気持ちの行方
アディード王国の周辺の国々でも、冬至を一年の終わりとし、翌日から新年が始まる。
春分、夏至、秋分までの期間を三つに分けて、一年を十二ケ月とするのが一般的だ。
国によって、それぞれの月の名前の付け方は違う。
アディードでは、冬至の翌日から春分までを、冬一月、冬二月、冬三月と呼ぶ。それぞれの期間に一月から三月までがあることになる。
今日は春二月最後の日だ。
監査部からケルター子爵への警告が行われるのは、シンシアの正式な社交界デヴューの後という約束だった。
とんでもないデヴューになってしまったが、予定に変更はない。
昨日の夜は、緊張でよく眠れなかった。
そして昼下がり、今頃父は監査からの呼び出しに応じているはずだ。
シンシアは落ち着かない気持ちのままじっとしていることが出来ず、他の事を考えることで頭をいっぱいにすることにした。
自分の右腕を支えてくれる飾り布をテーブルに並べた。刺繍が施されているものばかりだ。
子どもの頃に使っていたのを見ると、あまりの小ささに、自分のことながら痛々しい気分になる。けれど今はそんな感傷は少し横に置いて、絵柄を良く見る。
「冬なら、これかしら。」
冬の花や雪の結晶が刺されたものを手前に置き直す。
「小物入れの柄に花以外のものを使うのは初めてですね。」
キリカが楽しげに眺めている。
「小物入れの袋にはいつも通り花をつかうつもり。コートの袖や襟にどうかと思って。」
「コートですか? お召し物まで作られるおつもりですか?」
キリカが驚いてる。呆れているのかもしれない。
「少し手を加えるだけよ。セアラが言っていたの。コートの袖や襟にこんな刺繍があったらいいって。」
「またセアラ様ですか。」
キリカが難しい顔をして見せてる。それに微笑んで、シンシアはキリカに尋ねてみた。
「キリカはそういうコート、欲しくない?」
キリカは困惑して目を泳がせた。
「私は……」
「刺繍がされていたら、素敵だと思わない?」
「シンシア様。」
キリカは困った表情のまま、シンシアを見た。
「刺繍が入ったコートなんて、そんな高価なものは手に入れることができません。」
はっきりと言われて、シンシアは返す言葉がなかった。
当たり前のようにいろんな色を何枚も持っている貴族と、彼女たちは違う。
「袖口だけならどう?」
シンシアは思い付きを口にした。
「例えば、指三本から四本くらいの幅で、茶色のコートなら焦げ茶色や少しくすんだオレンジ色を合わせるの。そこに刺繍をする。後は自分で縫いつけるだけ。」
「縫いつけるのは出来るでしょうが、袖口の大きさは決まっていませんよ。」
キリカが小首をかしげている。
「少し大きめに作るのよ。内側の角は丸くしておくの。それなら、どこで止めても様になるでしょう。」
いい考えだと思ったが、キリカの反応は良くない。
「誰もかれもが上手に刺繍が出来るわけではないと思うの。いいかと思ったんだけど。」
シンシアは、書き物机に場所を移し、イメージを絵に起こしてみた。
「こんな感じよ。」
キリカは、やっと納得したと言う顔をした。
「刺繍は控えめですね。」
「それは私に絵心がないせいよ。」
シンシアが笑うと、キリカが大きく首を横に振る。
「そんなことはありません。」
それを聞きながら、元のテーブルに戻った。
「小さな刺繍ひとつでもいいかと思うの。それなら袋物より、簡単にたくさん作れるでしょう。売れるかどうかはわからないけど。」
シンシアの描いた絵と飾り布の刺繍を、キリカが真剣に見ていた。
それに少し驚く。キリカは今まで、シンシアが作るものを、きれい、かわいいと楽しそうに見ているばかりだったからだ。
「シンシア様。」
キリカの声は、どこか重く沈んでいた。
「私たちは、お下がりや古着を着るんです。私も子どもの頃は、従姉妹のお下がりをたくさん貰いました。私が着れなくなったら、その服はまた別の従姉妹のところへ貰われていきました。古い服ですからすぐに着れなくなるものもありました。けれどコートは丈夫な生地で作られてますし、他の服に比べて高価ですから、なかなか捨てられませんでした。袖口が擦り切れてても、新しいものは買ってもらえなかったんです。子供の頃は、当て布をしてるのが恥ずかくて、早く大きくなって他のものが欲しいと思ったものです。」
こういう話は領地の訪問先でよく聞いた。けれどキリカから聞くのは初めてだ。
「シンシア様。もしこの袖を覆うのが、『お洒落なこと』になったら、当て布をしている子どもたちも恥ずかしく思わなくてすむかもしれませんよね。」
シンシアは迷わず肯定した。
「そうね。どんな糸でも少しあれば、小さな花を刺繍することもできると思うわ。それって楽しい気持ちになれるのではないかしら。」
キリカが楽しそうな顔になった。
「とても豪華なものを作ってもいいですよね。特別な日につけるんです。私、グレーのコートを持っているんですが、紺色の布に白い糸で雪の結晶を刺繍するのってどうでしょう。寒そうでしょうか。」
昔語りから一転して、今の楽しみに目を輝かせるキリカに、シンシアは微笑んだ。
「すてきだと思うわよ。」
それからしばらく、雪の結晶のデザインをふたりで考えた。
父が直面している事態のことから、少し目をそらすことが出来た。
あの日、父の帰りは遅かった。
けれど、それから十日。
邸内にも、家族にも何も変わったようなところはない。
セアラだけでなく、カイルとバラカ男爵からも、予定通り領地管理者変更を勧めたと連絡を貰っている。
けれど執事によると、父はいつも通りの日々を送っている。何かを調べ始めたと言うこともないようだ。
どうなっているのだろうか。父はどうするつもりなのか。
ケルター子爵邸内には何の波風もたっていない。
何も起こらないことに焦れながらも、シンシアは、コートの袖飾りの試作品作りを、キリカのコートを使って始めた。
アミタからガラス瓶が届いた。飾り文字で『カレイド・ジャム』と『ケルター領産』と書いたラベルを作った。カレイド・ジャムを詰めて、友人たちに贈った。カレイド村に、材料を添えて追加注文も出した。
ケルター子爵領でシンシアが管理していた果樹園からのオレンジと、調理用の小さい柑橘類であるカースの出荷も決まった。利益が上がれば、教師を増やせる。女性用雑貨の高級素材も仕入れられる。
アルティアは、カレイド・ジャムを気に入ってくれて、ラベルをいくつも作ってくれた。
シンシアが勉学に一心に取り組んでいた時、アルティアは淑女教育で音楽や絵、詩作などに勤しんでいた。
絵心のあるアルティアが、誰にでも描けるようにと考えてくれたそれは、単純な線のはずなのにとても美しい。どれにしようか、楽しく迷った。
重い肩の痛みと、動きの無い父へのいらだちを、そういうことで紛らわせていた。
母に呼ばれたのは、そんな時だった。
「ロークのことなの。」
やっと処罰が決まったのかと思った。日中をベッドで過ごすことはなくなったが、動かす練習を始めれば、相当痛むだろうと医者に言われている。
母の沈んだ表情は深刻そうだ。俯きがちで、シンシアを見ない。ロークのことだけではなく、父からケルター家の窮状を聞いたのだろうか。
シンシアは沈黙を守り、母の言葉を待った。
「カティス夫人から、処罰の取り消しを願い出てほしいと頼まれたの。」
心の中を冷たい柱が貫いたようだった。どうしてという疑問しか浮かばない。上手く声がだせない。
沈黙に耐えかねたように、母が胸に手を当てた。
「手紙が来たの。ロークが勘違いをしただけだって。だから水に流してほしいって。」
胸に会った母の手が握りしめられる。
「キルティ侯爵家とお知り合いになれたのだから、悪いことばかりじゃなかったでしょうとも書かれていたわ。」
怒りで息が詰まった。母の声が大きくなった。
「エレーナが同じ目に会っても、同じことが言えるの? そう返事を返したわ。」
驚いた。シンシアは、母の侍女を見、キリカを見、それから母に目を戻した。誰もが沈痛な面持ちをしている。
それが本当なら、母とカティス子爵夫人の長年の友情にひびが入るかもしれない。
子どもの時の怪我は、すぐになかったことにされたのに、今回は決裂を覚悟しているようだ。
そうなれば、ディーンとエレーナの仲にも何らかの影響がでるかもしれない。
「だいだい、どうして未だにロークが謹慎のままでいるのかわからないわ。」
母の怒りは、シンシアの知らないところで相当溜っていたようだ。
「勘違いですって? それで女子供に暴力を振るう者をどうして騎士と呼べるでしょう。しかも王城の騎士ですよ。聡明でなければ務まらないはずでしょう。領地に帰すか、辺境に行かせるのが当然だわ。」
確かにそうだ。王都見廻り役への降格が検討されているようだが、同様の事件では、領地警護役となる場合が多い。母を見直した。どこかの社交の場で知識を得ていたのだろう。
ふとセアラのことが気になった。王都見廻りか、北方辺境へ行くかどちらかで揉めていると言っていた。彼女なら、領地警護役の選択肢があることを口にしそうなのに、しなかった。
小さな疑問を思いついてしまったが、母が怒ってくれたことで、シンシアの心の中が冷たいものに支配され続けることはなくなった。
「お母さま、カティス子爵夫人とはこれまで通りのお付き合いはできないかもしれませんね。」
母の視線が大きく揺れた
「私が愚かだったの。」
「お母さま?」
思わず顔をのぞきこんでしまう。けれど母は視線を合わせようとはしなかった。その代わり、一気に話し始める。
「十六年前と半年ほど前よ。東の隣国ジゼットが国境線を越えようとしているからって、徴兵があった。ケルター家は文官の家よ。徴兵された者は、いつも隣の領地を治めるオーガス侯爵に預けられていたの。オーガス家は武門の家だから。けれどあの時ケルターとオーガスは長い仲違いの後、疎遠になっていて、だから言ってしまったのよ。カティス家に預ければどうかって。リアンナ・カティスは私の親友だから、大丈夫だって。」
母は大きく息をついた。
「結果はひどい事になったわ。カティス子爵は、ケルター子爵領の民を最前線で死に追いやったのよ。そればかりか、カティス領へ行って、帰ってこない者まで出てきた。オーガス侯爵に任せていれば、誰ひとり掛けることなく、帰って来れたのに。私が余計な事を言ったばかりに。何百人も死なせてしまった。」
シンシアは母をただ見つめた。それがわかっていて、どうしてカティス子爵家と親密に付き合っていたのか。
「怖くて、領地にいられなくなった。それで王都で長く過ごすようになったの。リアンナと友人付き合いを続けていたのは、カティス領に、ケルターの民がいることを忘れさせないためよ。つながりが切れてしまったら、帰してもらえないかもしれないと思ったから。」
「お母さま。」
シンシアは母の告白を止めた。
「逆でしょう。友人としてこれまで通りに付き合っていたら、問題は何もないとカティス子爵夫人は考えたと思います。」
「そうね。きっとそうね。いつでも私が許すと思って。だから、こんな手紙を送り付けられるのよね。」
「私がエレーナに怪我をさせられた時も、ケルターの民を思って許したんですか。」
「ごめんなさい。」
母なりの最善をつくしていたのだろう。
シンシアは出そうになるため息をなんとか飲み込んだ。
情けない気持ちがこみ上げてくる。
「ロークのための口添えは出来ないと、返事は出されたのですね」
念のため、確かめた。
「出したわ。」
憔悴している母には申し訳ないが、もうひとつ問題が残っている。
「お兄さまはエレーナのことを好きみたいですけど。」
今日この部屋に来て初めて、母がシンシアをみた。目の中に何かを乞う色がある。
「私には、何も出来ません。」
頼まれる前に断った。エレーナを自分の世界の中心にしているディーンと、こんな話はしたくない。
「どうなるかしら。」
「お兄さまは、十六年前の事をどう思っているのでしょう。」
母が困り果てた顔をした。
「私、怖くて、この話はしたことがないわ。」
「私も、お兄さまからは聞いたことがありません。」
「ディーンからは? 他からは聞いたの?」
驚く母に対して、シンシアの方も驚く。知らないとでも思っていたのだろうか。
アディード王国はあれから戦争をしていないが、国境線に緊張感が走る度に、あの戦争のことが話題になる。
「知っていました。友人たちが話題に出すこともありますし、領地にいれば自然に耳に入ります。」
「そう、知っていたのね。そうよね。いろいろと知っていて当然よね。」
母が俯き、大きなため息をつく。
「ディーンは、それでもエレーナを愛しているのね。」
シンシアは、まさかの可能性を口にした。
「知らないってことは、ないですよね。」
沈黙が続いた。
「いいえ、まさか! 二人の間には、深い深い愛があるのよ。どんな困難も乗り越えられるだけの愛が!」
いつもの母の調子が戻ってきた。
「そうですよね。」
反論したくても出来ない。
兄の覚悟がどこまでなのか、シンシアには全くわからなかった。
「それにしても、どうしてロークの処分にこんなに時間がかかっているのかしらね。」
母の疑問は、シンシアの疑問でもあった。
シンシアは、父のことを思った。どんな考えと覚悟があるのだろうか。
母は自分の気持ちが話せてほっとしているようだ。
けれど、シンシアは知っている。本当の危機はこれからやって来る。
家族それぞれの考えがぶつかり合うのは、その時なのだ。
 




