔境というわけでもない。例えるならそう、子供部屋みたいな雰囲気。ありとあらゆる“体験”に飢えている子供達を、満足させるために誂えられた世界。延々と広がる文明の平野は好奇心を掻き立て、果てのない夜空は恐怖を感じさせる。そして人工の光に飲まれながらも、懸命にぽつりぽつりときらめく星達は、理由のない希望を与えてくれる・・・・・。
そんな景色を一望する丘の上に立つ、大きな洋風の屋敷が私の住処だ。丁度、私の部屋はガラス張りになっていて、綺麗な夜景をその隅々まで見渡せるようになっている。
だからここを『展望台』と街の人たちは呼んでいる。周りは代わり映えのない規範的な住居ばかりのこの街に、古くからある異質な館。住人たちにとってある種のシンボルとなるのも理解できなくはなかった。
だけど、そんなことはもう私には関係のないことだった。日に日に弱っていく体は、ついに立ち上がる自由さえ私から奪い取ったのだから。そんな体で街に下りることなど出来るはずもない。結果、外との関わりなど気にする必要性もなく、死の瀬戸際を彷徨う私にはただ、この風景を睨み続けることしか出来なかった。
私はあれが恨めしい。私を置いてけぼりにして勝手に前に進んで、何もかもウヤムヤにして平穏を歩み続ける彼等が。
でもそれが私自身の逆恨みであることは明白。無意味な憎悪に限りある生命を費やすのは、あまりにも愚かだ。
しかし未練を捨てきれない、過去と折り合えない自分がいることも真実だった。
だから私はもう一度、思いを馳せる。限りなく低い可能性を信じて。誰かに話をしても相手にされないのだから、私には自分に問いかける他ない。それが一種の精神安定剤のようなものであり、辛い現実から逃避するための方法だった。或いは、絶望への誘いを振り切るための愚策なのかもしれない。しかし何もせずに時間が過ぎゆく事を実感するよりも、よほど効果的なのは確かだ。
そして明日目覚めるかも分からない瞳をゆっくりと閉じ、自己に没頭する。
「・・z・・・A・」
自分でも意味の分からない言葉を垂れ流す。だってこれは遠い昔、私がまだ幼かった頃『まほうつかい』だった父に教えてもらった、ココロの“呪文”だから。まほうつかいじゃない私には、理解できるはずもない。それにその言葉にどんな意味があるのかを今更知っても意味が無い。ただ確かなのは、この言葉が自分の中の小さな可能性を見出してくれるということだけ。
唱え終わった瞬間に、ふわっと浮かぶような錯覚が私を襲う。術が成功した証に胸を撫で下ろす。
斯くして、小さな儀式を終えた私は、私にこう問いかけた。
『亡くしたものを返して欲しい』
真っ暗な闇に木霊するその一言は確実に“彼女”に届いただろう。
だが数秒の沈黙が続き、私は不安になる。
もしかして“彼女”は再三の問に呆れているのかもしれない。
もう、結果は見え透いていると諭しているのかもしれない。
しかしそれは杞憂だったようだ。
ーー失われた者は戻らない。
暗く、冷たく、はっきりと否定する彼女は本当に自分なのか度々疑問に思う。
ーーたとえそれが命を授かる以前であっても。
『だけど、魔法があればよみがえらせる事ができるはず』
ーー・・・・・分からない。
いや、不可能なのだ。彼女は言葉を濁すがそんな事は分かりきっていることだった。一族に伝わる魔術は父の代で途絶えた。私には何も残されていないのだ。この洋館以外何も。だからそれでよかった。諦める事を促すその言葉はむしろ歓迎するべきものだ。何時ぞやの未練に縛られる愚かな女に下された啓示。それを受け入れることで、私は初めて開放される。
無意味な自問が全てが終わり、私は本当の意味で瞳を閉じる。そしてそのまま真っ逆さまに意識が落ちていく・・・。
ーー或いは目の前に、答えを持つ者がいるかもしれない。
瞬間ーー私は慄然した。唐突に漏れでたその言葉には、言いようのない力がこもっていた。それはどう考えても、私の声ではなかった。かと言って“声”自体は私のものだ。でも、何かが違う。決定的に混じり合えない、理解し難い感情というか思想ーー願いを孕んだ別人。
混ぜられた水と油のように、それは私から乖離し本当の意味で意志を持っている。不安しか無い。こんな感覚は今まで無かった。しかし、これがどれ程異常なものかは瞬時に理解できる。
だから、それがもたらす驚きと戸惑いに、すぐには眼を開けることは出来なかったが、かと言ってそのまま眼を閉じ背けることも出来なかった。
覚悟を決めた私は、ゆっくりと、月光が差す部屋への扉をこじ開ける。
・・・・・。
するとそこにはーー見知らぬ男が“存在”していた。
◆
そして私は答えを得た。
そして私は全てを失った。
私の意識は心理の奥底へと急降下し、やがて有象無象の感情や記憶とともに、灼熱の坩堝の中へ、溶け込んでいった。