会合 1
玄関ホールで、警護役らしき人にセアラが名を告げると、すんなり中に入れた。
殿下のお使いですと言った彼女は、いつもより少し声が高くて、緊張しているようだった。
セアラも緊張するんだと思ったら、シンシアも動きが堅くなる。
年長の男の人たちが、無遠慮な視線を向けてくる。好奇心に見ていていたり、不審そうだったり。
うっかり離れたりしないように、セアラの後ろにぴったり付いて歩く。
部屋な建物の東側にあるようだった。窓はあっても、そう明るくはない廊下を進んでいくうちに誰とも遭わなくなって、ほっとした。
「この辺りは会議室が多いの。人が少ないから、その分、気を付ける必要があるわ。空き部屋に引っ張り込まれないようにね。」
怖い事を言われて、足がすくむ。
「セアラはいつも一人でしょ。大丈夫なの?」
「いいえ、ここにも女官が配置されているから、彼女たちと一緒に行動するわ。」
それなら少しは安心できる。
「ひとりにはしないけど、シンシアも私から離れないように気をつけてね。」
「わかったわ。」
誰もいない静かな廊下が不気味に思えてくる。
「二階なのだけど」
そう言って、セアラが階段前で足を止めた。声が幾分低められている。
「シンシア、肩の具合はどう? 痛まない?」
急に心配されて、少し驚いた。
「大丈夫よ。痛み止めも飲んで来たし、大きく動かさなければ、そんなに痛くはないわ。」
「腕を吊る布、持ってきてる?」
シンシアが持っている手提げ袋はいろんなものを詰め込み過ぎて大きく膨らんでいる。
「持ってるけど。」
「じゃあ、今付けてしまいましょう。」
「今?」
「部屋の中では、沈黙を守って欲しいの。部屋にはそれぞれドアがついているけど、二間続きなのよ。物音をたてると気付かれるわ。」
全く勝手のわからない場所に来ている。セアラの言葉に従うのが妥当だろう。
「わかったわ。」
以前にもセアラに腕の飾り布を付けてもらったことがあるから、痛くされる心配はない。セアラが注意深くシンシアの右腕を楽にしてくれた。
それから静かに歩き、目的の部屋に向かう。緊張で、動きがぎこちなくなってくる。
セアラの背中からも緊張が感じられる。その手が、大きな音を立てないよう、注意深く鍵が開ける。
部屋の中にはいると、そっとドアが閉められた。
静かだ。
大きな机と椅子が四脚。壁に絵画が五枚かけられている。
船出を描いた絵の前にだけ、ペンや紙などの筆記のための道具がおかれたティーテーブルと二脚の椅子が置かれていた。
シンシアは、セアラに手招きされて、そこへ向かう。
セアラが額縁の左側に手を差し入れ、何かをしているようだった。その後、音もなく絵が片開きのドアのように手前に動いた。壁がそこだけない。見えているのは、絵の裏側だ。
普通の二間続きではなかった。
物語では、主人公はこういうところから、愛する人の裏切りを知ったりする。物語の世界でしか知らない仕掛けだ。ケルター邸にはない。いや、ないと思う。目の前で見せつけられると、知らないだけかもしれないという気がしてきた。
「ご提出頂いた書類にも、お話しいただいたこと以上のこと何もないですね。」
バラカ男爵の声に、思わず固まった。
部屋に入ってから何も聞こえなかったのは、書類の確認をしていたからのようだ。
セアラに手で座るように示されて、音をたてないように緊張しながら、なんとか椅子に落ち着く。
その間もバラカ男爵の話は続いていた。
「お借りになられたものの具体的な返済方法がありませんね。援助の内容もはっきりとしていませんし、先方との約束を裏付ける手形どころか、念書もありません。これらの話は子爵の希望であって、援助してくれると名を上げた方々と話がついていないのではありませんか。」
丁寧だが、厳しい追及だ。シンシアの胸がまた緊張で占められる。
「突然のお話でしたので、まだ手続きが整っていないだけです。問題はありません。」
父が淡々と答えている。
兄も一緒にいるはずだが、大丈夫だろうかと心配になる。
そしてカイル・キルティ。彼もこの場にいるはずだが、声は聞こえない。
「前回お話しした通り、我々はケルター子爵領をこの目で見ました。人頭税は下げられるでしょう。夏の納税も来年まで延ばすことが出来ます。けれど、来年、全額収められるとはとても思えません。」
「収めます。」
父は言い切ったが、監査部は甘くない。
「根拠をお聞かせください。」
机で軽い音が鳴った。シンシアにもなじみ深い音だ。書類が机の上で整えられている。
「ご令室のご実家からお借りになることはできるでしょう。けれどご令嬢の婚約者から援助を得るとは、少し無理のあるお話ではありませんか。」
自分が嫁ぎ、その嫁ぎ先から援助を得る事が前提の計画になっている。
「娘は一年以内に嫁がせます。」
父が断言する。
「エンダル子爵ですか。」
書類がめくられる音がした。
「この文書の中にお名前は出てきていませんね。縁談は成立していないのではありませんか。」
シンシアは真剣に聞き入っていた。自分の将来に関することだ。
「個人的な事ですが、私も納得がいきません。」
カイルの声だ。体中の熱が上がるのを感じる。
「私はご令嬢に求婚をしています。お話しする機会を待っていましたが、すでに父の許可を得て、親族とも話し合い、シンシア殿をお迎えする賛同を得ています。」
本気で考えてくれていた、そう思うとなんだか夢を見ているようだ。怖いと思う気持ちもある。
王太后さまにお会いしたあたりから、シンシアの日常からかけ離れたことが起こっている。
「このような場で申し上げる事ではないとわかっていますが、シンシア殿との結婚をお許しいただきたい。」
父がどう答えるのだろう。どこか他の人のことのように感じながら、シンシアは待っていた。
しばらくの沈黙の後、父が発した声は、それまでの淡々としたものではなく、低く強張っていた。
「娘は田舎育ちです。侯爵家に嫁げるほどの教養はありません。」
強く目を閉じた。確かにそうかもしれない。けれど聞かされれば傷つく。
「ご謙遜を。」
バラカ男爵が驚いたように言う。
「シンシア殿は、才媛でいらっしゃる。王立学院を素晴らしい成績でご卒業になり、法律士と会計士の資格もお持ちではありませんか。」
「それは、本当ですか?」
ディーンの動揺した声が聞こえた。
セアラがペンを取った。
『本当に知らなかったのね。びっくり。』と紙に書かれた。
「口さがない者は、身分の違いを言い立てるかもしれませんが、そういう者たちは、そうでなくても色々と言いだすものです。」
前に会った時は最後まで難しい顔をしていたバラカ男爵が味方をしてくれている。固まっていた気持ちの前に、小さな灯りがともった気がした。
「どなたかとお間違えではありませんか。娘にそんなことが出来るはずがありません。」
父の声が険しくなっている。
「間違いありません。レンカート殿下が学院におられた頃です。殿下もご存じです。」
冷静なカイルの声。けれどこれには、シンシアが冷静になれない。
殿下が自分のことを知っている。確かにセアラの友人だから、名前ぐらいは知られているかもしれないが、シンシアは出来うる限り会うのを避けていた。
動揺してシンシアを見た。それからペンを取る。
『殿下が?』
その下にセアラが書く。
『女学生は少ないから、全学生に把握されてるわよ。』
知らなかった。自分はなんて間抜けだったのだろうと、シンシアは肩を落とす。
「ご令嬢はまだお若い、これからのご成長が楽しみですね。」
バラカ男爵の言葉は、父に向けられたものだったが、シンシアを慰めてくれるようだった。
「たとえそうでも、娘には侯爵家に嫁ぐ資格はありません。」
腕が不自由な事を言われているのだろうか、シンシアは右腕をかばう様に左手を添えた。
「どんな資格が欠けていると思われるのですか。」
シンシアが聞きたくて、けれど聞けないだろうことをバラカ男爵が聞いてくれる。
父は沈黙した。
「話していただけないのでしたら、侯爵家も納得できないでしょう。すでに親族会議で賛同までしているそうですから。」
父の大きなため息が聞こえた。
それでもまだ沈黙が続く。
どうせ嫌な事を聞かされるに違いない。この会合本来の話に戻ってほしかった。
「シンシア殿のご結婚については、またの機会と致しましょうか。」
バラカ男爵が早々に根負けしてそう提案してくれた。
少し安堵する。大事なのはケルター領の窮状をどう救うかだ。
けれどカイルは引かなかった。
「いえ、私はお聞きしたい。何故、資格がないなどと仰るのです。」
そこまで思ってくれるのは嬉しいが、戸惑いも大きい。
また長い沈黙が始まるのかと思った時だった。
「あの子が生まれた時、ケルター領は多くの人命を失った。」
父がどこか投げやりな低い声で話し始めた。
「たくさんの子どもたちが父を失って苦労し、子を失った親が悲しんだ。人の手が入らず大地は荒れていき、誰もが荒んでいった。そんな中であの子だけが幸せになどなっていいはずがない。」
何を言われているのかわからなかった。
「すべての悲運を背負った子なのです。」
父がシンシアに無関心だったこと、面倒ばかり起こすと言ったのは、この考え方のせいだったのだろうか。
幸せになってはいけないとはどういうことか。
シンシアの心の中で悲しみよりも怒りが膨れる。
エンダル子爵に嫁ぐことが幸せにならないためのだというのなら、エンダル子爵に対して失礼にもほどがある。
セアラの手が、シンシアの握り締めた手に置かれた。
彼女を見ると、ゆっくり横に首を振られた。少し呆れているようにも見える。紙に書かれた。
『馬鹿げてる。』
そう思ったのは、セアラだけではないようだった。
「何を言っているのですか、父上」
ディーンのただ驚いている声が聞こえた。バラカ男爵の愉快そうな声が続く。
「ケルター子爵は迷信深い占い師のようなことをおっしゃる。シンシア殿は戦さが終わった後に生まれられたのでしょう。」
「冬一月です。」
ディーンが答えている。
「会戦があったのは、その前年の秋二月ですよ。国境線の異変がわかったのは、夏二月。ジゼット王国が我が国の国境越えを狙い始めたのは、陛下が即位されてすぐだろうというのもわかっていることでしょう。ご令嬢はまた、ご令室に宿ってもいない。ケルター子爵は、ご令室がご懐妊されたことが、戦を引き起こしたとでもおっしゃるおつもりですか。」
そうだと言ったら、即刻医師が呼ばれるだろう。
沈黙がまた来た。
父が、自分の主張が正気を疑われるものであることに、気付いたのだと思いたい。
「話を戻しましょうか。」
バラカ男爵の落ち着いた声が、シンシアの動揺も落ち着かせる。
まだ、シンシアたちにとっての本題に入っていない。
セアラの手の中のペンが動いた。
『お茶を用意すればよかったわね。』
シンシアの心の中で膨れ上がったあの怒りは、もう霧散していた。