学究の場
ディーンが愛するエレーナが、王城に『行儀見習い侍女』として出仕した。期間は半年だ。
彼は、今はまだアディート王国学園の学生だが、月に数日、王城で文官見習いをしている。エレーナと王城でデートするのが楽しみだと、シンシアは何度も聞かされた。
王都に着いた夜に交わした会話は、兄の中で封印されたようで、シンシアにはいつも通りの優しい笑顔を向けてくる。カゼスとの間にあったことを詮索されたくないのかもしれない。
シンシアは、十日しか『行儀見習い侍女』をしていない。しかも、滞在させてくれた伯爵夫人と楽しくお喋りをして過ごしてしまった。
エレーナは大変な半年間を過ごすことになるだろう。
シンシアは、自ら申し出た彼女を尊敬する。
王城の見習い侍女は、お喋りをして過ごすわけにはいかない。王族の方のお相手が出来るだけの技量を要求される。本気の『行儀見習い』が待っているのだ。
「結局、来年の春まで辞められないわ。」
セアラ・ディパンドは沈んでいた。
伯爵家の娘であるがゆえに、王城に『行儀見習い侍女』として召されている。
当初は三ヶ月の予定だった。
それが、最初は王女さまにあと三ヶ月いてと言われた。その後王妃さまに半年延ばされ、今回は王太后さまに後一年と言われたらしい。最長二年と決まっているのでそれ以上はないはずだ。
「便利屋よ、便利屋。私は早く学院に戻りたいのに。みんな知ってるはずなのに。なんで財務だの内務だの、行政仕事の下働きをさせられるのよ。」
「法律士の資格があるものね。」
セアラの愚痴を、シンシアはさらっと流してキリカが淹れてくれたお茶を飲む。
「シンシアに付き合って、資格なんてとるんじゃなかった。私は歴史を探求したいのに。」
セアラの卒業論文は超大作だった。それまでも論文はいくつも書いていたようだけれど、この卒業論文は、構成自体に今まで誰もしたことのなかった試みがあり、注目を浴びずにはいられなかったようだ。今は学生たちの必読書になっている。
その功績により、セアラは王立学院に学者として研究室を与えられたのだ。最年少記録ではないけれど、女性では初めてだ。
私を封じ込めるためよ、他で好き勝手なことを喋らせないためにね、とセアラは言う。だけどシンシアはすごいことだと思う。前例をつくったのだから。
女性が働くことを好まれないのと同じに、学問をすることも揶揄の対象だ。けれど、王立学院は創立時、女性は学問などしないことを常識として性別による制限をしなかった。おかげで今では女性が高等教育を受けられる数少ない学校のひとつだ。その中にまた新たな場所が開かれたのは確かだ。
セアラが研究室を与えられてから、シンシアがセアラと会うのはいつもここだ。聞かれたくない話がどこよりもしやすい。
二間続きで、入るとまず狭い応接室がある。その奥の研究室は広い。けれどどの教授の部屋も、たいてい狭い応接室まで本や資料が溢れている。
セアラの研究室だけが、ほぼ何もない状態だ。今は王城暮らしをしているためだ。
きっと王城のセアラの部屋は本が溢れているに違いない。
シンシアは学院で経済学を学んだ。卒業後も新しい知識を求めて恩師をよく尋ねる。
「このオレンジが唯一の慰めよ。」
セアラはひとしきり嘆いて気がすんだのか、オレンジを嬉しそうに口に入れる。
「あぁ幸せ。」
美味しそうに食べる彼女を見ていると、こちらも幸せになる。
キリカにお茶のお替わりを求めた。セアラは今、王城勤めのため自分の侍女を持っていない。
「それで、シンシアの方はどう? オレンジの商談はどうだったの?」
小さく息をついてから、打ち明けた。
「だめになったの。」
テーブルにティーカップを置いたキリカと目があう。キリカの表情が色々あるでしょうと語っていた。それに気づいたのか、セアラが急かしてきた。
「何? 何があったの?」
オレンジを食べながら喋ると言うお行儀の悪さを発揮している。
「会長のランクールが居留守を使ったの。いたのはランクール兄妹の次男ジン。私が帰るって言うと慌てて会長が出て来たわ。それで、こちらが提示した値の五分の一で売れと言ったのよ。」
数秒の沈黙の後、セアラが首を傾げた。
「なんだか、ものすごくたくさんの疑問を感じるのだけど」
シンシアのカップがキリカに引き寄せられた。ポットからお茶を注ぎつつ、キリカがさらにシンシアに目で語りかけてくる。
あぁ、と思いながら打ち明ける。
「会長のランクールは、親に言われたら困るだろうと言ったわ。」
セアラが目を見開いている。
「アミタがついていて、そんな失態。」
「アミタに平謝りをされるなんて初めてだったわ。」
ふたりは顔を合わせて一緒にため息をついた。
「それで、シンシアはどうするの?」
「ケルターは、しばらくランクールとの取り引きをやめる。アミタとは続けるけど。」
「じゃあ、私も手の届く限り止めるわ。」
玲瓏な美貌を持つ彼女の微笑みは、時々少し怖い
「セアラの手って、どこまで届くの?」
「ランクール商会なんて、新興の商店でしょう。そんなに多くの貴族と取り引きはしていないわ。」
「新興と言われれば、そうかもしれないけど。大手でしょう?」
「確かにね。けどランクールは、庶民相手にしか商売をしていなかった。それでも大きな商会になったのは、他国と上手に取り引きをしたからよ。そこへアミタが貴族と取り引きを始めたでしょう。欲が出たのでしょうね。」
「確かにケルターと取り引きを始めたのは、ここ数年のことのようだけど。」
「アミタの長兄のお店じゃない? アミタは長兄に出資してもらって店を出したのよ。父親からは女ごときに何が出来るかって反対されたから。その恩があるから長兄に自分の人脈を利用させたのね。父親はそれに倣おうとして、見事に失敗した。」
シンシアは少し眉を下げた。
「それじゃあ私、アミタに力を貸してくれたお兄さまとの取り引きを、断ち切ってしまったことになるわ。」
「いいのではない? 私もそうするし。」
「本当にいいの? アミタに悪くない?」
心配になる。アミタを助けてくれた兄と、アミタの仲が悪くなるのではないか。
「ランクール商会は、よくわかったでしょう。貴族との取り引きを新たに始めるのは簡単じゃない。これからどうするのか。よく考えることが必要だと思う。今後も貴族と取り引きをするか、庶民相手の商売のみに戻るか。今回の相手がシンシアじゃなければ、あっという間に悪い噂が流れて信用に傷をつけていたわよ。」
そうかもしれない。
商業に明るい貴族と、何年にも渡って実績と信用を重ねた商人の間では、いろんな交渉をするだろう。
けれど、シンシアのような商売に不慣れな貴族は、商人相手に交渉はしない。不利な取り引きを避けるためだ。向こうが乗らないなら、それで終わりか、後日に仕切り直しとなる。
それをランクール会長はわかっていなかった。
「アミタが心配だわ。同じランクール商会にいるのだから。」
セアラが少し目を見開いた。
「あら、聞いていない? あぁそうね。言う暇がなかったのね。」
一人で納得しているセアラに、シンシアは小首を傾げた。
セアラが満面の笑みを浮かべる。
「アミタね、結婚するのよ。」
「え? ディアノと?」
王立学院時代にふたりは出会い、交際を続けていた。けれど、ディアノは学院の数学者だ。商人と結婚させたい父に反対されていたはずだ。
「そうよ。結婚したら完全に独立するの。ランクールの名はもう名乗らない。親に勘当するって言われて、アミタはそれでもいいって言ったのですって。アミタのお店はもう、ランクールの後ろ盾がなくてもやっていけるでしょう。」
「すごい、小説みたいですね。」
キリカはとうとう黙っていられなくなったらしい。
セアラは咎めることなく、キリカに笑って言う。
「そうよね。でも小説ほど劇的には揉めなかったみたいよ。長兄が出てきて治めてくれたって。だからアミタは今もランクール会長と会っていたのだろうけど。」
失敗だったわねと、セアラは重ねては言わなかった。
シンシアの方はそれならば、と考える。
「アミタとオレンジの取り引きをするわ。」
セアラがシンシアの目を覗きこんでくる。
「いいの? アミタは自分が扱えないと判断して、他を紹介して来たのよ。」
でもと言いながら、シンシアは左手の人差し指を軽く顎に当てる。セアラの前では右腕の飾り布を外さないでいられる。
「アミタは今頃、最初から自分がやればよかったと思っているかも。」
そう言えば、それもそうねと返される。
「いい結婚祝いになるわね。長兄と三男はきちんとした商人だと聞くわ。妹に弱いから、きっとアミタを助けるわよ。」
結婚祝い。そうか、アミタ、結婚するのね。
改めてそう思った時、カイル・キルティの姿が頭に浮かんだ。夜会でみた時より、距離が近い。声が届くかもしれない、そんな距離。
だめだと思った。顔が赤くなる。どうして監査部の人をこんなふうに思い出すのか。
早々に頭から締め出すために、シンシアはセアラに次の話題を提供した。
「オレンジの皮の入ったジャム?」
セアラは目をキラキラさせている。
キリカがガラス瓶に入ったカレイド・ジャムを差し出すと、陽射しが当たる方へとセアラは向けた。
「綺麗ね。オレンジの皮が入っていると、見た目もいいわ。」
「味も試して。」
スコーンに乗せたものが皿に盛られてテーブルに置かれる。
遠慮なく手を出したセアラは、食べてから、さらに目を変える。
「これ、いい。オレンジの皮か。どうして今まで気付かなかったのかしら。あぁでも、新しいものってそうよね。そこにあるのに見えていないだけなのよ。」
セアラはふたつ目のスコーンに手を出している。
「これも商品になると思う?」
シンシアは単刀直入に聞いた。
「なるでしょう。こんな風にガラス瓶に入れて、きれいなラベルを貼れば? 最近はピクルスも、そうして高級品かのように売ってるわよ。ジャムなら砂糖をふんだんに使ってるんだから間違いなく高級品よ。」
「王都はそんなにガラス瓶が使われてるの?」
「最近増えてきたのよ。センザ男爵が大量に作り始めたみたい。アミタに相談してみたらいいわ。」
王城勤めのセアラからの情報なら正確だろう。
「これ、もらってもいいの?」
セアラが、カレイド・ジャムの瓶を持って期待に満ちた目を向けてくる。
シンシアは、一番大事なことをしっかりと伝えるため、口調を変えた。
「もちろんです。カレイド・ジャムと呼んでください。ケルターのカレイド村秘伝のジャムです。今はまだ口外無用でお願いします。」
セアラはそれを聞くと、キュッと口の端を上げて笑った。
「ひとりっきりで大事に食べます。だからまた届けてね。」
「伯爵家の料理人なら、同じものを作れるんじゃない?」
「そうかもね。でも…、うん、そうね。」
また一人で納得をしている。
「何?」
「秘密を知っている者は少ない方がいいと思って。シンシアがケルターの特産品として売るなら、それまでは秘密を守って誰にも言わないわ。」
特産品。ケルターの特産品、夏の祭りを彩るカレイド・ジャム。
しばらくシンシアはぼんやりとして見えていたらしい。
ふと気付くと、キリカが膝をつき、心配そうに見上げてきていた。
「大丈夫ですか。シンシア様。」
「ごめんなさい。大丈夫。」
セアラは気にしたふうもなく、三つ目のスコーンを食べている。
こんなふうに、美味しそうに食べてもらえるなら、届けたい。
「アミタに相談するわ。」
セアラが少し困ったような顔をした。
「シンシアは、アミタにいい結婚祝いをいくつもするのね。私はどうしたものかしら。」
けれどひとつ大きなため息つくと、セアラは頭を切り替えたようだった。座りなおしてシンシアに聞いてくる。
「ねぇ、実は少し確認してもらいたいものがあるんだけど。」
改まって言われると嫌とは言えない。
「何かしら。」
「向こうの部屋にあるの。」
学術研究用の部屋だ。ここにはセアラが招いたものしか入れない。シンシアも入るのは初めてだった。
「わかったわ。」
好奇心もあって、セアラの後に続く。キリカが不安そうに見ていたが、お茶を飲んでいてと、応接用の部屋で待ってもらった。
ドアが閉じられる。
カーテンは薄いものだったが、開かれていないため、部屋の中は薄暗い。
椅子を勧められ、向き合って座った。テーブルがないから距離が近い。
珍しくセアラは言い淀んでいるようだった。
「何を確認するの?」
シンシアの方から聞いてみた。
セアラは天井を見上げ、それから床を見て大きく息をついてから、シンシアを見た。声は辺りをはばかるように小さかった。
「ケルター子爵領のこと、どこまでわかってる?」
シンシアは、言葉に詰まった。セアラを見つめることしかできない。
「ごめんなさい。はっきり言ってしまうわ。」
セアラが前置きをした。
「ケルター子爵領は貧しいわよね。だからシンシアは法的な成人の立場を努力して手に入れた。それで事業を立ち上げたり、商人との取り引きをしている。」
その通りだ。
「でも、ケルター子爵領のことを感覚的にとらえているだけのような気がする。会計士の資格を持っているのに、ケルターの財政状態をきちんと把握していないのではないかって思えるの。違う?」
違う。今は。
セアラの言いたいことは分かる。前回セアラに会った時、まだ心を決めかねていた。
「セアラ。」
言いたいのに言葉がでてこない。心に隠し持っていることを言い当てられると、人はここまでうろたえるのだと始めて知った。
セアラは静かに待っている。
そして、疑問が生まれた。
どうして、セアラがこんな事を聞いてくるのか。
「どうしてそんなことを聞くの? セアラ、何を知ってるの?」
「いくつかの事実を。シンシアは?」
それしかセアラは言わなかった。
シンシアは視線を落とし、自分の膝を見た。セアラの意志の強さが表れた目を見られなかった。
「私、……王都に来る直前に調べたわ。ケルター子爵領の資産の状況を。」
「そう。」
少しの間、沈黙があった。それを破ったのはセアラだ。
「じゃあ、あなたならわかるわね。」
シンシアは小さく頷く。
「怖いわ。」
父の書斎で事実を目の前にしてから、ずっと口にしたかったことをシンシアは言った。
「怖い。私たち、どうなってしまうのかしら。」
「シンシア。」
静かな落ち着いた声が呼んだ。同じ声が言った。
「乗り切る方法があるじゃない。」
反射的に顔を上げた。いつも通り、落ち着いた表情をしたセアラがいる。
あぁ、これはあの時と同じだと、頭の片隅に浮かんだ。
もっと子どもだった頃、大人になりたいという気持ちに共感して欲しくて言った言葉に、セアラは現実的な方法を返してきた。
あの時も今も、まさか方法があるなどと言われるとは思ってもみなかった。
「忘れちゃった? 法律の勉強をしていた時に、ケルターが大金を手に出来る方法を見つけたでしょう。あの時は冗談として終わらせたけど、状況が変わった今は有効な方法よ。」
セアラは真剣だ。でもシンシアは反論せずにはいられない。
「けどあれは忘れ去られた法よ。今そんなことを言い出したら、他の貴族が黙ってないでしょう。」
「それは心配しすぎよ、シンシア。」
シンシアは黙り込む。あれは言葉遊びのはずだった。だからシンシアの取るべき選択肢には入っていなかった。
セアラに指摘された通り、それならケルター領はなんとか持ちこたえられるだろう。
けれど大きな問題がある。シンシアは力なく頭を垂れた。
「お父様に話さなきゃいけないわよね。」
シンシアが父親と接点が少ないのは、セアラも知っている。
「ケルター子爵は、素直にシンシアの話を来てはくれないわよね。子爵夫人もディーンも頼りにならないだろうし、かといって他の誰かに頼めるかというと、適当な人がいないわね。」
「時間もそんなにないし、説得できる自信も、時間もないわ。」
シンシアは目を閉じて大きなため息をついた。
「でもやっぱり私がやるしかないわよね。」
「ケルター子爵家が没落するよりはマシだと思うけど。」
セアラは冗談を言ったのではないと思うが、ふたりとも少し情けない顔で笑実を作った。
「この怖い思いから逃れられると思えば大丈夫ね。私、ケルター領に来た旅人たちまで監査部の役人じゃないかって疑ってしまうくらいだったから。」
シンシアは使用人たちには言えなかった不安を一気に出してしまう。
「旅人?」
「そう、ケルター領内で見慣れない二人組が何度か目撃されていたの。私が王都に来る少し前にケルター領を出て行ったみたい。」
セアラが驚いている。
「なにその情報網、すごい。同じ人なの?」
「少なくとも二ヶ所はそう。似顔絵が監査部の人に似てたから、余計に気になって。」
「似顔絵? シンシア、監査部に知り合いがいるの?」
セアラが身を乗り出してきた。慌てて否定する。
「いないわ。前に夜会でオーガス侯爵夫人が教えてくれたの。離れた所にいた人のことを監査部の人だって。」
「その人と似顔絵が似ていたね?」
「見る?」
シンシアが小物を入れる手提げ袋を開きながら聞く。
持ち歩いてなくす不安より、部屋に置いていて知らないうちに誰かに見られる不安の方が大きい。いくつかの書類はずっと手元に持っている。
セアラは短く答えた。
「見る。」
声は控えていたものの、勢い込んでいるのが分かる。
「オーガス侯爵夫人は名前も教えてくれたんでしょう?」
顔が勝手に熱くなっていく。慌ててセアラに似顔絵を差し出した。
「えっと、若い方の人。カイル・キルティ。似てると思ったのだけど…。」
セアラが二枚の似顔絵を凝視している。
「すごい。上手な絵ね。」
シンシアは、ケルター領に関する事を褒められると、どんなことでも嬉しい。
「そうでしょう。偶然彼らが入ったお店の息子が描いたの。」
「笑えるわ。」
似顔絵を見たまま、セアラはすごく意地悪そうな顔になっていた。
何が笑えるのか聞く前に、一応忠告しておく。
「セアラ、悪い顔になっているわよ。」
「いいのよ。今はシンシアしかいないんだから。」
キリカがいなくて良かったと思った。キリカの中のセアラ像がますます歪むだろう。
「どうして笑えるの?」
セアラが顔を上げた。悪い顔は消えていて、今度は何か楽しそうだ。
「私はね、締め出されたのよ。」
話の内容は楽しそうではない。
「別件を調べていたんだけど、ケルター領がおかしなことになっていると気付いたのは私なの。このまま放っておくとケルター子爵は大変な事になるでしょう。だから報告して、視察、というか内偵に行くことが決まったの。そこまでは私も話し合いに加わっていたのよ。ところが誰が行くかを決める時になって、もう来るなっていうのよ。私がシンシアと親しいからって。」
シンシアはちょっと眉を寄せた。
「そこでセアラを締め出しても意味がないと思うのだけど。内偵に行くのは決まっていたんでしょ。いえ、待って。」
もしかしたら、と思う。
「セアラ、この似顔絵って本当に監査の人?」
「そう、間違いようがないくらい似てる。」
シンシアは少し言葉を失う。
あの夜会で女性たちを引き寄せていた人が、ケルター領に来ていた?
シンシアを置き去りにして、セアラの話が元に戻る。
「手柄欲しさに、シンシアに言うなって私に口止めしたくせに、自分たちはどう? 存在を把握されてた上に似顔絵まで残して。間抜けにも程があるわ。」
一応忠告する。
「セアラ、だんだん言葉が悪くなっているわよ。」
「心の中はもっとひどい言葉が溢れかえっているのだけど。出さないでおくわ。」
セアラは邪気のない笑顔を見せた。
「とにかく、証拠はこちらの手にある。」
似顔絵が掲げられる。
シンシアは慌てた。
「彼らは悪事を働いたわけじゃないのよ。」
「わかってるわ。」
似顔絵がシンシアの手に戻って来る。
「最初にガツンとやるのよ。」
セアラがきっぱりと言った。
「がつん?」
「そうよ。」
セアラの今の笑顔は、やっぱり怖いものにしか見えない。
「『全ては手の内にあり。戦わずとも我、勝利をもたらさん。』よ。」
二百年以上も昔の将軍の言葉だ。彼はアディード王国の敵将だったはず。アディードにとっては悪人だけど、いいのかしらと首を傾げたところで気がついた。
悲壮感が消えている。
何から聞いていいのかわからなくなったけれど、彼女は乗り切る方法を思いついたのだ。
「セアラ、お茶を飲んでひと息いれましょう。それから教えて、没落回避の方法を」
シンシアは、自分の声が軽くなっているのに気付いた。
馬車で王城までセアラを送ってから、シンシアは帰路についた。
「セアラ様に制裁していただきたいと思いましたけど、今では複雑な思いです。」
キリカが神妙な声で告白してきた。
「悪いのはアミタの父親なのに、アミタを助けてくれたお兄さんが損をすることになるなんて、なんだかおかしいです。」
「気持ちはわかるわ。」
シンシアはいつものようにゆったりと座り、同意する。
「けどね、損をするからこそ、本気で大本を正そうと言う気になるでしょう。」
「……そうかもしれませんけど。」
キリカは気分が晴れないようだ。
損をした時、逆恨みをされるかもしれない、という可能性は言わずにおくことにした。
「オレンジの取り引きはアミタとするわ。その後アミタが、誰にそのオレンジを売るかは聞かないことにする。」
「アミタはきっとお兄さんに頼みますね。」
キリカの顔が明るくなる。
にっこりとキリカに笑いかけながら、シンシアは信頼することの難しさを感じていた。
アミタを全面的に信頼したい。けれど会ったことのない誰かに大事なオレンジを任せる事には抵抗を感じる。
ランクール家での出来事は、シンシアの心の中に『用心』という気持ちを深く埋め込んだ。
アミタは信頼できる。けれどアミタが信頼している誰かが、シンシアにとってよい関係を結べるかはわからない。
オレンジとカレイド・ジャムの取り引きは、まず今年の分だけ。
そう思うことで、シンシアは揺れる気持ちに区切りを付ける努力をした。
セアラの提案も実行しなければいけない。
あぁ、その後に王室主催の夜会があるのだったと、シンシアはぼんやり宙を見る。
ドレスのことで、母とひと揉めしなくてはいけない。
休める時に休んでおこうと、シンシアは目を閉じた。