夜会 2
彼は、ディーンの恋人エレーナの次兄だ。
エレーナとは挨拶くらいはする、というか挨拶しかできない。
エレーナの側にディーンがいるときは早々に追い払われるし、それ以外の時はエレーナがすぐにディーンを探しに行ってしまうからだ。
彼女のふたりの兄とは怪我をした日以降、話をしたことはない。
それが今、どうしてこんなに怒って自分の前にいるのかわからない。
「社交界デヴューをしたとたん、腕は治ったのか。」
怒りをはらんだ言葉を投げつけられた。
シンシアにはとっさに何を言っているのかわからなかった。怪我をしたのは肩だ。
「失礼ですけれど、どちらのご令息?」
オーガス侯爵夫人がさり気なくアルティアを背後に隠し、穏やかに尋ねた。
「カティスです。ローク・カティス。」
一緒にいる侯爵夫人にまで無愛想に言う。しかも侯爵夫人を全くみていない。
これで彼のご婦人内での評価は確実に下がるだろう。オーガス侯爵は、カティス子爵より遥かに高い地位にいる。
「申し訳ないが、こちらの人に話がある。」
年長者に対して無礼な言葉遣いでロークが言い放った。
シンシアの方が慌てる。
「ロークさん、こちらは…」
「話があるのはお前だと、言っているだろう。」
侯爵夫人であることを伝えようとして遮られた。
いきなりぶつけられた強い怒りに身動きできなくなる。
「随分楽しそうに踊っていたじゃないか。今までは身動きひとつ満足に出来ないような顔をして、エレーナのせいだと吹聴していたくせに。」
ロークの声がだんだん大きくなる。彼が怒りを制御できなくなっていく様を、シンシアは恐怖で身を固くしたまま見ていた。
思い出した。
怪我をした時、彼らはシンシアが悪いと言ったのだ。エレーナが親切に遊んでやったのに、避けなかったシンシアが悪いと言った。
彼はまた、シンシアに全く覚えのない罪を言い立てている。
「大怪我などと嘘を言って、どこまでエレーナを傷つける気だ。もう我慢ならない。確かめてやる。」
彼の大きな手が伸びてきた。シンシアの右肘を掴むと上に引っ張りあげられた。反射的に体をそらしたけれど間に合わなかった。
肩で、嫌な音がした。それと同時に痛みがくる。
「シンシア!」
オーガス侯爵夫人の悲鳴のような声が、シンシアがあげた息が詰まったような声をかき消す。
シンシアは戻って来た右腕を抑え、前かがみになったまま動けなくなった。オーガス侯爵夫人が左肩を支えてくれるが、もう、ただ痛くてどうしたらいいのかわからない。
お母さま、心の中に出てきたのは母への呼びかけだった。頼りにはならないとわかっている。最初の怪我の時だって、ただうろたえているだけだった。だけど最初に呼んでしまうのは、母だ。
「誰か」
オーガス侯爵夫人が、声を上げてくれている。
「しっかりしてシンシア。」
アルティアがそっと背を撫でてくれる。
今、シンシアの視界は低い。人の足元しか見えない。けれど、あんなに人がいたのに、今シンシアたちの周りに人がいない。後から知ったことだが、シンシアを中心に円を描くように人が避けていたのだ。
「シンシア!」
そんな空間に人が入って来た。
「あぁ、セアラ。来てくれてよかったわ。」
安心したようなオーガス侯爵夫人が聞こえる。
頼りになる友人が来てくれた。
それと同時に今まで視界から消えてきた人の姿が戻って来る。
「シンシアの右肩で音がして。」
「見えてました。医務室に行きましょう。」
オーガス侯爵夫人の説明は短く、セアラの答えも短い。
セアラはシンシアに声をかけて来なかった。他の誰かに指示を始める。
「カイド伯爵家のレッド卿を探して医務室に連れて来て。ナプキンを十枚ほど持ってきて。医務室に先に行って、シンシア・ケルターが肩を痛めたと伝えて。ケルター子爵夫妻とご子息を探して、医務室に案内して。侍女長と女官長に事情を伝えて。」
セアラが何か言うたびに、集まっていた人が散って行く。そういえば男女を問わず同じ色の服を着ていた。女官や従僕だったのかもしれない。
「近衛のラフィン…」
と、セアラが言いかけた時だった。
「シンシア!」
名前を呼んで走り込んで来た人がいた。
さっきまで一緒にいた人。カイル・キルティだ。
「カイル。一緒に来て。」
セアラが頼んでいる。
「もちろんだ」
それからまた別の声が入って来た。
「失礼。どうしました。」
それにもセアラが応対する。
「シンシア・ケルター嬢が暴力を振るわれ、怪我を負わされました。私は加害者を見ていませんが。」
ロークは逃げてしまったらしい。
「カティス子爵家のロークよ。自分でそう言ったわ。」
怒りを含んだ侯爵夫人の声が告げた。セアラの冷静な声が後に続く。
「私はセアラ・ディパンドです。近衛のラフィン卿に第二通路を使って医務室へ行きますとお伝え下さい。」
「わかりました。他に誰か呼んで手をお貸ししましょうか?」
「大丈夫です。後をよろしくお願いいします。」
「お気をつけて。」
足早に去って行った。
「シンシア。」
優しい声が耳に入った。セアラが膝をついて、シンシアの顔を覗き込んで来てる。
痛みにゆがんだ顔を見せてしまうが、シンシアに取り繕う余裕はなかった。
「これから医務室に行くわ。」
「私が抱き上げ…」
「少し待って。」
キルティ卿の言葉は、セアラに遮られる。
「シンシア。右肩、出来るだけ固定するわね。」
セアラが、シンシアの不自然に前にずれている右肩をナプキンで覆う。両端にまた何枚か結んであるようだ。
左脇から、右わきに戻って結ばれた。
「シンシア、これからカイルに抱き上げてもらうから。」
こんな時なのに、シンシアは真っ赤になってしまった。
「痛いけど、頑張って。」
シンシアがなにも言えない間に、セアラが進めてしまう。
「カイル、オーガス侯爵夫人と場所を変わって。一回でしっかり抱き上げてよ。失敗したら、沈める。」
「どこへだよ。」
キルティ卿が言いながら、オーガス侯爵夫人と入れ替わる。明らかに大きな人に変って、動揺する。
「シンシア、痛い思いをさせるけど、ごめん。」
キルティ卿の労わる声がかかり、背中と足元に手がかけられる。
「カイル背中と右肘を私が支える。もう少し下を支えて。」
セアラが言いながら、シンシアの後ろにまわる。言った通りの場所に手が添えられる。
背中の上の方にあったキルティ卿の手が少し下がった。
「カイルに合わせる。」
「わかった。」
キルティ卿の合図とともにシンシアの体が浮き上がった。セアラに背中を押され、シンシアの上半身は、キルティ卿の腕の中に無事におさまった。
「あぁ、良かったわ。キルティ卿は内宮の池に沈まずに済むわね。」
オーガス侯爵夫人は冗談が言える余裕がでてきたようだ。
痛いと言う声は飲み込めなかったが、セアラが褒めてくれた。
「頑張ったわね、シンシア。揺れるからまだ痛むけど、自分で歩くより速いからね。」
「いたい。」
小さく訴えると、セアラがそっと柔らかな布のハンカチを目元にあててくれた。
「行こう。」
キルティ卿が歩き出す。
「オーガス侯爵夫人、近衛のラフィン卿に証言して下さい。今日の責任者です。アルティアも頑張って、お願いね。」
セアラがそう言い残し、シンシアの前にやってくる。セアラはかなり速足になっている。本当にすごく速い。
「第二通路って何だ。」
キルティ卿が、前を歩くセアラに聞く。
「時々あるのよ。急病人とか、いろいろ。人が溢れているところを通ると時間がかかるでしょう。だから、いくつか、利用禁止の通路をつくってあるの、緊急事態に備えて。」
急に女官や侍従ばかりのところに入った。
ドアの前に騎士が立っている。
「内宮見習い侍女のセアラ・ディパントです。怪我人がでました。利用させて下さい。」
「どうぞ。」
すぐに肯定の返事が返って来た。四回、特徴的な間のノックがされて、ドアは開けられた。
向こう側にも騎士がいた。
「お手伝いしますか?」
キルティ卿の腕の中のシンシアの様子を見て、怪我人と察したのか申し出てくれる。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
セアラが断った。その間にもキルティ卿は歩き出している。
「カイル、次の角を右、右よ。」
追いかけてくる声を置いて、運ばれていく。
角を曲がると、開いたドアを押さえ、従僕の制服を着た人が立っていた。
「こちらにお医者さまがいます。どうぞ。」
「ありがとう。」
キルティ卿が感謝を伝えてくれる。
シンシアが、その人を見ると労わりを込めた目で静かに会釈をしてくれた。
セアラが入って、ドアが閉められる。
「肩を痛めたって?」
中にいたのは、まだ若い医師だった。説明はセアラがしてくれた。
「バード先生。彼女はシンシア・ケルターです。十年前に右肩を骨折していて、肘が肩より上にあげられないんです。後ろにも動かしにくくて、腕が重いので、普段は右腕を吊っています。なのに、ローク・カティスが何を勘違いしたのか、彼女の肘を持って、前から思いっきり上にあげたんです。側にいた人が、シンシアの肩から音が聞こえたって言っていました。」
シンシアはそっと椅子に降ろされた。キルティ卿が寄りかからせてくれる。
痛みでもう恥じらう余裕はない。
「触るよ。」
バード医師がひと言告げて、触れてきた。
「いっ、たい。」
どこを触られても痛い。
「脱臼しているけど、折れてないようだ。良かった。」
その声に安堵が混じっているのがわかる。
「主治医はレッド・カイド卿なんです。今日の夜会に来ていると思って、探すように頼んであるのですが。」
セアラが必要な事を全部言ってくれた。
「カイド卿はこういう怪我にお詳しいですからね。すこしだけお待ちしましょう。」
バード医師がそう答えた時だった。
大きな気忙しいノックがあって、ドアが開いた。
「シンシアが怪我したって?」
「カイド卿。」
セアラが安堵の声を出したが、シンシアも同じ思いだ。十年前、なんとか腕が動くようになったのは、この先生のおかげだ。
「シンシア、診てやるからな。」
涙がこぼれる目で見上げると、父親より少し歳が上の医師が笑顔で見下ろしていた。頭に手を置きかけて、止まる。
「すっかり大人になって、こんなふうに髪が結われていたら、撫でてやることが出来ないじゃないか。」
すこし笑えた。
ふたりの医師が話をしている間、セアラがシンシアの目の前に膝をついて目線を合わせてくれた。
「内宮の侍女をやってて良かった。今日の警備担当者や、緊急連絡路を確認してたから。」
「それで、騎士たちがあっさり通してくれたのか。」
キルティ卿が話に入って来る。
「そう。一年いれば顔馴染もできる。」
セアラがシンシアを見て痛そうな顔をした。
「痛いわよね。」
「いたい。」
小さくつぶやく。
「今、痛み止めを作ってくれてるわ。」
「きかない、きっと。」
シンシアの言葉に、気丈なはずのセアラの目から涙があふれそうだ。キルティ卿の背中にまわっていた手がこわばったように揺れた。
主治医のレッド卿がシンシアの側に戻って来た。
「シンシア、ゆっくり戻すしかない。眠りやすい痛み止めの薬をまず飲んでから、始めような。」
「はい。」
ちいさな子どもに戻ったように、頼りなげな声しかでなかった。
治療が開始され、シンシアが痛みに泣きながらセアラの手を掴んでいる間に、近衛騎士ンのラフィン卿がやってきてバード医師に説明を聞いて帰って行った。
それから侍女長と女官長が相次いでやって来た。
説明はキルティ卿がしてくれた。
「王城の客間を準備したほうがよさそうですね。」
侍女長が部屋を出て行き、しばらくしてからまず兄が、そして両親がやって来た
セアラは両親が来た時に場所を変わろうとしたようだが、母がシンシアの様子に動揺して倒れかけ、父がその母を支えて、側に来るどころではなくなった。
セアラの手はずっと離れなかった。
薬が効いてきたのかもしれない。シンシアの意識はそこでなくなった。