世界の中心
2014.12.30. この章の前に「美しいもの」を差し入れました。申し訳ありません。
王都までの旅は良好で、夕暮れまでにはケルター子爵邸にたどり着くことが出来た。
「お帰りなさいませ。シンシア様。」
出迎えてくれた王都にある子爵邸の執事イニッツが丁寧に迎えてくれる。
「子爵様は書斎におられます。奥様とディーン様はご自分のお部屋でお過ごしです
。」
「ありがとう、イニッツ。後でご挨拶に伺います。」
「承知いたしました。」
「それから」とシンシアは声をひそめた。「資産の明細書を作って頂戴。」
王都の使用人もシンシアに協力してくれる。領地にいる執事にしたのと同じ頼みごとをした。視点を変えてもう一度確認したい。
「かしこまりました。」
イニッツが下がり、家政婦長のエイリがにこやかに部屋へと先導してくれる。
「お待ちしておりました。お嬢さま。春の夜会のドレスのこと、奥様は随分とお気になさっていました。」
「お母さまは、決めてくださったのかしら。」
「そのようです。」
申し訳なさそうな顔が全てを語っている。
「直接聞くわ。」
シンシアのドレスは、アミタ・ランクールに預けたままだ。
部屋に入ると、シンシアは最初にキリカから大事な鞄を受け取り、寝室のチェストの中に入れてさらに鍵をかけた。
それから旅装と解くと、少しほっとした気持ちになる。
暖かいお茶をキリカが出してくれる。
「お茶を召し上がってください。」
お茶のカップを手にしてから、シンシアは声を少しひそめた。
「エイリ、アミタのところへ使いを出してくれる?」
「もちろんでございますよ。お届け物ですね。」
キリカから、エイリにケルダー領の女性たちが作った袋物の包みが渡る。
「それと、春の夜会用のドレスを受け取って来て欲しいの、出来ているはずだから。こっそりね。」
今年の大きな夜会に着て行くドレスは、ケルター領で作られた飾りや、染められた布を使いたかった。だから独自性を大切にする通常のドレスメーカーに所属していない腕の良い仕立て屋を、アミタに見つけてもらった。
初夏のドレスはすぐに出来上がった。けれど春の夜会用は、シンシアよりアミタの方が熱中し、気難しく注文をつけたため、出来上がりに時間がかかったのだ。
「こっそりですか? 奥様にお目に掛けるのでは?」
「春の夜会に近くなってからね。日にちがあると、いろいろ駄目出しをされそうだから。」
エイリとキリカが納得した表情をみせる。
「暗くなるから、くれぐれも気を付けてね。」
「大丈夫です。日が落ちるまでまだ十分時間があります。」
エイリがドアへ向かいかけて、シンシアは大事な事を云い忘れていたのに気がついた。
「エイリ、夕食は、ひとりで頂くわ。ここへ運んで。」
「かしこまりました。」
シンシアの心を軽くする言葉を残し、エイリが退室して行った。
入れ替わりに何人かのメイドが入って来る。
「お帰りなさいませ。シンシア様。」
「ただいま。皆、変わりない?」
聞くと、口々に元気な声が返って来る。
「お父さまのところへお伺いしたいと聞いてもらえる?」
「イニッツさんはいつでも大丈夫ですって言っていました。」
「そう、じゃあ今行くわ。すぐに終わるから、お母さまにその後に行くと伝えて頂戴。」
「かしこまりました。」
キリカを側に呼ぶと、残っていた侍女たちが荷解きをしておくと言ってくれたので任せる。
書斎の前まで来ると、イニッツがいてくれて父に声をかけてくれた。
「旦那様、お嬢さまが来られました。」
なかから声が聞こえ、ドアが開かれる。
父がいた。何一つ変わったことのないような顔をした父。
「無事に到着いたしました、お父さま。」
礼を示す。
「勝手にひとりで歩きまわるな。」
「ご心配をおかけしないようにいたします。」
「そうしなさい。」
会話は以上だった。
いろんな事実を知った今では、父の心中など本当にわからない。
背を向け書斎をでる。ケルター子爵家は大丈夫なのですかと言葉が口から出てきそうだった。
母は明るく元気だった。
「シンシア、待っていたのよ。」
別れた時の不機嫌さが嘘のようになくなっている。
「あなたに似あうドレスを見つけたわ。」
得意そうに言われる。
「拝見いたします。」
シンシアも調子を合わせて嬉しそうにふるまう。
母はもったいぶることもなく、二人の侍女にそのドレスを掲げさせた。
「どう? 最近流行りのレース飾りがふんだんに入っているでしょう。この柔らかな感じの薄い黄色も素敵でしょう。」
さらにリボンがどうの、刺繍がどうのと、母は何やら饒舌に語っているが、ドレスをもたされた侍女は不自然に無表情だ。母付きの侍女を見ると、申し訳なさそうに目をそらした。
母の言葉の途切れを捕えて、シンシアは言葉を押しこんだ。
「どこから持ってきたんですか?」
「あなたのお祖母さまの衣装部屋からよ。」
やはりそうかと思う。亡くなった祖母の愛用品が整理されることなく、一部屋に押し込まれて残っているのは知っている。
シンシアは、祖母が若い頃の時代にレース飾りが流行っていたことを思い出した。
母は全く悪びれることなく言った。
「あなたは、お祖母さまと同じ髪と目の色なのだから、似あうのは間違いないわ。」
確かにドレスの色だけをみれば似合うだろう。
しかしそれは言わず、別の点から指摘した。
「確かに、私はお祖母さまと同じ色です。けれど、作り直すのは難しいでしょう。」
「え?」
何を言っているのという顔をされた。
ゆっくりと話す。
「お祖母さまは背が低くて、とても華奢な方だったでしょう。私はどちらかと言えば背が高い方ですから、このドレスでは踝が見えてしまいます。このままでは着る事ができません。」
「そ、そうかしら?」
「この館の者たちも忙しいでしょうから、針仕事を頼めませんし。次に作る時はこのドレスを参考にいたしましょう。」
なんとか穏便に終わらせる言葉を綴る。
シンシアはドアの方へ下がりつつ、母に頭を下げた。
「では、お休みなさいませ。」
「シンシア、あなたのドレスを見せなさい。」
不機嫌になってしまった母に、シンシアは申し訳なさそうな顔を作った。
「五日の内には手元に届く予定です。」
嘘は言ってない。
「本当にあるの?」
「大丈夫です。お心安らかにお過ごしくださいませ。」
言いながら、シンシアは部屋の外へ逃げた。
兄のディーンは面倒な人だ。
悪い人ではない。シンシアにも概ね優しい。
しかし、恋人のエレーナ・カティスが絡むととたんに物わかりが悪くなる。
ディーンの世界はエレーナを中心に回っている。
落ち着いて食事をするためにも、ディーンに先に会っておこうとシンシアは考えた。
彼の部屋へ向かおうとして、従僕に呼び止められた。
「失礼いたします、お嬢さま。ディーンさまが、シンシアさまのお部屋の前でお待ちです。」
出そうになるため息を何とかこらえた。ディーンがこういう余裕のない行動をする時は、間違いなくエレーナ絡みだ。
本当にドアの前で待っていたディーンに、とりあえず挨拶をする。
「お兄さま。お久しぶりです。お元気でしたか?」
「元気だ。」
いつもの優しさが声にない。しかしシンシアにはどうしようもないので、廊下から部屋へと招く。
部屋の中にはまだメイドたちが残っていたが、ディーンを見ると、一人だけキリカと共に残り、全員何も言わずに下がって行った。
「明日一緒にエレーナと会おう。」
「突然ですね」
やはりエレーナかと、シンシアはディーンの様子をうかがう。
今のところ冷静そうに見える。
「エレーナは、三日後には内宮に出仕する。明日、私と一緒にカティス邸を訪問するんだ。」
王家の方々が住まう場所を、王城内でも特に『内宮』と呼ぶ。
エレーナが、その内宮で護衛役の見習い侍女をすることは、もちろん知っている。それがエレーナの長年の夢だったこともだ。
「エレーナが私に会いたがっているの?」
尋ねると間髪いれずに聞き返してきた。
「シンシアは会いたくないのか。」
そう言われても、会いたいとは思わない。エレーナは兄の恋人ではあるが、シンシアの友人ではない。
兄に座ることを勧めて、自分も座る。ソファの肘かけが右腕を支えるのにちょうどいい高さにある。これで少しは腕の重さから解放される。
「明日は無理です。」
シンシアは、端的に断った。。
「どうしてだ?」
ディーンの冷静さがもう剥がれてきている。声にいらだちがあった。
恋って恐ろしいなぁと思う。ディーンも分かっているはずのシンシアの都合を、全く無視できるのだから。
「馬車に揺られて少し頭痛がします。王都に来た翌日は痛みで動けないのを、お兄さまもご存じでしょう。」
領内で移動するとき、馬車はいつもゆっくりと進めている。揺れがひどいと肩に響くからだ。
けれど王都に来る時は、夕刻までに屋敷に着くため速度を上げる。揺らされると肩に負担がかかり、しばらく痛みを耐えなければならない。
「エレーナが内宮に出仕しても、社交の場には出席するでしょう。慌てなくても会う機会はいくらでもあるわ。」
話はこれで終わりにして欲しい。
『頭痛』という言葉を出したせいか、キリカの隣に立っていたメイドが頭を下げて出ていいく。薬を持ってきてくれたらうれしい。早めに飲んでおきたい
「エレーナに怪我をさせられたこと、根に持っているのか。」
ディーンの目に責める色がある。
「……驚いた。」
シンシアは正直に言葉にした。
三ヶ月に前に別れた時は、いつもの『概ね優しい』兄だった。今までこんなことを言い出したことはなかった。
会わなかったうちに何があったのだろう。
「どうしてそんなふうに思うの?」
理由が知りたい。
「大怪我をさせられたんだ。当然だろう。」
ディーンの表情はいつになく厳しい。優しいだけが取り柄の人なのに。
「そんなに単純なことじゃないわ。」
黒か白かとはっきりさせることは難しい。
シンシアは言葉を選びながら話した。
「腕を動かす練習をしていた時は、本当につらかった。右利きだったから、左への矯正も大変だったわ。」
シンシアはソファの背に体を預けて、何もない所を見上げる。そんなシンシアをディーンは観察しているようだった。
「お兄さまも覚えているでしょう。あの頃、私はいつもグズグズ泣いていたわ。」
ディーンは何も言わないが、あの時のシンシアの姿を忘れてはいないだろう。
シンシアも、ディーンが一緒に泣きそうな顔になっていたことを覚えている。
「でも、いつまでもそのままじゃなかったと、知ってるわよね。確かに腕は不自由よ。出来ないことだってある。たぶん一生痛みからは逃れられない。だけど楽しいことや嬉しいことがないわけじゃないわ。右腕のことばかり考えて生きているわけじゃないのよ。」
幸いなことに貴族の家に生まれているから、庶民のような日常的な労働とは無縁だ。使用人たちも心配りをしてくれる。
「痛み止めの苦い薬にも、多少の痛みにも慣れて来たわ。でも耐えがたい痛みを堪える時には、エレーナさえあんなことをしなかったらと思うのは、事実だから仕方がないでしょう。」
シンシアは、笑みを浮かべてディーンに目を戻した。
「こういうのを、根に持っているというのかしら。だったらきっとそうね。」
「…憎んでいないのか?」
聞かれて思わず笑った。
「もしそうなら、お兄さまの邪魔をしていると思うけど? あ、でも明日のお誘いは本当に無理よ。」
「じゃあ、次の機会に。」
ディーンは、話は終わったとばかりに立ち上がった。
いきなり切りあげられて少し驚いた。次の確約をとって来ると思っていたのだ。
それにディーンが突然こんなことを言い出した理由もまだ分かっていない。
シンシアは思いつきで名前を出した。
「カゼスに何か言われたの?」
「何?」
ディーンが険しい顔になる。カゼスはカティス家の長男、エレーナの兄だ。
「何故…」
聞き返してきたディーンの言葉が途中で止まる。シンシアは小さく首をかしげた。何故わかったかと聞かれたら、
「なんとなく。」
と答えるしかない。
ディーンは苛立たしげに言った。
「お前は腕が不自由だ。嫁ぎ先がないかもしれない。そうなればこの家にいるしかない。大人しく過ごすことだ。」
『お前』呼ばわりをされたのは初めてだ。
ディーンはそのまま出て行った。
「シンシアさま、大丈夫ですか?」
キリカがすぐに側に来て気遣ってくれる。
シンシアは微笑んだ。
「大丈夫よ。」
でもと、キリカが言い募って来る。
「ディーン様があんな酷い事を仰るなんて。」
シンシアの腕が不自由な事で不利になることを、直接言ってくる者はそうはいない。
「怒りっぽい気分の時もあるわよ。」
気にしていないことを示していると、メイドがカップを持って戻って来た。
痛み止めの薬だ。甘い菓子が添えてある。子どもの時に苦さを我慢したご褒美の名残だ。
薬湯は程良く冷めている。メイドにありがとうと言ってから、一気に飲み干した。
甘いお菓子を口にしながら、シンシアはそれにしても、と考える。
ディーンは本格的にエレーナとの結婚を考え始めたのだろうか。
それでカゼスに相談したのだとしたら、絶対反対されるだろう。
カゼスはカティス家の跡取りだ。十六年前の戦争の事も、今もまだ進行中の銅山採掘権の事も良くわかっているはずだ。ケルター領内の民たちの、カティス家への感情もだ。
シンシアの怪我の事は、断るためのいい理由になる。反対するのは簡単だ。
ディーンがどこまでわかっていて、どれだけ覚悟があってエレーナを娶りたいと思っているのか、シンシアには分からない。
ただ好きだからという気持ちだけとも考えられる。
もしかして、それだけでもなんとかなるものだろうか。
いや駄目だろう、と思いなおす。
この夏、納税が出来なければケルター家は没落する。そんな家に、娘を嫁がせる親はいないだろう。ディーンもシンシアも、結婚の条件を限りなく下げることになる。
ふいに、カイル・キルティの顔を思い出した。
似顔絵ではなく、夜会で見た彼だ。立ち姿も端正だったカイル・キルティ。
はっとして、シンシアは頭の中から彼を追い払う。
彼は監査部の人だ。関わり合いになりたくない人だ。
「お食事をお持ちしていいでしょうか。」
メイドが確認に来た。
キリカがこちらを見たので、頷く。
それを合図に食卓の準備が始まる。
ぼんやりとそれを見ながら、シンシアはまずいと思った。
あの似顔絵を見てから、シンシアの心の中に、夜会で見た彼の姿が居座ってしまった。
恋じゃないわよね。
監査部の人が恐いだけよね。
シンシア自身にもよくわからない。
ただ兄のようにエレーナへの恋情を世界の中心にして、見たいものだけを見るような状態にはなりたくない。
見たいものしか見ない……
この言葉に、父が思い起こされた。
シンシアの頭の中にひとつの考えが落ちてくる。
父は怖いのではないか、事実と向き合うのが。だから見たいものしか見ない。
どうして今まで考えつかなかったのかと、シンシアは思う。
だけどそれで領地管理を放棄するだろうかと考えなおす。
それからまたシンシアはその考えを否定する。父をそんな人だと思いたくなかったから、気付かなかっただけかもしれない。
考え方ひとつで、世界の見え方が変わる。
シンシアは、頭の中で同じ所をぐるぐると廻っているような気がした。
ケルター家の没落も兄の恋も、解決策があるようには思えない。
ため息がでた。
この後、シンシアの手元にドレスが無事に届いた。
真新しいドレスは、その日を少し幸せな気持ちで終わらせてくれた。