アディードという国
どこの国でもきっとそうだろう。
アディード王国にも明文化されていない『しきたり』がいくつも存在する。
たとえば、未婚の貴族女性は、自分より上位の貴族に行儀見習いの侍女として数週間から数カ月滞在するというものがある。この慣習が始まった当時は、本当に礼儀作法を学んでいたそうだ。けれど今はどこの家でも娘に礼儀作法を身に着けさせることができるようになったから、『行儀見習い侍女』といっても客人扱いで、その家の奥方の話し相手を務める程度なのが実態だ。
こんな常識もある。
貴族女性が働くことは好ましくない。だから女性が高い教育を受ける必要はないというものだ。
しかし実際は、働く貴族女性は少なからず存在する。
助産師や医師、薬師、会計士もいる。認定試験が必要な職に就けるのは、『女性は高等教育を受けない』という常識の元、認定試験の資格に性別が明記されていないからだ。
逆にはっきりと明文化されているものもある。王家に仕える侍女だ。伯爵家以上の既婚者とされている。行儀見習い侍女の慣習が、形骸化しつつも残っているのは、王室に勤める侍女への風当たりを弱めるためだ。
早く大人になりたい。大人になれば領民のために何かできるはず。
それが、九才のシンシアの一番願いだった。この頃には、ケルター子爵領がとても貧しい事に気づき、そうなった理由もわかり始めていた。
その年の秋に招かれたカース子爵家の園遊会が、シンシアにとっての転機となった。
最初はいつもと変わりない集まりだと思っていた。
いつものとはいっても、カース子爵家は古い家柄で、儀礼に通じ、それを代々守り伝えている家だ。子供のための園遊会といえども、お行儀が悪ければ招待状は来なくなる。
カース家の三女アルティアは、シンシアと同い年で、仲の良い幼馴染みだ。だからアルティアの良き友であるとカース家の大人たちに思ってもらうために、不作法はできない。家の評判を落とさないためにも、カース子爵家の園遊会は、他家のそれより緊張感を強いられた。
玄関ホールでカース子爵夫人に穏やかに迎えられ、母はそのまま大人たちのサロンへ行き、シンシアだけが子どもたちが集う庭に面した広間に通された。
いつもなら、皆お行儀良くはしていても、女の子ばかりの園遊会だから、広間はそれなりに賑やかだ。けれど今日は、妙に静かだった。
理由はすぐに分かった。
ひとり、見知らぬ少女がいる。本に目を落としている彼女を、みんな遠巻きにして気にしていた。
シンシアより少し年上だろう。淡い金色の髪に、整った容貌。けれど、シンシアの母が好むような『可愛い』雰囲気はない。落ち着き払った佇まいは、高貴な人という印象を与えてきた。
目を奪われていると、アルティアに声をかけられた。
「ごきげんよう、シンシア。」
知らない美少女から、親友の方に気持ちが向く。礼儀正しくしなくてはいけない。
「アルティア、ご招待ありがとう。」
笑顔で言葉を交わし、お目付け役のカース家の家庭教師にも挨拶をする。型どおりのやり取りだけれど、出来て当たり前とされることだから、緊張しないわけではない。
カース家の家庭教師に笑顔で挨拶を返されるとほっとすると、今日初めて見たきれいな女の子が気になり始める。
知り合いの女の子たちに、声をかけて回り、一区切りついたところで、やっとシンシアはとアルティアを内緒に誘った。
「あの方、どなた?」
何より先に、シンシアはアルティアに聞く。
「セアラ・ディパンド伯爵令嬢よ。伯爵位の方が来て下さるなんて本当に久しぶり。」
たいていは自分より上の爵位の家に招かれたいと思うものだ。地縁や血縁でもない限り、格下の家の招きは遠まわしに丁重に断られる。
「セアラ様は王立学院に入られたから、お目に掛れる機会が少なくなるって噂されていたのよ。なのに目の前に。初めてお会いするけど、本当にお綺麗よね。読んでいらっしゃるのは私の本なの。」
アルティアの頬が紅潮している。大人の目を気にして頑張って平静を装っているが、内心では興奮していたようだ。
気持ちはシンシアにもよくわかる。
シンシアたちは、次代の王となる方と世代が近い。
セアラ・ディパンドの兄は、第一王子の学友だ。彼女と友人になれれば、高位貴族どころか王家の方と言葉が交わせるかもしれない。彼女に近づきたいと思う人は多いだろう。
アルティアは単純に、嬉しいだけのようだ。うっとりと眺めている。
「お美しいわよね。私も、父が許してくれれば王立学院について行きたい。」
アルティアがため息をつく。彼女の家は、女性に高等教育は必要ないと考えている。それはシンシアの家もあまり変わらない。
「挨拶に行ってもいいのかしら。」
シンシアが聞くと、アルティアが力強く頷いた。
「もちろんよ。ご紹介するわ。」
ふたりで近づいて行くと、伯爵令嬢が気づいて椅子から立ち上がってくれたのには驚いた。声をかけるまで知らないふりをされると思いこんでいたからだ。
アルティアが丁寧にかつ正確な作法でシンシアを紹介してくれた。
セアラ・ディパンド伯爵令嬢は、優しい笑顔を見せてくれる。下心があるなんて、九才のシンシアには全くわからなかった。
「ケルター子爵領はアディードの南方ね。南の地方にはとても興味があるの。少し外の風に当たりたかったところよ。ふたりでお話ししながら歩かない?」
突然の申し出に、シンシアは思わずアルティアを見てしまったが、彼女がシンシアを見る暇はなかった。セアラが話しかけたからだ。
「アルティアさん、こちらの本はあなたもお読みになったのかしら。」
「はい。私の本です。」
アルティアが目を輝かせて答えている。
そう、とセアラは微笑んだ。
「では、あとでこの本についてお話ししましょう。今はお友だちを少しお借りしてもいいかしら。」
「はい。セアラさま。」
セアラから本を受け取ると、アルティアは全開の笑顔になっている。
シンシアは、一緒に行ってくれないのかと、少し心細い思いでアルティアを見たが、笑顔のまま送り出されてしまう。
会ったばかりのセアラについて行くしかない。
庭にもいくつか日よけが作られ、いくつもクッションが置かれたベンチが据えられている。
誰かの目には入っても、声は届かないところまで来ると、セアラが手をさしのばしてきた。
「右手を貸して、シンシアさん。」
突然のことに戸惑っていると、右側に立ったセアラが、シンシアの右手を取り、自分の左に組ませてくる。
「セ、セアラさま?」
「力を抜いて預けて頂戴。その方が、右肩が楽でしょう? ゆっくり歩くわ。」
思わず手を引きそうになってしまった。それを押さえられる。
「私と親しそうに見えるのは都合が悪い?」
「そ、そんなことはありません。」
見上げると本当に親しみがこもった笑みがあった。
そして気付く。セアラからオレンジの香りがする。
ケルター領では果樹園のほぼ半分が柑橘類だ。シンシアには身近な香りだ。
そう思ったら、親しみを感じる。その勢いで聞くことができた。
「どうして私の右肩のことをご存じなのですか?」
「私、オレンジが好きなのよ。」
全く違う話が出て来た。
シンシアは、それでオレンジの香りの香水を使っているのかと納得しながら、自分の質問を繰り返していいものか迷った。
けれどシンシアが何かを言う前に、セアラが話し始めた。
「ディパンド伯爵領は北方地方にあるから、林檎は実るけど、オレンジは育たないの。ケルター領には、オレンジを育てるのに、どこよりもいい場所があるの。私が調べた南の地方の地形の中では、最高の条件を備えているわ。育て方も調べたのよ。実際に他の領地のいろんな果樹園を見せてもらいにも行ったわ。」
だんだんとセアラの語りが熱くなってくる。
とにかくオレンジが好きな事、種類や利用方法、育て方に収穫期。流通経路や商品としての価値。
シンシアは圧倒されて、ただ聞き役に回るのみだ。
そのうち、母に似ていると思ってしまった。
母が可愛いものについて論じるときと同じだ。目がきらめいて、好きな事について話すのに夢中になる。
使われる言葉は難しくて、シンシアには理解が及ばないこともあったが、その情熱はとてもよく伝わってきた。
セアラが、一旦言葉を切って、ため息をつく。
「だけど今まで、ケルター家の方とお近づきになる機会がなくて。大人なら大きな社交場で知り合う機会を作れるけど、子どもは親の人脈に頼らざるを得ないでしょう。カース家から招待状が来たと知って、すぐにお返事をしたわ。カースのアルティアさんと、ケルターのシンシアさんは幼馴染みだって知っていたから。」
オレンジのために、ケルター家の事情まで調べたのだろうかと疑問に思う。しかし母が時々情熱を暴走させることと同じだと思えば、納得はできなくもない。シンシアの腕の怪我の事もその時に知ったのだろう。
「きっとあなたに会える。そう思ったから、今、私ここにいるのよ。」
まるで恋愛小説の告白の台詞のようだ。シンシアはただセアラを見上げる。
「オレンジを育ててもらえないかしら。苗木を用意するわ。方法はお教えする通りにして欲しいの。勝手だと分かっているわ。けれどお願い。私、本当にオレンジに夢中なのよ。」
その情熱はもう充分に伝わっていた。
けれど、自分もセアラと同じ不自由な子供の身だ。
「私にお手伝いできるでしょうか。」
「出来るわ。」
断言された。どんな根拠に基づくのかはわからない。
「準備はすべて私がして届けるわ。シンシアさんは、果樹園の管理人に、お友達のためにオレンジの樹を育てる。そう言ってくれるだけでいいのよ。」
「それだけですか?」
「それだけよ。シンシアにわがままを言わせてしまうことになるけど、意外に大人は面白がってくれるものよ。」
ずいぶん楽観的だ。大丈夫なのだろうかと、シンシアは内心で首を傾げた。
座りましょうと言われ、誰もいない日よけの幕の下を選び、ソファに並んで腰掛けた。
「ケルター子爵領で一番いいと私が思っている場所は、シアーズなの。」
セアラの言葉に、すぐに返事が出来なかった。
「それは、むずかしいです。」
はっきり無理ですと言えず、シンシアは言葉を選んだ。
シアーズは確かにケルター子爵領の一部だが、隣のオーガス侯爵領の中にある飛び地だ。
ケルター子爵領内を巡回しているシンシアだが、シアーズにはまだ行ったことがない。オーガス侯爵と父が疎遠なため、行きにくいのだ。
「大丈夫。オーガス侯爵夫人と話はついているの。ご紹介するわね。」
セアラの言葉がうまく理解できずに、シンシアは彼女の美しい顔を見つめる。
「ケルター子爵は黙っていれば、気付かないわよ。近いうちにシンシアさんをお茶会にご招待するわね。ご家族の皆さんにはオーガス侯爵夫人のことはまだ内緒よ。」
決定事項のようだ。シンシアは戸惑うことしかできない。
「内緒にしなければいけないのですか?」
「だって面倒でしょう。私はおいしいオレンジが欲しいだけなの。」
やはり母の可愛い物好きと同じだ。こういう場合、反論は通用しない。
嘘を上手につけるだろうか。シンシアは少しうつむいてしまう。
「嘘をつくわけじゃないわよ。」
まるで心を読んだように、セアラが言った。
「私のところに遊びに来て何をしたか、お母さまに話していいのよ。ただ侯爵夫人とオレンジの事だけ黙っていて。もし知られて怒られたら、私のせいだと言ってすぐに呼んで。一緒に謝るから。」
だからお願いと懇願されたら、シンシアにもう嫌だとは言えなくなった。
絶対おいしくなるとセアラが言いきるオレンジにも、興味が出てきてしまっていた。
「わかりました。一緒に叱られてくださいね。」
「もちろんよ。ありがとう。」
そうしてセアラが見せた笑顔は、礼儀として身に付けたものではなかった。体中で喜びを表している。
こんなに喜んでもらえるなら黙っていることができそうだと、シンシアも笑顔になってしまう。
「お願いを聞いてもらうのだから、私も何かあなたの役に立ちたいわ。」
セアラが瞳を輝かせて言ってくれる。
けれど、シンシアは言葉を継ぐことが出来なかった。
彼女や母のように何かを大好きで行動したいと思ったことがない。
いや、行動したいとは思う。ケルター領のために。けれど子どもの身では難しい。
「私の願いは、早く大人になることです。」
シンシアが小さな声ではあったけれど口にできたのは、セアラが先に心を開いてくれていたおかげだ。
セアラも、大人なら機会があるのにと言っていた。
この気持ちがわかってもらえるのではと思った。
シンシアの側には、自分にあまり関心を向けてくれない家族と、優しすぎる使用人しかいない。
けれど、セアラが口にしたのは共感ではなく、現実的な言葉だった。
「わかるわ。子供のうちは商取引をひとつ成立させるのも大変な苦労があるものね。」
商取引という言葉が、シンシアにはすぐには理解できなかった。
セアラは、うんざりというようにため息をついていた。
「私、自分の林檎園を持ってるの。新しく王都の商会と取り引きをして、販路を拡大したかったのだけれど、父がなかなか頷かなくて。父もわかっているのよ、その方がいいって。でも女の、しかも子供である私に、それを言われたのが気に入らなかったのね。自分の誇りや名誉を傷つけられたと感じたらしいの。面倒くさいと思わなくて? 私の林檎の新しい売り先をひとつ決めるだけなのよ。私が大人だったら、父に一々お伺いを立てなくていいのにって切実に思ったわ。」
美しい伯爵令嬢を、シンシアは改めて見た。
大人だったら何かできるだろうに、そう思っていた。
けれどセアラのように、具体的に何ができるかを考えたことがなかった。
今、気付かされた。
ぼんやりしているうちに、セアラがシンシアの方に少し体を傾けて来た。
「十八才にならなくても、法的に大人になる方法があるわよ。」
密やかな声と、何かを企んでいるような目。
「王立学院を卒業して、法律士とか医師とか、王国が認定試験を行う資格を取得するの。」
セアラが通う王立学院内では、『法的に大人になる方法』は有名な話らしい。
世の中にはいろんな事情を抱えた人がいて、そのための法がある。
成人でなければ後継者と認められないため、爵位の後継者候補を確定させるために存在する方法だ。
王立学院は、学力さえあれば誰でも入学できる。貴族だけでなく庶民もだ。入学するために必要なのは、相応の学力と六親等以内の親戚の後見だけである。六親等内というのは、子どもの無い爵位をもった貴族が後継者選びをしやすいようにという配慮から決められた。子供の両親に了承を得る必要もない。
女性が入学できるのは、『女性は高等教育を受けない』という常識によって、性別の制限を明文化していないからだ。
同じ理由で国が行う認定試験の受験資格にも性別制限はない。
この二つを乗り越えれば、十八才に到達していなくても法的に成人となる。大人と同等の能力があると証明されたことになるからだ。
シンシアの中から、感傷的な気分が吹き飛んでいった。
ケルター子爵領が貧しいとか、親に構ってもらえないとか、女の子には何もできないとか、早く大人になりたいとか……。
セアラが教えてくれた現実は、シンシアが今まで知らなかったことだった。
身分も性別も関係ない、アディード王国内でただ一つ、すべてが実力主義の場所。
王立学院。
ただし、とセアラが言った。
「女学生は少ないわ。だから私たちには掟があるのよ。」
セアラは、優しい笑みを浮かべている。
「嘲りや蔑みにひとりで耐えず、必ず他の女学生に相談すること。そして相談されたら必ず親身になって寄り添うこと。」
「助け合うということですね」
「そう、仕返しする場合もあるけどね。」
「え」
いきなり怖い話になって、シンシアは固まる。
「大丈夫。シンシアが嫌なことをしたり、させたりはしないわ。」
セアラは笑って辺りを見回しながら、話題の方向を少し変えた。
「どこの一族にも変わり者はいるでしょう。後見人になってくれそうなご親戚の方はいる?」
庭には、子どもの付き添いでやってきた大人たちが出てきていた。
その中のひとりの女性に、シンシアは目を止めた。一族内の変わり者、そう呼ばれている人が運よく目の前にいる。
「祖母の妹って、大丈夫ですよね。」
セアラに確認する。
「そうね、うん、四親等、かな。」
「行ってきます。」
この時の出てきた行動力のことを、シンシアは、後々ずっと自分でも不思議に感じることになる。
「待ってるわね。」
セアラの言葉にいろんな意味を感じていた。
困難を乗り越えるだけの意志と能力。それを幸いにして、シンシアは持っていた。
けれど、三百本ものオレンジの苗木が送り付けられて大慌てをすることになるとか、王立学院で王家の人たちと親しくなり過ぎないように逃げ回ることになるとか、セアラとふたりで泣きそうになりながら勉強をするとか。そういうことは、全く想像していなかった。
使用人たちが協力してくれて、領主である父の目を避けて商取引を行うのも、領民たちの生活を変えて行くことになるのも、学院に入ってからのことだ。
十才で学院に入学した。
十四才の夏、卒業して法律士の資格を取り、法的に成人になった。
翌年には会計士の資格もとって、やりすぎだとセアラに呆れられた。
十六才になった今も、家族はそのことに気づいていない。
アディード王国では、女性の地位は低い。今は。