オレンジと噂
王城を去りがたく思うことはなかった。
誰もが親切で、丁寧な看護を受けたけれど、その分シンシアも大人しくしていなければと緊張してしまったからだ。
アルティアは滞在中、二度お見舞いに来てくれた。セアラの言った通り、王城の客室を堪能していた。
無事にケルター邸に帰って来ると、家族も使用人も、安堵したようだった。
キリカはその日ずっと潤んだ瞳のままで、あれこれとシンシアの世話を焼いてくれた。
お医者様の言う通り、大人しく休み、苦い薬湯を飲み続けたおかげか、怪我はゆっくりと回復していった。
カイルからは、いろんな花が届くようになった。
最初はセアラから聞き出したようだ。セアラの迷惑そうな顔が目に浮かぶ。一緒に届いたカイルの手紙には、セアラが本当のことを教えてくれているか疑っていて、笑ってしまった。そう思うなら聞かなければいいのに。
返事には、シンシアが好きな花をいくつか書いた。
ソファで一日を過ごせるようになった頃、アミタと約束していた日がやってきた。
「その節は父の無礼に対し、寛大なお心をお示し頂きありがとうございました。」
最初に、アミタは深く頭を下げて謝罪した。
ランクール邸での茶番劇が、随分と前のような気がした。まだひと月と経っていないのになんて多くのことが起こったのだろう。
「頭を上げて、アミタ。ケルター家はランクールとの取り引きを止めてしまったけれど、他で大きな損害を出してない?」
執事からは、ランクールは次の注文を取ろうと悶着を起こすことなく帰ったと聞いている。
アミタは顔を上げたものの、申し訳なさそうな表情は変わらない。
「もともと貴族の方々とのお取引はそう多くはありませんでした。シンシア様が父の件を見逃して下さったおかげで、ランクールは庶民向けという元の方針に戻ったと、商人仲間からも思われているようです。感謝いたします。」
悪い噂が出ていないのなら良かった。ランクール商会会長には良い印象は持てないが、商家を一軒潰すようなまねはしたくない。
「では、あれはなかったことにして、今後ともよろしくね。」
「はい。」
やっとアミタが微笑んでくれた。
「結婚するって、セアラから聞いたわよ。」
みるみる頬を赤らめていくアミタを見て、シンシアもカイルのことを言われている時の自分はあんなふうなんだと自覚する。
なんだかふたりで恥じらっていると、お茶をテーブルに置いていたキリカが笑顔で質問攻めにしてきた。
「アミタさん、おめでとうございます。お相手はどんな方ですか? お式はいつですか? その方も商人なんですか? お仕事やおやめになりませんよね。」
「キリカ。」
少し咎めるように言うと、キリカは一応謝りはしたものの、大事なことですと答えを求めてゆずらない。
「アミタさんがお仕事を止めてしまったら、大変です。」
キリカは真剣だ。アミタは、まだ赤い顔のままだったが、力強い答えを返した。
「女性向けの雑貨商はやめません。夫になる人はまだ若い学者ですから、家計のためにもやめられません。」
「ディアノはそういうこと、考えてなさそうだものね。」
シンシアが、アミタの婚約者の顔を思い出した。きれいな顔をしていたが、神経質そうで自尊心の高い、負けず嫌いな人だった。アミタの話にだけは素直に耳を傾けていたのが印象的だった。
「私が考えるからいいんです。」
アミタが誇らしささえ含んだ笑顔を見せた。
「ディアノはアミタの言うことだけは聞くものね。不思議だった。」
またアミタが真っ赤になった。
「それは…」
「それは?」
シンシアとキリカは、アミタの言葉を待つ。
小さな声が答えた。
「餌付けしたんです。」
「餌付け?!」
声を上げたのはキリカだ。けれど同じくらいシンシアも驚いていた。
あの自分は孤高の存在だといわんばかりだったディアノを、餌付けしたとは。
アミタをまじまじと見てしまう。
「殿方の心は胃袋で掴めと、兄が言ったので……。」
だんだん声が小さくなる。
「その法則は、やっぱり有効なんですねぇ。」
キリカが感心してる。
カイル・キルティにも有効だろうかと思ってから、考えるだけ無駄だとシンシアは内心苦笑した。
シンシアは料理をしない。
「お祝いをしなくてはね。」
アミタより、キリカの方が期待に満ちた顔を見せた。キリカは、ランクール会長の件で、一番損をしたアミタの一番上の兄を気の毒がっていた。オレンジの取り引きは、結局その兄に任されるだろうと思っている。
けれどシンシアはアミタの兄を知らない。取り引きをやめた時の引き際の良さは評価できるが、シアーズで育てている大事なオレンジを簡単には渡せない。
「オレンジの取り引きをしましょう、アミタ。」
アミタは少し言葉に詰まったようだった。
「…よろしいのですか?」
「ただ、セアラのオレンジは出せない。」
神妙な顔でアミタは頷いた。
「はい。」
「ケルター家の、果樹園のオレンジも美味しくなったのよ。それから料理用の柑橘類のカースも。王都ではまだ十分な量が出回っていないでしょう。これも売りたいの。」
「どれくらいの量を出荷したいとお考えですか?」
アミタの目が鋭くなった。それにシンシアは微笑んだ。
「どれくらい売れる? オレンジはともかく、カースならケルター領の至る所にある。どれくらい欲しい?」
「一万、お願いできますでしょうか。」
即答された。シンシアも即答できる。
「いいわ。」
アミタが少し困った顔をしている。
「あの、オレンジの方は。」
「オレンジの方は、確約できないわ。天候次第だから。今のところは一万なら大丈夫。」
「はい。」
これも即答だ。
「お兄さまと相談してきた?」
シンシアが少し軽い口調に変えると、アミタの肩から少し力が抜けたのがわかった。
「はい、一番目と三番目の兄と相談しました。シンシア様がお許し下さるなら、絶対お受けしようと。」
無礼を働いた二番目の兄は外されたようだ。
「今回はアミタへのお祝いだから、今年限りの取り引きよ。どんなふうに誰に売るか、私が納得出来たら来年からも任せるわ。」
「シンシア様にご報告しなければいけないということですか?」
アミタが少し眉を寄せた。商人としての矜持を傷つける行為だっただろうか。けれど、シンシアも友達付き合いがあるからと安易に話に乗ってはいけないと、他ならぬアミタの父から思い知らされた。
「ケルター領にとって、オレンジは大事な産物なの。」
アミタがゆっくりと頭を下げた。
「シンシア様のご期待に添えるよう、兄たちとも相談いたします。」
「ありがとう。」
それからは、いつもの袋物や鞄に刺繍する秋の花や、その他の手工芸品についての打ち合わせとなった。
終わった頃、シンシアはキリカにお茶を淹れなおしてもらって、人払いをした。
キリカがドアを閉めるのを確認してから、アミタに向き直る。
「少し聞きたいのだけれど」
アミタは、シンシアからいつもと違うものと感じているのかもしれない。少し緊張した顔をしていた。
「セアラのこと、どう思う?」
「セアラ?」
アミタは何だか気が抜けたような顔をした。
ふたりだけになると、気の置けない友人同士の口調になるのはいつものことだ。
「どうって言われても、セアラが王城の見習い侍女になってからはほとんど会ってないわ。商品の注文の手紙は何度か貰ったけど、送り先はいつもディパント邸だし。その手紙にも特に変わったことは書いてなかったと思うけど。」
アミタはシンシアの顔を伺った。
「セアラがどうかしたの?」
「なんとなく」
「なんとなく?」
シンシアは頼りない気持ちになる。気のせいだろうか。
「セアラが隠し事をしているような気がして。」
アミタが呆れたように息をついた。
「なんだ、そんなこと。当たりまえじゃない。」
「当たりまえ?」
「そうよ。王城で起ったことは決して口外してはならないって、末端の下女にまで約束させるのよ。セアラがどなたの侍女をしているのか知らないけど、墓場までもって行かなければならない秘密があっても、不思議じゃないわ。」
政治とか名誉とか、そういう言葉が出そうになって危うく止める。あれはロークのことだった。セアラ自身が関わっていると言ったわけじゃない。
「セアラ、いつ王城を出るの?」
緊張感からすっかり解放されたようなアミタがお茶を手にのばしてる。
「来年の春までみたい。」
「来年? この春で終わりだったんじゃないの?」
「一年延長されたって、落ち込んでた。」
「可哀相。来年春には、第一王子が留学から帰ってくるでしょう。そうしたら、すぐ結婚式と立太の儀があるから準備で大忙しよ、きっと。」
シンシアは怪我をした時のことを思い出していた。
侍従や侍女の他、騎士たちがいて、あの場で采配をとったのはセアラだった。みんなそれが当たり前のようだった。
あの調子で来年の大きな行事のために走りまわらされるのだろう。
考えることが多すぎるっていうのは、このことだったのだろうか。どこか釈然としない。けれどセアラと会っていないのなら、アミタは何も感じ取っていないのかもしれない。
セアラの話は終わったと思ったのか、アミタはゆったりとお茶を楽しみながら、笑顔を見せた。
「シンシアが改まったりするから、怪我をした時のことを話してくれるのかと思ったわ。」
「あ、それは……。」
口ごもると、彼女はにっこり笑った。
「いいのよ。言いたくないことは、言わなくて。でも」
アミタが少し身を乗り出した。
「どんな噂が流れてるか、知りたくない?」
「噂? それってどこで? まさか街で?」
思わず声が高くなってしまった。アミタは平然としている。
「そう、王室主催の夜会は一番人が集まる社交場よ。しかも騎士が未婚の淑女に怪我をさせたとなると、噂が広がらないわけないわ。」
「知らなかった。」
シンシアは呆然と、無意識に右腕を左手でそっとさすっていた。
「シンシアは大事にされてるから、心配させないように皆黙っていたのではないかしら。けど、私みたいな悪い友達がいるから、世間から取り残されずに済む。」
アミタが悪ぶってそういうけど、迫力はない。
「うちの者たちは、アミタより、セアラの方が悪影響を与える友達だと思ってるわ。」
そう言っておいてから、先を促した。
「なんて言われてるの?」
「ローク・カティスとシンシアの名前は出てるわ。街の人たちは、シンシアに同情してるから、ケルター家の人たちは心配いらないわよ。問題は騎士ローク。」
憮然とした表情のアミタからより多くの事を知ろうと、シンシアは彼女をじっと見つめる。
「王都見廻りに降格っていう話がでているの。けど、街のいろんな代表格の人たちが反対しているのよ。貴族のご令嬢に暴力を振るうような騎士は、自分たち庶民に何をするかわからないって。」
驚きをなんとか封じ込めた。
ローク・カティスの処罰はまだ決まっていなかったのか。
いつまでたっても父や兄がその話をしないわけだ。シンシアが知る必要はないと思っているのかと考えいていた。けれど決まっていないなら話しようがない。
王都見廻りか北方辺境かと、セアラが話してくれたのは怪我をした翌日だった。もう十日以上経っている。
「カティス家が評判を落としているのは確かよ。自分から潔くどこかの辺境へでも行くといえばいいのにって、言ってる人もいる。」
アミタが持っていたカップをテーブルに戻した。少し迷うように目を彷徨わせてから、アミタはシンシアから視線を外した。
「カティス家と断絶していないケルター家の、シンシアの前でこんなことを言うのは気が引けるけど、カティス家は十六年前の戦争から評判が悪いの。」
戦争の話が何を意味するかはわかる。
「ケルターの領民たちが多く亡くなったせい?」
「庶民としてはそれが一番大きい。カティス子爵の下に配属されたら、いつ自分がそんな目にあうかもしれないもの。」
「一番、ということは他にもあるの?」
「カティス子爵を英雄だという人たちにも警戒をしてしまうわ。」
戦争の英雄。恐れを知らず、大将軍に従った勇気の持ち主。カティス子爵のことをそう言う人がいるのは知ってる。
「そう言う人たちも、私たち庶民を粗雑に扱う人だと思える。」
アミタはため息をつき、ソファに背を預けると、天井を眺め始めた。
「王家がカティス家に与えた銅山採掘権も脅威だわ。銅は王家が買い上げることになってるけど、カティス家が銅を隠し持っているって噂は、商人たちの間では信憑性が高いとされているの。その銅が市場に出てきたら、物の値段がどうなるか。」
カティス家が、ケルター領民を帰さず採掘に従事させていることも、王都の人たちは知っているのかもしれない。
自分からは言うことが出来ず、シンシアは沈黙するしかない。
「ケルター子爵はどうして怒らないんだと言う人もいるわよ。」
目を見張ってしまった。確かにそんな噂があってもおかしくない。
「そうすれば、ケルター家のお嬢さまが二度も大怪我をすることはなかったのにって。」
「アミタ。」
しばらく声が出なかった。
「二度目の怪我って、皆知ってるの?」
アミタが沈んだ表情を見せた。
「カティス家に関することは、噂になりやすいのよ。エレーナ様が王城の見習い侍女になれたのも、裏金が動いたんじゃないかって言われてる。」
知らなかった。けれど。
「知らなかったのは、私だけね、きっと。」
大きくため息をついた。
「シンシアは大事にされているから。」
また言われた。自分が思っている以上に世間から離されたところにいるのかもしれない。
「セアラ、あんなに口が悪いのに、教えてくれなかった。」
つい責める口調になる。
「セアラは、あれでいて伯爵令嬢だから。根拠のない噂話はしないのよ。」
アミタは笑った。
「でも私は庶民だからね。シンシアに関する噂は耳に入れておくわ。」
首を傾げたシンシアに、アミタはわざとらしく部屋を見回して見せた。
「たくさんの花ねぇ。どなたからのお見舞い?」
「いろんな方からよ。」
まさかと思う。この部屋の花は、カイルからのお見舞いだけでないのは嘘じゃない。
アミタは含み笑いでシンシアを見た。
「カイル・キルティ卿が駆けつけて来て、さっと抱き上げて、助けてくれたんでしょう。」
「まさか、まさかそんな噂が街に?」
事実と少し違う。けれどそう言えば、微に入り細に入り説明させられるだろう。
アミタが大きく頷いた。
「大丈夫。誰にも言わない。シンシアの部屋は、キルティ卿からのお見舞いの花でいっぱいだなんて。」
「アミタ!」
深刻な空気は吹き飛んでいた。
とにかく話題を変えなければ、商人にはやっぱり商談が一番のはず。
「ガラス瓶が欲しいの、蓋付きの。」
唐突な話題の持ち出し方に、アミタが少し首を傾げた。
「ガラス瓶?」
「そう、カップくらいの大きさの。百個ぐらい。なんとかならない?」
百と聞いて、アミタに商人の冷静さが戻った。シンシアは内心でほっとする。
「同じ形のものよね。一度に揃えるのは難しいかも。兄に相談してみるわ。明日中に連絡する。」
「ありがとう。」
カレイド・ジャムを、今年は友人たちに贈ることにした。レシピが漏れても構わない。『カレイド・ジャム』という名前を定着させることを先にすることにしたのだ。
「ガラス瓶で何をするの?」
「贈り物を入れるの。アミタにも贈るわ。楽しみにしてて。」
これからの一年で、アミタの兄たちにも紹介してもらおう。互いに信頼が築けるようなら、来年は大事なオレンジとカレイドジャムを任せる。
この夏、問題を解決するためにディーンが領地管理者となるだろう。ディーンにどう納得してもらうか。
難題がどんどん増えていくような気がした。