朝の手紙
昨夜は眠りが浅く、何度も目が覚めた。
それでも、家を出ようという気持ちは小さくなっていた。
いつもの時間にベッドから出て、朝食を食べる。母やキリカたちを安心させるためだ。
それからセアラへの手紙を書いたのだが、そっとため息をついた。
夜に書いた手紙はとても感傷的で、朝になって読み返すと恥ずかしい。そういう話はよく聞くし、シンシア自身も経験がある。
朝を待って冷静に書き綴ったつもりだが、夜の気持ちが続いていて、何を書いても感傷的になっている気がした。
結局書きなおさず、シンシアは思い切って手紙を封筒に入れる。
急ぎで王城のセアラに届けるように頼む。
カイルとは、お花のお見舞いを貰ってから文通が続いている。誰が聞いても、清く正しい交際ねと苦笑するだろう。
その彼に、縁談のことを知らせる手紙は書けなかった。
夜中に降った雨が道にぬかるみを作っている。
散歩に出ることも躊躇われて、部屋でぼんやりしていると母がやって来た。
昨日聞かされたケルター領の窮状とシンシアの縁談は、母にとっても衝撃的だったのだろう。珍しく行動力を発揮して、兄に詳しい状況を確かめに行ったそうだ。
「シンシアの言った通りだったわ。私の実家にも借金の申し入れをしたそうよ。無利息無期限で。けれど全部は補えないから、シンシアにお嫁に行って貰って、貸してもらえる先を増やしたいということみたいだわ。」
なんて杜撰な計画だろう。
「エンダル家からの求婚は本当にあったんですか?」
「それは間違いないわ。どこかの夜会でエンダル子爵が、シンシアみたいな真面目な娘は好ましい。後添えにしたいって言ったそうだから。」
「お母さま。」
シンシアは本当に情けない気分になった。
「それは、お酒の入ったエンダル子爵が、社交辞令と冗談を織り交ぜてお話になったことではないのですか? それを真に受けて求婚と解釈したら、先方にご迷惑でしょう。」
「そうかしら。少なくとも、シンシアの事を気に入っていなければ、こんなことは言わないでしょう。」
小首をかしげる母は、本気でそう思っているのだろうか。
「カイル・ケルティ卿には、お話にならなかったのでしょうか。」
思い切って言ってみた。恥ずかしさと情けなさで体中の熱が上がったように感じた。母が身を乗り出した。
「そうよね。侯爵家ならエンダル子爵よりずっと頼りになるわよね。私もそう思ったわ。けどディーンは、キルティ卿については何も聞いていないそうなの。まぁ、キルティ卿に借金を申し入れるのもね、言い出しにくいわよね。」
「そうですね。」
相槌を打ちつつ、借金したいことを一番言いやすい人に、縁談を持ちかけたということなのかと考えた。
はっきり言って情けない話だ。
「お兄さまも、お金を貸してくれそうな家の方と結婚するのですか?」
母が眉を下げた。
「ごめんなさいね、シンシア。ディーンは、文官になるのをあきらめる代わりに、結婚はすぐに決めないとお父さまと約束したのですって。」
ディーンは、エレーナとの結婚をあきらめるつもりはないだろう。
けれどディーンが領地暮らしをするようになれば、王城で警護役侍女をやりたいエレーナと距離が出来る。
一つ息をついて、シンシアは兄たちの問題は頭の中から追い払った。自分にできることはない。
このあとシンシアは、母が部屋を出て行ってくれるまで、相槌を打ち続けた。
夕刻、セアラ・ディパンドが突然やって来た。
「お約束もなしに訪れた無礼をお許しください。」
優雅な立ち居振る舞いと穏やかな声は、セアラの社交用の淑女な顔だ。
「ようこそおいでくださいました。ディパント様でしたら、いつでも大歓迎ですわ。」
母も社交用の頬笑みで対応している。
一連のご挨拶のお作法が披露された後、シンシアはセアラを自分の部屋に招いた。
「来てくれるとは思わなかったわ。」
「手紙のやり取りでは時間がかかるでしょう。でも今日の午後、まだ仕事があったから遅い時間になってしまったわ。明るいうちに帰りたいから長居はできないの。ごめんなさい。」
たくさんの花がある部屋を見まわしてから、セアラは勧められたソファに座った。
すぐにキリカがお茶を出してくれる。
「手紙を読んで、心の底から驚いたわ。どうしてエンダル子爵家なのかしら。」
「援助を頼むつもりらしいの。」
力の抜けた声だと自分でも思う。
セアラが呆れた顔をしてる。
「それなら他に確実にお金を引き出せる家があるでしょうに。キルティ侯爵家とか。」
言葉を選ばない言い方に、頬を紅潮させつつ、シンシアはため息をついた。
「セアラ、そんな露骨な言い方……。」
キリカが部屋の中にいる。控え目な言葉を選んでと心の中で願ったが、通じなかった。
「エンダル子爵では、大きな金額を出せないでしょう?」
「でも父は、母や兄にそう言っているのよ。私も、エンダル家はそこまで余裕があるとは思えないのだけど。」
「そうすると、純粋に縁談? でもシンシアはまだ十六よ。カイルという求婚者もいるのに、焦らなくても大丈夫だと思うのだけど。」
「父が何を考えているのか、私には全くわからないわ。」
ふたりしてため息をついた。もしかしたら、壁際のキリカも内心で一緒にため息をついていたかもしれない。
「心配し過ぎないで、シンシア。婚約届が貴族院に出されても、身分差や年齢差が大きければ、面談が行われるのが慣例だもの。許可願は、すぐには陛下まで届かないわ。カイルが本気なら、その間になんとかするわよ。」
「本気、なのかしら? それはそれで少し怖いのだけど……。」
セアラが少し考えるような表情を見せた。
「その不安は、これからカイルやキルティ侯爵と会って行くうちに解消できるのではないかしら。シンシアが嫌なら、そう言えばいい事だし。」
「言えない! いろんな意味で言えない!」
思わず大きな声になってしまった。
セアラがにっこりと笑う。
「どの縁談もあまり心配しないでおきましょう。来月すぐに結婚、という訳に行かないのは間違いないから。」
「セアラが来てくれただけで、安心できたわ。ありがとう。」
今日ここへ来るために、セアラはきっと無理を通したはずだ。すぐに来てくれた友人を心強く思わないわけがない。
縁談のことはまだ時間があるから置いておくとして、もう一つの時間がかかり過ぎている問題について尋ねた。
「ロークの事なのだけど。」
カティス子爵夫人からの手紙や、母の見解を伝えた。
「母が社交で得た知識の方が、私が学んだ知識より確かだったわ。私、『領地警護役』という道があるのに気付かなかったの。セアラも言ってなかったわよね。」
セアラがとても困ったような顔になった。
「私の言葉が足りなかったわね。『王都見廻り』で見逃してやれと言う人と、『領地警護役』くらいで済む話ではないから『辺境行き』だろうって人たちがいるのよ。」
「前例から言えば、『領地警護役』ではないの?」
「シンシアのお母さまの記憶は正しい。けれどその前例って、殿方同士の間で起った時のことだと思う。今回は、その日正式に社交界デヴューをした、何の非もないか弱いご令嬢が相手でしょう。しかも王家主催の夜会でよ。だから厳しい処罰を求める声が多いの。」
「そう。それでもこんなに時間が掛るもの?」
「……人の考え方は、いろいろだから。」
セアラが、どこか悲しそうに見えて、それ以上聞きにくくなってしまった。
「シンシア、ごめんなさい。私、帰らなくてはいけないわ。」
窓から見える空の色を見て、セアラが立ちあがった。
「ちゃんとシンシアの顔を見て、大丈夫だと言いたかったの。」
それから、セアラの声が小さくなった。確信に満ちた目を向けられる。
「あとひと月ほどの我慢よ。全部ひっくり返してしまいましょう。」
ひと月後には、領地管理人を確認する会合が、監査部との間で行われる。
監査部の提案であるセアラの計画を、ケルター家が撥ねつけることはできないだろう。これで資金に問題がなくなれば、エンダル子爵との結婚の理由はなくなる。
「縁談の件、カイルに伝えておくわね。他から耳に入って、暴走されたら困るから。」
顔が熱い。
「よろしくお願いします。」
頼りになる友人にシンシアは頭を下げた。