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名を受け継ぐもの

 王都へ行く前にしたいことは、書斎の外にもある。

 翌日シンシアは、昼食を早めに済ませた。ギャッドとレイズに資料作成の指示をして少し悲しそうな顔をさせてから、馬車に乗り込んだ。

 今日の訪問先であるカレイド村は、領主館からそう遠くない場所にある。

 両親が王都から帰って来る前日に、領内の村を回って子供たちに勉強を見てくれている教師の一人から、カレイド村に将来有望と思える子供がいるといる手紙が来たのだ。

 こういう手紙が来た時は、シンシア自身が、村の視察も兼ねて本人に会いに行き、高等教育を受けさせるかどうかを決める。

 陽射しは明るいが風が強い日だった。

 馬車の中にいると車輪が回る騒々しい音しか聞こえないが、小さな窓から外を見ると遠くの木の枝が揺れているのがわかる。こずえを揺さぶる音がしているだろう。

 カレイド村は、ケルター子爵領内でも小規模な村の一つである。十六年前の戦争では、十六才から二十五才の若者の半数を失った。

 村を出た若者は誰も帰ってこなかったのだ。

 働き手を失い、耕作地の多くが荒れたままになっている。

 東の隣国が国境線を超えて兵を進めてきたのが始まりだったあの戦争で、全国から十万人の若者が徴兵された。行われた会戦は小規模なものが一度きり。外務官たちの折衝で終戦に持ち込めた。

 その一度きりの戦いは、大将軍の勇み足だった。国王の許可なく兵を動かし、千人余りの犠牲者を出した。

 戦闘の指揮を執ったのはカティス子爵だ。 

 そのカティス子爵に、ケルター領から徴兵された若者たち千人が預けられていた。

 カティス家は武門の家だ。それを反映してか、領内の男たちは当たり前のように武術を身につける。

 ケルター領はそうではない。それなのに農具しか持ったことのない若者たちが、最前線へ押しやられた。

 亡くなった者約八百人。怪我をしてケルター領に戻って来たもの約百人。

 大将軍は免職となったが、カティス子爵は命令の下に動いただけとして不問となった上、復興のための援助として、王家所有の銅山採掘権を十八年間与えられた。

 生き残ったケルター子爵領の若者約百人は、ケルター子爵に何の申し入れもされないまま、カティス子爵によって、この銅山の採掘労働者として雇われた。

 さらにカティス子爵は、若者たちを定住させるために、カティス領の娘たちとの結婚を勧奨した。妻を持っていたものは離縁状を送って来た。親に仕送りをしていた息子たちは、家族を持つと便りが途絶えた。

 最も多くの犠牲を払ったケルター子爵領には何の援助もない。

 シンシアは自領が貧しいことは知っていた。けれどセアラに出会って、彼女から聞かされるまで、生まれる直前に起きていた戦争のことを良く知らなかった。

 まわりの大人が気を使って、教えてくれなかったからだ。

 知った時は、怒りと無力さに打ちのめされた。

 どうして今でも母は、平気な顔でカティス家に出入りできるのだろう。自分の息子がカティスの娘と恋仲になっていることに対して何も思わないのだろうか。

 シンシアは、自分が怪我をさせられた時、両家の間にひびが入るかもと心配したが、全く変わりがなかったことの理由がよくわかった。

 こんなひどいことが起こっていても平気な顔ができるのだ。変わりようがない。

 シンシアが領内を巡回するようになったのは、この時からだ。自分の目で確かめたかった。

 自分で知ろうとしない限り、誰も教えてはくれないとわかった。何が出来るわけではないが、知らなくてはいけないことがあるはずだと思った。

 カレイド村の女たちもシンシアのために腕の飾り布を作ってくれた。端切れを集めたのだろう。同じ大きさに揃えられた小さな三角形が整然と彩りよく繋ぎあわされたものだ。時間も根気も必要だっただろう。

 貰った時はまだ知らなかった。ただ喜んだだけだ。

 今は知っている。

 カティスの娘に怪我をさせられ、一生右腕が不自由となるシンシアに、彼ら、彼女らは自分たちを重ねている。カティスに傷つけられたシンシアは、彼らの痛みの象徴なのだ。

 恨みに思う気持ちが、シンシアの腕のための飾り布作りになっていた。

 そのことに気付いた時は衝撃を受けた。その細工の美しさが悲しくて、泣いた。

 シンシアは、今日だけでなく、どの村に行くときも、その村から贈られた飾り布を身につける。いつかこの美しいものを、喜びを持って作ってほしいと願いながら。

 馬車がカレイド村に着くと、まず村を一巡りした。相変わらず耕作地は増えていないようだ。

 村長のジドは、家の前でシンシアを待っていた。笑顔で迎えてくれる。

「シンシアお嬢様、お久しぶりでございます。お運びいただき有り難く存じます。」

 最初の訪問の時は、こんなに上手に挨拶が出来なかった。どこの村でもそうだが、シンシアがまたやってくるとわかると、近隣の村長たちは慌てて迎え方を学んだようだ。だんだん皆、礼儀が身についてきた。

「出迎えありがとう。」

 答えるのは侍女のキリカだ。

 シンシアは貴族の令嬢だから、彼らに簡単に話しかけられない。村長の家に落ち着いてから、直答を許すという手順が必要だ。

 カレイドは小さな村だ。村長といっても暮らし向きは他の家と変わらない。ただ、家自体は少し大きい。村人たちが相談にやってくるのを迎えるためだ。

 玄関を入るとそこが居間になっている。窓のそばの一番良い場所にシンシアための椅子が置かれていた。

 二度目の訪問の時に作られていたものだ。どの農家にもあるような形の椅子だが、少し大きい。やわらかなクッションが敷かれている。

 刺繍に、縁飾り。来るたびに、装飾が少しずつ増えている。

 その椅子におさまって、シンシアはやっと村長に声をかけた。

「ジド村長。家族に変わりはありませんか?」

「ありがとうございます。みな元気にやっております。」

「良かったわ。」

 シンシアがキリカに目をやると、シンシアには持てない重い袋が、キリカから村長に差し出される。

「変わり映えしない土産だけど、お砂糖よ。楽しんでね。」

「ありがとうございます。」

 砂糖は貴重品だ。村長は押し頂くようにして受け取った。

 長い間はいられない。シンシアはまず訪問時に必ず聞く質問をする。

「耕作地は相変わらずに見えたけれど」

「今年も去年並みです。悪くはなっていませんから、ご安心ください。」

 村長の目に暗さはない。気候さえ悪くなければ、冬を越せるだろう。

 次の質問も変わりない口調で聞いたが、今回はいつもと少し事情が違う。

「見知らぬ者がやってきたりはしていない?」

 いくつかの村で不審な二人組が何度か目撃されているのだ。

「いいえ。」

 村長はのんびりと答えた。

「おかげさまで何も悪いことは、起っとりません。」

「そう、良かったわ。」

 シンシアもそれ以上は聞かない。実害が起きているわけではない。無駄に怖い思いをさせることもないと判断した。

「では、フライズから聞いた子供に会いましょう。」

 フライズは手紙をくれた教師だ。

 村長は、はいと答えてから、おいと奥の扉に声をかけた。扉はすぐに開いたが、誰も出て来ない。

「す、すいません。お嬢さま。」

 村長は慌てて言うと、扉の向こうに言う。

「出ておいで、リグル。」

 子どもの名はリグルらしい。扉の向こうで何やら言い交わす声があってから、小さな男の子が戸口に現われた。誰かに無理やり背中を押されたようだ。

 男の子はシンシアを見ると、目を見開いたまま動かなくなった。

 村を回ると、よくあることである。地味な服装をしていても、貧しい村の子どもから見れば、お姫さまに見えているのだろう。

 安心させたくて微笑むと、今度は真っ赤になった。

 焦れた村長が動き、自分の横に連れて来た。

「この子が、フライズ先生がお知らせしてくれたリグルです。」

 村長はそう言ってから、リグルにご挨拶しなさいと頭に手を置いて下げさせる。

「リ、リグルです。」

 やっと出た声は小さなものだった。

「シンシア・ケルターです。」

 シンシアが名乗ると、リグルはちらりとこちらを見てから俯いてしまった。

 正直に言って、戸惑っているのはシンシアも同じだった。

 ケルター領の子どもたちはみんな小さい。十分に食糧が行きわたっていないせいだ。

 それにしてもこの子は小さすぎる。

 教師たちが連絡をよこすのは、たいてい十才前後の子どもたちについてだ。

 リグルは、七才と言われても驚かない幼さだ。

「ジグ村長、リグルはいくつ?」

「八才になります。」

「そう。」

 平静を保ちつつ、リグルに呼びかけた。

「リグル。」

 彼の顔は上げたが、緊張しているのだろう顔がこわばっている。

「勉強は好き?」

 単刀直入に聞く。するとリグルは困り果てたように村長を見上げ、下を向いた。

「お答えしなさい。」

 村長が慌てて促すのを、シンシアは手を上げて止めた。

「友だちと遊ぶ方が楽しいわよね。お家のお仕事のお手伝いもしているのでしょう。偉いわね。」

 シンシアはそう言ってから、もう一度聞いた。

「勉強は好き?」

 答えてくれるのを待った。ジグ村長の我慢が切れるのとどちらが先かしら、と思っていると小さな声が戻って来た。

「わからない。」

「リグル…」

 村長ががっくりと肩を落としている。

 笑いたいのをこらえて、シンシアはキリカに向かって小さく頷く。

 キリカが薄茶色の鞄の中から、数枚の紙と筆記用具を取りだし、説明を始めた。

「ジグ村長、リグル、前もって知らせた通り、これから問題を解いてもらいます。わかるところだけ書けばいいですからね。」

 キリカが、リグルの肩に手を置いくと、小さなからだがびくりと跳ねた。

 リグルからすれば、キリカだってお姫さまに見えているかもしれない。

 準備されていた机と椅子に二人は向かっていた。どちらもリグルには大きすぎる。足は床に届かないし、テーブルの上の試験用紙は背を伸ばしていないと全体を見ることができないだろう。

 キリカが始めるように促すと、リグルはペンを取って書き始める。最初は計算問題だ。

 それを視界に入れつつ、シンシアが村長に告げた。

「手紙では、両親も学校へ行かせたいと思っているとのことですが、八才では少し早すぎますね。」

「あの子は特別です。」

 村長が真剣な目を向けて来た。

「特別なんです。お嬢さま。わしらの村では今まで誰も学校になんぞ行っておりません。お嬢さまが勉強の道具をくださって、先生が時々来てくれて、みな、読み書きが少しずつ出来るようになりました。カレイドじゃ、学校に言ったって何にもならない。皆、農夫です。お嬢さまが肥料のことなんかを教えてくれるお手紙を読めれば十分です。けど、けど、リグルは特別なんです。」

 村長が訴えている間、リグルの集中力は途切れなかった。二枚目の問題に取り組んでいる。

「あの子を見てると欲がでました。上の学校にやりたいです。学校がどんなもんだかよくわかりませんが、カレイド村にだって、しっかり勉強した子がひとりいてもいいです。それに、それに…。」

 村長は言葉を詰まらせると、シンシアに深く頭を下げた。

 リグルは三枚目の問題に入った。今度は歴史の問題だ。

「お許しください。お嬢さま、お許しください。」

 いきなり謝りだしたジド村長に、シンシアは、キリカを見た。キリカも驚いている。

「お嬢さまは、いつか、いつか、お嫁にいかれてしまいます。」

 あぁなるほどと、シンシアは思った。そして思った通りのことをジド村長は言う。

「お嬢さまがいなくなったら、子どもたちを上の学校へ行かせてくれる人はいなくなります。リグルが十才になるのを待ってることができません。」

 村長の心配ももっともだ。他の村でも同じような話を聞かされたことがある。シンシアは無慈悲と思いつつ事実をいうしかない。

「そうね。村長の言う通り、そうなったら奨学金制度はなくなるでしょうね。」

 父や兄が引き継いでくれるかどうかは分からない。

 もし兄がエレーナと結婚できたら、彼女なら特に深く考えることなく引き受けてくれるだろう。だがそうすると今度は領民たちの方から手を引く可能性がある。エレーナは、自分たちの息子や夫を死なせたカティス子爵の娘だ。

 十六年は長いのか、短いのか。ただ大きな痛みを招いた記憶は甦りやすいものだと、シンシアは身をもって知っている。

「お嬢さま、終わりました。」

 キリカが、試験用紙を持って来た。

 リグルは椅子に座ったまま、緊張した顔を向けていた。

 用紙を受け取りつつ、シンシアは村長に言った。

「頭を上げて、村長。そのままだと頭に血が登りすぎて、倒れてしまうわよ。」

 村長は、悲壮な顔をして顔を上げた。

「あぁ、お嬢さま、どうか。どうか。」

 村長の嘆願の声を聞きながら、シンシアはリグルの解いた答えを見た。

 思っていた以上にきれいな文字だった。答えもすべて合っている。

「キリカ、次の問題を。」

 シンシアの言葉に、キリカが鞄からまた数枚の用紙をとりだす。

 それを見てから、シンシアは村長に言った。

「ジグ村長の思いは分かりました。けれど、あの子を今、上の学校に行かせることはできないわ。」

「歳が、歳が足りないせいですか?」

「そう。年上の子たちばかりの中で、上手くやって行くのは難しいわ。子供同士の付き合いは、時に容赦がないのを村長も知っているでしょう。」

 村長は言葉が出ないようだった。

「約束するわ。あの子が十才になったら、私がどこにいても、たとえこの世からいなくなっていても」

「お嬢さま!」

 鋭い声で、キリカが言葉を止めてきた。

 それにシンシアは静かに微笑む。

「何があってもリグルが学校へ行けるように用意を整えておくわ。」

「…お嬢さま。」

 リグルの手が止まっているのに気づいた。こちらを見ている。

 シンシアは、リグルに言った。

「そうね。」

 シンシアは少し考えた。

「村長とではなく、リグルと約束しましょう。フライズ先生に少し難しいことを教えてもらえるように言っておくわね。この村の他の人たちが、リグルに教えてほしいと言ったら、教えてあげられる?」

 リグルはこくんと頷いた。

「言葉にしてくれると嬉しいわ。」

「は、は、はい。」

「十才までそれを続けられて、その時にきちんと学力が身についていたら、上の学校にいきましょう。」

 リグルが目を丸くしてみている。

「問題は全部見た?」

「ご、ごめんなさい。まだです。」

 リグルは慌てて机に向き直る。

 シンシアはその様子を見てから、村長に告げた。

「良い話を聞けて満足しました。」

「はい。お嬢さま。」

 ジグ村長は、深く息を吐き、それ以上は言って来なかった。

 それほど待つことなく、リグルが机から顔を上げ、キリカが用紙を渡してくれる。

 全問正解だ。学校へ入れてあげたい。

 シンシアは、リグルに声をかけた。

「しっかり続けなさい。勉強だけでなく、お家の手伝いも。もちろん友達と遊ぶのもね。」

「はい。」

 リグルは返事をすると、村長を伺う。

「行っていいよ。」

 そう言われると、椅子から滑り降り、あっというまに奥のドアの向こうに消えた。

「すみません。挨拶もせず。」

 村長がまた頭を下げる。

「いいのよ。ゆっくり練習させて。」

 これも学校へ行く準備だと村長は気付いてくれただろうか、彼は真面目な顔で、はいと答えた。

「では、キリカ。」

 そう声をかける。帰ると言う合図だ。

 いつもなら、これを受けてキリカが村長に帰ることを告げるところだが、村長が慌てて声を上げた。

「お嬢さま。実はもうひとつ、見て頂きたいことが。」

 こちらを見ているキリカに、頷いてから、村長に先を促した。

 するとまた奥へ声をかける。今度はすぐに村長の妻ミーアが現れた。両手で大きな壺を持っている。ミーアの目がシンシアの飾り布に向けられ、笑みがこぼれた。この村の女性たちが作ってくれた飾り布がシンシアの右腕を支えている。

「ようこそおいでくださいました。お嬢様。」

 ミーアが重そうな壺を持ったまま頭を下げる。

「ごきげんよう、ミーア。」

 挨拶を返すと、村長がすぐに説明を始めた。

「これは、カレイド秘伝のオレンジ・ジャムです。」

「ジャム?」

 シンシアが聞き返している間に、さっきまでリグルが問題を解いていた机にそれが置かれる。

「はい、この辺じゃ、作っているのはカレイド村だけです。夏祭りのごちそうなんです。何に乗っけてもおいしいです。」

 ミーアが、中をキリカに見せている。

「キリカ?」

 様子を聞きたくて声をかけると、キリカが意を汲んで答えてくれる。

「オレンジの皮が薄く刻まれて入っているようです。普通のジャムとは違います。」

 ミーアが誇らしげに言った。

「オレンジの皮がほろりと苦くていいんです。」

「売り物になりませんでしょうか。」

 ジドが言いだして、シンシアは一瞬言葉に詰まった。

「それは、頂いてみないとね。」

 シンシアが訪問先で何も口にしないことは、どこの村長も知っている。

「それにジド村長、これは村でだけ伝えている大事な伝統なのでしょう。売りに出してしまったら、誰かが真似をして同じものを作りだすわよ。」

「そんなことできません!」

 ミーアが力強く否定した。

「カレイドだけのもんなんですから、誰にもマネなんかできません。」

「ミーア、控えなさい。」

 キリカが厳しい声で制した。

 とたんにミーアはおろおろし始める。

「すみません、すみません、お嬢さまに、大声を……。」

「お帰りになりますか?」

 キリカの問いに答える前に、ジドが割りこんでくる。

「お許しください。お嬢さま。どうか、どうか。」

 ふう、とわざとらしく息をつく。

 十六才の女の子は、とかく大人になめられやすい。

「どうして村長はそれを売りたいの?」

 少しつき放した口調で言うと、村長はためらうことなく話してくれる。

「リグルです。リグルを学校にやりたくて。」

 シンシアはキリカと顔を合わせた。

 彼女を傍に寄らせると、手に持った扇を開き、二人の顔を半分隠しつつささやく。

「どう思う?」

「シンシアさまの約束を疑っているとも考えられますが、緊張して、元々の予定通りにしか行動できていない可能性もあるかと。」

「そうね。売るつもりらしいけど、方法は考えてないわね。」

「商売のことをわかっていません。」

 キリカの言葉は貴族の侍女らしいものではないが、これはシンシアのせいだ。

 法的に成人してから、ケルター領内の産物で多くの取り引きをしているのを、キリカは間近でみている。

 シンシアは一つだけ、キリカに指示をした。

「あとの話は、キリカに任せるわ。」

「わかりました。シンシアさまのご都合で、キリカにお声掛けください。」

 十六才の少女でも、貴族に生まれたからには、取らなければならない態度もある。

 ついさっき、シンシアに啖呵を切ったミーアは夫に身を寄せ、夫婦二人とも不安そうにシンシアを見ていた。

 シンシアは物憂げな表情を作る。鏡の前で侍女たちと練習した顔だ。ここではなく、貴族の社交場で使うための練習だったのだが。

「お嬢さまは、村長からの信用がないことを残念に思われています。」

 キリカの声はいつもより冷たい。

 ジドが慌てた。

「そんなことは、そんなことはありません。」

 耳を貸さずにキリカは淡々と続ける。

「さきほどミーアは誰にも真似できないと言いましたが、領主館の料理人に一口でも食べさせれば、同じようなものを作りだすでしょう。」

 ミーアが悔しそうに口元を引き締めている。

「リグルを学校へやるのに、どれだけの費用がかかるか分かっていますか?」

「え、それは…」

 村長は言葉を出し切るのを待ってもらえない。

「リグルを学校へやれるほどのジャムをどうやって作るつもりですか? オレンジはともかく、砂糖はどうやって手に入れるのです? どこで、どのように、いくらで売るつもりです? 私たちが知らないだけで、王都ではすでに同じ物があるかもしれませんよ。」

「王都……」

 村長が言葉をなくす。

「伝統は大切にするべきだとお嬢さまはお考えです。」

 二人の目がシンシアに向いた。

 そして、キリカがシンシアに提案した。

「お嬢さま、これは普通のジャムではありませんから、カレイド・ジャムと呼んではいかがでしょうか。」

 夫妻の目が驚きに見開き、キリカとシンシアの間を行き来する。

 シンシアは少し頭を傾げてから、頷いた。

「ありがとうございます。」

 キリカがシンシアに頭を下げ、夫妻へ言う。

「お嬢さまに持ち帰っていただきますか?」

 村長夫妻は何も言えずにいる。色々と言われて混乱しているのだろう。

「では、もう一度よく考えるように。お嬢さまのお力を借りたいのなら、館の料理人に届けなさい。」

 キリカの言葉が終わると、シンシアは立ちあがった。

「お嬢さまは、お帰りになります。」

 今度はシンシアの歩みを誰も阻まなかった。

 村長は別れの口上を述べたが、キリカだけが頷き、シンシアは反応を返さず馬車に乗った。

 

 領主館に向かって馬車が動き出してから、シンシアは大きく息を吐いた。

 こういうことは初めてではない。先々を考えずシンシアに頼みごとをする者は少なくないのだ。

「気位の高さって、どのくらい示したらいいのか、いつも迷うわ。」

 愚痴がこぼれる。キリカの方は少々怒っているようだ。

「そもそもこの忙しい時期に、お嬢さまが足をお運びになることがおかしいのですよ。フレイズの手紙にも、あんなに小さな子だとは書いてませんでしたし。それにミーア、お嬢さまにあんなふうに楯突くなんて。」

 怒りの種火はあちこちにあるようだ。

「誰かに任せられたらいいのだけど。お父さまに知られた時の事を考えると、巻き込みたくないしね。」

「お嬢さまは、無駄に行動力がありすぎます。セアラさまは良い方ですが、こういう影響をお嬢さまに及ぼすのは困りものです。」

 確かにセアラに出会ってから、シンシアは大人しい物静かなお嬢さまではなくなった。

 シンシアは微笑むと、馬車の隅によって体を預ける。少し疲れた。

「村長夫妻、王都という言葉に反応してたわね。カレイド・ジャム、持ってくると思う?」

 キリカは、淡々と言う。

「自分たちで王都まで売りに行くことなんて出来ませんからね。今ごろ、自分たちはどれくらいまずい立場になったのかということと、ジャムを売りたい欲を天秤にかけて、必死で考えてますよ。」

 それより、とキリカは続けた。

「よかったのですか? このままだと、カレイド・ジャムと名を付けたのは私ということになりますよ。」

 ジャムをめぐるやりとりで、シンシアがキリカに指示したのは、『カレイド・ジャム』と名付けることだけだった。

「名付けなんて誰がしたことにしてもいいじゃない。あれが『カレイド』の名をもつことが重要だもの。ジド村長は、あのジャム、持ってくると思う?」

 もう一度聞くと、キリカは肩から力を抜いて答えてくれた。

「気になりますか? 私はどんなものか見ましたし、ほろりと苦いらしいですから、料理長に伝えたら同じようなものが出来るのではないでしょうか。」

「王都に行くまでは待つけど」

 シンシアは親友の顔を思い出しつつ、目を閉じた。右腕が重い。

「オレンジ好きのセアラからも、聞いたことがないジャムだったでしょう。」

 とても眠くなってきた。

「王都に行ったら、セアラに聞いてみましょうよ。」

 もう目が開けられない。

「ディパンド伯爵家の、料理人の方が、オレンジ料理に、詳しい気がしない?」

「確かにそうですね。」

 キリカがショールを前から肩にかけてくれたのがわかった。

 からだがゆっくり沈んでいくような気がした。

「リグル、すごく頭がいい。王立学院に行けるかも…」

 ここで眠りがシンシアを捕えた。


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